海月が死ぬまでは

朝夜



早く着きすぎた。


補習が始まるまであと一時間半はあった。


夏休み初日、早朝からある体育系のクラブはもう運動場で練習している。吹奏楽部の楽器の音も遠くで鳴っている。


校舎内は以外に静かだった。蝉の声も壁一枚通して、遠い。


陽当たりがあまり良くない北館はひんやりしている。部活動の喧騒から離れるように階段を登って行く。北館にはあまり来た事がない。


あまり使われていない教室が多いらしい。


四階、開いている教室がないかひとつずつドアに手をかけてみる。暇を潰せる場所が欲しい。


「おっ」


開いてる。端から二つ目の教室。


中に入ってみると涼しかった。


クーラーが点いていて、寒いくらいじゃないかと思った。


クーラーは点いているのに電気は点いていなくて、重たいカーテンも閉めていたから暗かった。机は他の教室に移されているのかほとんど無く、隅の方に固められている。


ただ、何もない暗い教室に、ぽつんと海月の水槽だけがあった。


海月の水槽だというのも、近付いて初めて気付いた。


海月は二匹いた。


水槽の横にデスクライトが置いてあって海月の水槽をライトアップしていた。ライトアップと言うには少ししょぼいが。


「変な部屋……。誰のだ?」


海月を飼っている部活なんて聞いた事がない。そう言いつつも俺は海月の水槽の前に座って何とはなしに海月を見ていた。


海月なんて見たのは何年ぶりだろう。前水族館に行ったのが四年前くらいだから、四年ぶりか、それ以上か。


ここでぼけっとしていたら暇も潰れそうだな。


その時、後ろでがたっという音がした。入口から影が伸びる。そういえばドアを閉めるのを忘れていた。


「だ、れ?」


振り返ると、女子生徒が驚いた顔でこちらを見ていた。


「あー、えっと……」


これは俺が謝った方が良いやつかな。


「ごめん……?勝手に入って……」


「ええと、ううん、私、も、勝手に借りてる教室、だから」


彼女はゆっくり、喋った。


「これお前の?」


「うん」


「へえ。すげーね」


彼女は教室に入って来て俺の隣、少し離れた所に座った。


海月みたいな人だと思った。なんか、ふわふわしていて。


見た目じゃなくて雰囲気が。肩にかかるくらいの真っ黒な髪の毛が暗い教室に溶けているみたいだ。


「俺、ここいても良い?補習まで暇でさ」


このまま黙って居座るのも居心地が悪いように思えた。


まあ邪魔はしないからさ。


彼女を見る。


答えが帰って来るまで間があった。


「明日も、来る?明日も、来るなら、良いよ」


「え」


なんで明日も?口には出さなかった。明日もどうせ補習はある、けれども。


「どうしても?」


彼女は答える代わりに海月を見た。

俺もつられて目を向ける。二匹の海月が水槽を漂っている。


「明日、補習終わってから。昼間で良いなら」


水槽を見ていた彼女がゆっくりこちらを向いて、来てね、と言ってにっこり笑った。



時間限り限りに学校に着いて、時間通りの補習が終わった。部活動に行くやつらと一緒に、買い弁していたパンとおにぎりを食べた。


北館の四階、端から二つ目の教室。昨日と同じ暗い部屋に、海月の水槽と『くらげさん』がいた。今日は教室の電気が点いていて明るかった。カーテンは閉めたまま。


「あ、来て、くれた」


「おー。まあどうせ学校来てるし」


やっぱり海月っぽいなと思った。話し方も、雰囲気も、ゆっくりしていて。ふわふわしていて。


「なんで明日もーって言ったの?」


「手伝って、欲しくて、海月、の、世話」


「昨日俺手伝ったよ?言ってくれれば」


「今から補習って、言ってたでしょ」


「普通にさぼっても良かったんだけど。まあ良いか、今日も俺暇だし」


補習は、出た、方が良いと思う。


くらげさんが何か言ってたけど無視した。真面目なんだな。いや、真面目な人は学校で海月飼わないか。


やっぱり変わった人だ。


「で、何するの?」


「水槽の水、替え」



ドドドという音とともに水が増えていく。


水道水をいっぱいまでバケツに貯める。懐かしい。小学生の時はよくやらされていた。高校生にもなると掃除させられるのも稀だ。あっても適当に箒がけするだけ、とか。


くらげさんは結構めんどうくさい事を頼んできた。


それでも一番めんどうくさい事はくらげさんがやるらしい。俺はこれを教室まで持って帰るだけ。


水がいっぱいのバケツはそこそこ重たい。確かにくらげさんの細腕ではこれは結構きついかもしれない。


教室に戻って来るとくらげさんは袋とか色々を手提げ鞄から取り出していた。


「海水、作らなきゃなん、だ」


へえ、と相づちを打つ。


人工海水の素というのがあるらしい。


「少しづつ、水、移していく、の」


そう言って慣れた様子で作業していく。水温は十五度から二十五度。機械を入れたり、色々。途中で水槽を洗って来てと頼まれて行った。


俺の働きといえば最初に水を汲んで来た事と水槽の掃除だけだった。


「海月の世話って結構大変なのな」


「うん。ありがとう、ね。手伝って、くれて」


「いやあ。俺ほとんど働いてないし。いーよ全然」


しばらく二人、綺麗になった水槽に漂う海月を見ていた。


「この、海月ね、知り合いの人に、もらったの。だから、世話して、みようかと、思って。海月が、死ぬまでは」


「海月の寿命ってどのくらいなの?」


「飼ってると、四ヶ月、とか、半年、くらい」


短いなと思った。


「今で、一匹目が四ヶ月、くらいなの」


「え、もうすぐ死んじゃうかもって事?」


そうだよと言ってくらげさんは俺の方を見た。


そしてもう一度、もうすぐ死んじゃうんだよと言った。


海月は水槽の中をゆらゆら漂っていた。

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