とある仙女の回顧録

相内充希

とある仙女の回顧録

 雲一つない澄んだ青空。

 はらりと桃の花が舞い散ります。

 それはあの日とよく似た光景で、今にも鈴を転がすような、あの愛らしい声が聞こえてきそうです。


「ねえ、凛風りんふう様。旅立ちにはもってこいの日だとは思いませんか?」


 あの日の美羽蘭みうらんはそう言って、晴れやかな笑みを見せました。それはすべてを吹っ切ったような清々しい笑みに見え、わたくしは、

(ああ。引き留めることなどできない)

 と、伸ばしかけた手を止めたのです。

 旅立ち――それが、彼女という存在が消えてしまうことだとしても……。


(私の兄が腰抜けなばかりに)

 と、苦々しい思いでいっぱいになったのを今でもよく覚えてます。

 それでも兄の劉帆りゅうほがこの地で守り人の役を勤め続けたのは、ほかでもない私のためだということを痛いほどわかっていました。ですからどんなに口惜しくても、当時まだ力のなかった私にはどうすることもできなかったのです。


「それでも……あのようなことになると知っていれば、なんとしてでも止めたでしょうに……」


 守り人とは、死んだ人の魂が次の生を受けるまでの道「輪廻」からはずれ、迷ってしまったものを保護する役目を持つ者です。


 私も兄も、元は人でございました。

 ですが、幼いころ海に流された私を探した兄は、私が輪廻から私が外れていたことを知り、保護するべく人であることから離れたのでございます。

 どこにも行けず、ただ彷徨い続けていた私を、兄は見つけてくれました。そうして輪廻に戻してもらった私は、三度人として生き天寿を全うしたのでございます。


 本来浄化され消えてしまうはずの記憶を微かに持ちながら……。


 そこで私は徳を積み、仙女の長であらせられます主様にお仕えし、天界で仙女として修業を重ねました。それもこれも、人でも仙でもない兄を救えればと考えたからでございます。

 私のせいで、世界のどちらにも属さない存在となってしまった兄。


「この仕事も楽しいから、おまえは気にしないでいいんだよ。幸せになってくれさえすれば、それでいいんだ」


 そう言って笑う兄の目に、偽りの色は見えません。

 事実、私が輪廻に戻り、やがて人の世を離れ仙女になることを選んだことも、私の意志で求めたものであるならばそれでいいと思っていたようでございます。そして、私と同じように迷った魂を救う仕事も、兄の性にあっていたのでしょう。


 兄の住まいは四海山の頂上にございます。

 碧羅国の東に位置するこの山はその名の通り、頂上から四つの海を見渡せる高く険しい山でございます。そこに、輪廻から迷い出てしまった魂や、人の世に戻るには疲れ切ってしまった魂が休めるお宿と、亭主である兄の住まう庵があるのです。

 いつの頃からか朱桃庵と呼ばれるようになったここは、人の世で言う湯治場のようなものでございましょうか。


 静かで穏やかな宿。そこの主人である兄は、見た目は二十代半ばほどにしか見えません。

 烏の濡れ羽色の髪は背中の中ほどまで流れ落ち、端正な面立ちは黙っていれば冷たい印象を持たれることでしょう。ですが兄はいつも穏やかな表情をたたえている上、少し下がり気味の眉がとぼけた印象を与えます。

 妹の私から見ても、いい男でしょう? と自慢できる兄です。

 長い月日の中で、若い娘が兄に熱をあげる様を、私は何度も目にしました。


 その恋心が未来へ向かう力になるのならば。

 そう思っていたかどうかは分かりませんが、兄はそれらの女性を誰一人として受け入れることはありませんでした。そう。美羽蘭のことも。


 彼女は、はじめは宿の客として。次に宿の手伝いとなった女の子です。

 年は二十一(ここでは、亡くなった年から増えることはございません)。

 少し癖のある髪を気にする、ごく普通の女の子。働き者で、いつも楽しそうに宿の客や兄の世話をする、笑顔を絶やさない可愛い子でございました。


 私が遊びに来ると、いつも庭の桃からこしらえたという、香りのよいお茶を出してくれたものです。美羽蘭は、相手にあったお茶を作り、淹れることがとても上手でした。


 そんな彼女の屈託のない笑顔に、切ない色が混じり始めたのはいつの頃からだったでしょうか。いつも冗談のように、

「劉帆様、大好き」

 と言っては、子どものように笑ってた美羽蘭。

 兄は「はいはい」とか「ありがとう」とか、他の女性にするのと同じ返事を返していました。まるで小さな子どものような扱いです。


 ですが兄は、確実に美羽蘭に惹かれておりました。

 それでも、そんな心を自分で認めることが出来ずにいたのです。


 私はもう大丈夫だから。

 兄は人の世に戻るなり、天界で仙人になるなり、自分の道を選ぶこともできたのに。普段勇敢で優しい兄は、恋にはめっきり臆病だったのでございます。

 それとも、兄に愛の言葉を告げながら、相手にされないと知るや人の世に戻る女性たちと同じだと、端から諦めていたのでしょうか。


 とはいえ、美羽蘭のめげない告白攻撃は止むことがないように思えました。

 その根性と微笑ましさに天界では、「劉帆がいつ美羽蘭に落ちるか」などという賭けも行われてましたので、私も兄に余計な口出しはできません。それによって賭けに負けた人が文句を言うのは目に見えてますでしょう?

