第68話 打ちひしがれる真里菜

 真里菜が武道場を出てゆくのを、僕はただ見送ることしかできなかった。

 練習試合を前にした昼休み、「武人に私の勇姿を見てもらわなければなりません」と言っていた真里菜。

 高校女子柔道において絶対的な力を持つ女王であり、全国大会の制覇どころかオリンピックの出場すらも確実視されている存在であり、日本で最強の女子高生とさえ言っていいと、そう称されていた真里菜。


 そんな真里菜が――負けた。


「選手、整列! 礼!」


「ありがとうございましたっ!」


 武道場の中央で、並んでそう礼をする両校。

 そこにある違いは、聖マリエンヌ女学院が五人であり、栄玉学園が四人であることだろうか。本来、選手全員が揃って礼をしなければならないところを、真里菜だけ欠席である。

 柔道着のままで、飛び出していってしまったから。


「やばいやばい、早く真里菜っち探さなきゃ!」


「まったく、和泉……」


「まさか、和泉先輩が負けるなんて思わなかったっす……どんだけ強いんすか、あの女……」


「いいから探さなきゃ!」


 礼を終えて、口々にそう言いながら武道場を飛び出す選手たち。

 同じく僕も、座っていられずにそのまま立ち上がった。

 僕が向かったところで何の助けにもならないだろうけれど、じっと座っていられるほど落ち着けない。


「いや、素晴らしい試合でしたな」


「あれだけの時間、一本を奪われずに立ち振る舞うことができるのも、さすがは和泉真里菜といったところでしょう。ですが、やはり世界の壁というのは厚い。出す手の悉くを抑えられていましたからね」


「ロザリー・ラコートはやはり格が違いますね。ですが、和泉真里菜にも若干鋭さが足りなかったように思えますね」


「不摂生でもしていたのでしょう。もしうちの大学に来るとなれば、栄養管理を徹底させましょう」


「やはり年頃の女子ですからね。お菓子などの誘惑には弱いのですよ。比べてラコートの方は、栄養士を雇って徹底した栄養管理を行っているのだとか」


「そのあたりを矯正するのも、今後の我々の役目ということですな」


「……」


 好き勝手なことを――そう、隣で喋る二人の中年に言いたい気持ちを堪える。

 真里菜は、自分の栄養管理は徹底しているのだ。鳥ささみ、茹で卵、玄米しか食べないような食生活をしていたのだ。どこまでもストイックに、最大のパフォーマンスを出せるようにしているのだ。

 そんな真里菜が不摂生など、ありえない。僕の作ったお菓子でさえ、最初は忌避していたくらいなのだから。


 僕は彼らの言うところの、本来の真里菜の動きとやらを知らない。

 だけれど、真里菜は本当に強かった。ロザリー・ラコートの動きが異常だったのだ。僕にだって分かるくらいに、ロザリーという女生徒は本当に強かった。

 加えて、彼女が世界でも最高峰の選手であるという情報は、真里菜に知り得なかったことだ。事前にロザリーの情報を知って、その上で挑めば、真里菜に敗北はなかったはずだ。きっと。


 僕も抑えきれずに、武道場を飛び出す。

 真里菜がどこにいるのか、予想することもできない。ここは僕の通っている栄玉学園ではなく、アウェーである聖マリエンヌ女学院だ。男子生徒が一人で歩くのは大丈夫なのだろうかと思えるけれど、そんなことを今気にしていても仕方ない。


「真里菜っちいた!?」


「どこにも、いないっす……!」


「いずみーん!」


 そして、同じく探している栄玉学園の柔道部員たち。

 彼女らがどれほど叫んでも、真里菜が出て来る気配はない。

 ならば、声が聞こえない場所にいるのか――そう思いながら、柔道部員たちとは逆の方へと走る。


 敗北をしたことが、どれほどショックだったのか、僕には分からない。

 今まで敗北することなく、全国を制覇した真里菜――その負けが、どれほど大きく重いものなのか。


「真里菜さーんっ!」


 そして。

 武道場の裏手にある、小さな茂みの中にある芝生。

 その中央にある木の下で、佇む真里菜をようやく見つけた。


「真里菜さんっ!」


「……」


 他の柔道部員よりも先に、僕が声をかけてもいいものか悩む。

 そして、僕が何と声をかけていいのか。

 僕はただの一般人だ。真里菜のように、将来を嘱望される選手というわけではない。勝負の世界に生きているわけでもない。ただの、お菓子作りが趣味なだけの男子高校生に過ぎないのだ。


 そんな僕が、戦いの末に敗北した真里菜に対して、何と声をかければ――。


「……武人」


「真里菜、さん……その……」


「私は……負けました。完膚なきまでに、敗北しました」


「……」


 ぐっ、と自分の握りしめた拳を見ながら、小さく息を吐く真里菜。

 伏せた顔は、その表情が読めない。一体何を考えているのか、僕には何も分からない。


「私は、女子力を高めるために、武人に師事をしていました」


「……う、うん」


「女子力というのものを、それなりに学んだつもりではあります。服飾に対しても興味を覚えていましたし、食事に対する楽しみも覚えるようになりました。お菓子というのが、これほど美味しいのかと幸福すら覚えました」


「……うん」


「最近は、母を手伝って料理をすることもありました。母の作る料理を、美味しいといつも思って食べていました。姉のお菓子を何度か貰って、食べていたこともあります」


「う、うん?」


 あれ。

 なんか僕の思ってる女子力と違う。

 なんでそんなに、女子力の方向性が食事に傾いてるの?


「特に、ポテトチップスを美味しいと思いました。あれは魔性の食べ物です」


「カロリーえげつないよ、あれ!」


「一晩で一袋開けたことも、何度もあります」


「絶対太るやつだよそれ!?」


 きっ、と。

 まるで敵を見るかのように――鋭い眼差しで、真里菜が僕を見た。

 その眼差しは、今まで彼女から与えられていた心地よいものとは異なる。


 柔道選手としての、もの――。


「これが……これが、このように、私を堕落させるものが、女子力ならば……」


「え……」


「もう、私には……必要ない!」


 それは、その言葉は。

 僕と真里菜という、関係性が本人たちにすらよく分かっていない僕たちの間を。


 完全に引き裂く、宣言だった。

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