異世界でもチートする

胡蝶の夢

第1話 プロローグ

 止まらない鮮血。

 動かない左腕。


 荒々しい息遣いが、空気を震わせる。


 「…くそったれ!」


 心の底からの慟哭をあげて。

 しかし、彼は歩みを止めない。


 そこは、荒涼とした大地。

 果てしなく広がる不毛の地。

 視界を妨げそうな障害物は、灰色の空の彼方が見えるまでなし。


 「マジで…あいつらっ…」


 強く踏みしめた彼の足元に、砂埃がたちこめる、ことはない。

 カツーン、と、不自然に間の抜けた音がして、それだけだった。


 「こっちは…一人だってのに…寄ってたかって…クソがっ…」


 苦悶のあまり、彼の顔は酷く歪む。

 彼の胸中にある、悔しさ、苦しみ、それを理解できる人間は、世界のどこにもいないだろう。


 彼は、一人だった。



 しばらくして、彼は突如として、硬い地面にすとんと尻をつけ、胡座をかいた。

 その後、彼は虚空に目を向けた。彼の視線の先にあるものは、灰色の空のみ、のはずだったが。いつの間にやらそこには、現代人が見慣れた造形のデスクトップのパソコンが、淡い青色の光で投影されていた。

 そのパソコンはただの映像ではないようで、画面には英語・数字・記号の羅列が、上から下へ、流れるように表示、みるみるうちに更新されていた。それに連動するように、浮かび上がるキーボードが、誰の手に叩かれた訳でもないのに、目にも止まらぬ速度で音もなく動いている。


 「くそっ…特定されるのも時間の問題か」


 少しの間空中のパソコンに目を向けていた彼だが、その顔が徐々に諦めの色で陰り、遂にはパソコンから目を背けた。同じくして、高速で浮き沈みを繰り返していたキーボードの動きが止まる。


 「個人では集団に勝てないってか?まぁ、だろうな。実際、俺、ボロ負けだし」


 憂いの表情で、ただ瞼を閉じて、力なく首を横に振る。


 「でもな、お前ら。俺がやられてばかりだと思うなよ?」


 と、そこで、彼はそんなことを言いながら、正面を向いた。

 やはり彼の顔には、己の限界を悟った者、道半ばで諦める者特有の、やるせなさに覆われた暗い影があった。


 しかし、それだけでもなかった。


 「ここでログアウトしても、ログインしたら射殺、リスポーン後は殺されてまた復活の生き地獄?」


 微かに、不敵に歪む口元。


 「俺が?」


 再び上下に動き出した、キーボード。


 「ありえないね」


 何より、目が。

 爛々と怪しく煌めく瞳が、決して全てを諦めていないことを物語っていた。



 数十秒後。

 灰色だった空がみるみるうちに漆黒へと変化し、その後特大の落雷を生んだ。

 雷光は一直線に地上に向かうも、途中で僅かに逸れ、彼のいる場所にほど近いところに着地する。

 轟音が彼の周囲に鳴り響いた。


 「場所特定完了ってか?わざわざ教えてもらわなくてもわかってるんだけどな?」


 彼は空を見上げて、そう呟く。

 視線の先には、彼の予想通り、何やら蠢く物体が暗黒の雲から産まれようとしていた。


 「エルドラ空襲しようってか?よっぽど頑張って用意したんだろうなぁ」


 蠢く物体改めエルドラ――エルダードラゴンが、雲から放たれる。

 彼を狙って降り落ちてくるモンスターを眺めながら、しかし彼は笑っていた。


 「でも、手遅れだわ」


 彼の背後で、宙に浮かぶデータ上のキーボードが、止まった。


 「死ねば諸共。逝ってらっしゃい」


 パチン、と彼が指を鳴らした時が終焉の始まり。


 高速で流れ始める、パソコン画面の記号文字の羅列。

 地に足をつける前に消えていくモンスター。

 地も空も、何もかもが関係なく溶け始める。


 世界の崩壊が幕を開けた。



 没入型VRゲーム黎明期。

 とある対人戦ゲームに、伝説のプレイヤーがいた。

 そのゲームサーバーはゲーム運営側の管理が緩く、チートが行われてもアカウントをVANされることがなかった。

 いつしかそのゲームは、ハック(ハッキング)とチートが当たり前のように行われる、秩序も倫理も何もないゲームとして知られるようになっていた。


 「あはははは!」


 ハック上等、チート当然。最悪のVR対人、の呼び水に惹かれて、集うのはプレイヤースキル強者と、高度なプログラミング技術を持つ人間たち。


 「全部ポリゴンになっちまえ!はは!」


 そんなゲームで伝説となった彼は、ただただ純粋にチーターだった。

 ありとあらゆるチートをして見せた彼は最期、全世界の猛者を敵に回し、大立ち回りを繰り広げる。

 さすがの伝説も、ものの数日で敗するだろうという下馬評は打ち砕かれ、彼は一ヶ月という長い間、大暴れをしてみせた。


 「…おっと、これでサーバーの半分は溶けたかね?」


 しかし、それでも彼は、一人。

 結束した集団の力でもって、最終的に追い詰められた彼は、伝説の終わりにふさわしい終焉を演出したことで、ゲーム史に燦々と輝き続ける真なる伝説となった。


 「おお、三分の二?思ったより進行速いな?」


 後のことなど露知らず、その時彼は、空中のデスクトップ――仮想コンピュータの画面を眺めていた。

 彼が作成したプログラム――ゲームのサーバーそのものを無に帰するそれが順調に動いていることを、流れていく緑色の文字記号の羅列から彼は読み取る。


 無駄に長い、件のプログラムの特徴は、一気にデータが消えていくのではなく、崩壊のエフェクト演出を伴いつつ、徐々にデータ消去が進行していくところである。

 どこかの映画のワンシーンのような光景を前に彼は、とても満ち足りた笑顔を作った。


 「突然死んでも、わからないだろうし。殺されたことを自覚しながら死ねる配慮とは、俺もなかなか優しいな!」


 その後もときたま笑い声をあげながら仮想コンピュータの画面を見ていた彼だが、ふと思い浮かんだことがあった。


 「えっと、これって俺はいつ死ぬっけ?」


 キーボードが浮き沈みし、デスクトップの画面がスクロールする。


 「うん、やっぱ最後だよな」


 ウンウン、とその場で頷く。


 「で、このプログラムで殺されたプレイヤーは強制ログアウト、インはこのプログラムが終わってサーバーが強制落ちした後、つまりVANみたいになると。うん、覚えがある」


 しかし。


 「俺、最後だよな?プレイヤーは全員、サーバーがあるときにログアウトしてるけど、俺が消えるのは…サーバー崩壊と同時?いや…プレイヤーデータ消去は…コンマ単位でサーバーより崩壊より後?いや」


 爽やかイケメンを標榜するような彼のアバターは、一瞬挙動を停止した。


 「…これ、まずくないかな…?」


 熟考の末、大丈夫だと決めつけた彼だったが、現実は甘くなかった。

 没入型VR黎明期、未だVR技術は発展途上、システムの致命的な不良に気づいた当時の技術者は、不幸にも誰もいない。


 「おお、遂に俺か。はい、昇天〜」


 その日、インターネットの波から伝説は姿を消した。同日同時刻、日本のとある独身無職の男がVRヘルメットの動作不良で静かに息を引き取った。

 彼の最期の記憶は、ゆっくりと下半身からポリゴンになり、光に溶けていく己の身体だった。

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