 でも、賭けの内容は「いつ」なのであって、「成就するか否か」ではありません。二人が結ばれる日のことを、皆心躍らせながら見守っていたのでございます。

 楽しい日々でした。



 そんなある日。

「私は、人の世に戻ろうと思います」

 主様のもとで美羽蘭がきっぱりと申し出たのは、風の強い日のことでした。

「兄様はそれを……?」

 動揺し、主様のおそばでオロオロとそう尋ねる私に、他の仙女はおろか、主様さえも頷いております。ですが美羽蘭は「はい、もう伝えました」と言うではありませんか。

「まさか、そんな」

「いえ、本当です」

「兄はなんと?」

「そうかと、それだけ」


 ああ、なんて不甲斐ない!

 しかも、次の輪廻の扉が開くのは明朝。きっと彼女はそれを見越してそう言ったのでしょう。煮え切らない兄への未練を断ち切るため、迷う時間を残さないように。


 彼女の決意が固かったため、見送りは私が行うことになりました。

 翌朝は、昨日の風がすべての雲を払い、恨めしいほどの晴天です。

 美羽蘭は「旅立ちにはもってこい」だと笑い、庵のほうをちらりと見ます。兄が見送りに、あるいは引き止めに出てこないかと思ったのでしょう。自分で絶対に来ないでくれと言いながら、本当は引き止めてほしい。その心が痛いほど分かります。


「なぜ今なのですか?」

 思わず聞いてしまった私に、彼女は驚いたような顔をした後小さく微笑みました。

「二十一回目の春ですから」


 その答えに一瞬首を傾げ、すぐに得心がいきました。

 彼女がここに来て、兄に恋をしてから二十一年もの月日がたっていたのです。

 天にとっては大した日々ではありません。ですが人の心が強く残る彼女にとっては長い日々。


「この恋に希望がないことは、初めから分かっていたんです。でも私にとっては初めての恋だから、自分の人生と同じ年月だけ頑張ってみよう。初めからそう決めていたんです。それ以上はもう」    

 嫌われたくないから……と、吐息のような呟き。

「そんなことは!」

 ありえないと言いたかった。

 ですが少し目を閉じた後空を見上げた彼女の目に、もう迷いはありませんでした。馬鹿な兄は稀有な女性に見限られたのです。



「では参りますよ」

 私が右手を空にかざすと、雲の道が現れます。

 美羽蘭は丁寧に礼をすると、振り返ることなく輪廻の輪に戻りました。


 人の世に戻れば全て忘れ、新しい人生が始まります。

 私はどうしても彼女が気になって、常に人の世を覗くようになりました。天界のものは人の世にそうそう干渉することはできません。ましてや一仙女程度では、覗き見するのがせいぜい。


 悲しいことに、彼女は何度生まれ変わろうとも非業の死を遂げました。

 ある時は病に倒れ、ある時は戦に巻き込まれ。またある時は、彼女に執着するものの手で……。

 二十一年。その年でさえ越すことが出来ないのです。

 私がこっそり授けた護りの力さえ、呪われたかのように役に立たない始末。


 ですが彼女は朱桃庵を訪れることはございませんでした。いえ。実は一度だけ、迷った魂を連れてきたことがございますので、彼女の中にここの記憶が残っているやもしれません。ですが兄にその魂を預け一瞬だけ何か呟くと、何事もなかったよう輪廻に戻り――そして今もまた、人の世に戻っていこうとしています。


 ついに私が兄を叱咤しようとした矢先、兄は私に「人の世に戻ろうと思う」と言いました。ようよう考え、ついに観念したのでしょうか。


「人の世に戻っても、彼女に会えるとは限りません」


 記憶はすべて消えます。まれに私のような例外もありますが。

 それに今のようにバラバラに戻ったところで、彼女と会えるかどうかも分からず、ましてや結ばれる確率は限りなく無に等しいのです。

 もしもう一度彼女が天界に来るのを待って、その上で縁を結んでおいたなら別ですが。

「もう私は、彼女の痛ましい死を見ることに耐えられないんだ」

 そう言った兄は、自分の後を任せることができる者ができたからと小さく笑いました。もう一秒も待てないのだと。そしてばつが悪そうに、

「同じ町に生まれさせることぐらいは可能だろう?」

 と、手を合わせます。


「ええ。昔より力を付けました故、それくらいはできます」

 依怙贔屓えこひいきですけどね。

「ありがたい。申し訳ないが頼むよ。たとえ記憶を無くそうとも、私は必ず彼女を見つけ守る。そして二十一回目の春も、三十回目の春も、その先もずっと見せてやるんだ」

「一緒にでございますか?」

 冷ややかになった私の目に兄は苦笑して、「善処する」と言いました。

 腰抜けにもほどがありますが、やっとその気になったのです。



 人の世に戻った兄は、彼女と同じ町に生まれます。

 この後どうなるかは彼ら次第。

 仙女たちが久しぶりに、賭けの再開をしようと華やいだ声をあげました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とある仙女の回顧録 相内充希 @mituki_aiuchi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