第46話 僕は混乱している

 真里菜に唇を塞がれたままで、僕は混乱していた。

 そもそも、ここは近所のスーパーの前である。最も近いスーパーというわけではないけれど、チラシを見て安いものがあればちょっと寄るかもしれない、くらいの頻度で来る店である。当然ながら、恋人同士の愛の営みをする場所ではない。

 実際、スーパーの入り口から出てくるおばちゃんたちが「あらあら」「若いっていいわねぇ」などと生温かい視線を向けていたり、ちょっと厳しそうなおばちゃんが「まったく、天下の往来で……」とか呟いているのが分かる。というか、これ完全に拷問だよ。どうして、僕はたまに来るスーパーの前で、こんなことをしているのだろう。


 だけれど、同時に。

 僕の唇に触れている、真里菜のそれ。

 その柔らかさに、鼻腔をくすぐる甘い香りに、僕はまるで酔っているかのようにすら感じた。

 びりびりと痺れるような、蕩けるような甘さだ。女の子の唇がこれほど柔らかいなんて、今まで知らなかった。


「……」


「……」


 唇を触れ合わせたままで、僕は全く動くことができない。

 嫌だったら振りほどけばいいし、距離をとればいい。だというのに、僕の体は動いてくれないのだ。

 この甘い唇を、いつまでも味わっていたい――そう感じるほどに。


 ただ、思う。

 僕は女の子とこういう行為をするのは、初めてである。

 だから、こういうときにどうすればいいのか、その作法がさっぱり分からない。

 えっと、こう、僕の方から抱きしめるとかそういう行為は必要なのだろうか。

 あと、息ってしてもいいのかな。いや、今一生懸命息を止めてるんだけど。え、鼻で呼吸するとか? 口では呼吸できないよね。でも息しなきゃ死んじゃう。ちょっと苦しくなってきた。

 え、どうすればいいの。割と真剣に。僕、今までの人生で『キスするとき息はどうすればいいのか』とか調べたことないよ!


 ゆっくりと、真里菜の唇が離れる。

 あ、良かった、息できる。息できるようになったのは嬉しいけど、真里菜が離れていくのはちょっと辛い。


「ぷ」


「……え」


「ぷはっ……! は、はぁ、はぁ……!」


 真里菜が、思い切り目を見開いてそう、呼吸した。

 いや、僕も必死に息止めてたから、ちょっと息荒いんだけど。というか、いきなりの真里菜の行動に物凄く混乱している。

 どうして、いきなり僕に――。


「むぅ、こ、これは……思った以上に……!」


「ま、真里菜さん、大丈夫……?」


「い、いえっ、その……ちょ、ちょっと近寄らないでください!」


 え、何で。

 いきなりやってきたのは真里菜なのに、どうしてこのタイミングで拒絶されるのだろう。

 真里菜は僕から目を逸らしつつ、胸を押さえながら息を荒くしている。その顔が赤く見えるのは、夕暮れのせいだろうか。それとも、僕と唇を交わしたことに対してだろうか。


「はぁ、はぁ……た、武人」


「う、うん?」


「今朝、姉に言われたのです。恋人同士が名残惜しくも別れるときには、『今日は楽しかった、ありがとう』と感謝の言葉を述べると共に、口付けを交わして去るものなのだ、と」


「だろうね」


 もう、お姉さんが何かの黒幕にしか見えない。


「ですが、別れ際に失念しておりました。あくまで私は女子として、武人の恋人として相応しい女として振舞わなければならないといけないと考えてはいたのですが。いえ、決してペンギンの可愛さに我を失っていたわけではなく」


「う、うん……?」


「そのため、やり直すべきだと考えて武人を追ってきたのです。無事、そのミッションを果たすことができました」


「やり直すべきタイミングと場所を考えて欲しいんだけど!」


 真里菜に教えるべきは、女子力よりもまずはTPOなのかもしれない。

 少なくとも夕方、主婦たちの買い物で賑わうスーパーの前でそういう行為をしてはならない、と教えるべきだろうか。

 とりあえず、そんな風に会話をしているうちに、僕も落ち着いてきた。まだ心臓はうるさいくらいにバクバクと高鳴っているけれど、少なくともまともに会話ができる程度には。


「ですが……これは、誤算でした」


「どういうこと……?」


「口付けというものが、これほどの威力を持つとは……」


 威力って何。

 はぁ、はぁ、とまだ真里菜の息は荒い。僕がもう落ち着いているというのに、アスリートである真里菜がこれほど息が上がるなんて、どうしたのだろう。


「えっと……どういうこと?」


「武人と唇を交わした瞬間に、まるで電流が走ったように感じました。顔という、本来敵に最も狙われてはならない場所を極限まで近付けるという行為に、これほどの充足感を覚えるとは思いもしませんでした。ただ口と口を触れさせるだけの行為だと舐めてかかっていた私の失態です。まさか、これほどまでに……!」


「こっちが恥ずかしくなってくるんだけど!」


「これほどの快感と充足……全国大会を制覇し、表彰台に上がったときですら、感じることはできませんでした」


 いや、僕も初めてだったし、物凄く柔らかくて驚いたけど。

 でも、僕とキスすることと全国大会を制覇することと同列にされたら、全国大会に失礼な気がする。


「武人」


「え……あ、うん?」


「私は武人と唇を交わすことで、とても幸せを感じました。これほどの幸せがこの世に存在したのかと思えるほどです」


「い、いや、だから恥ずかしいんだけど……」


 まだ、周りには買い物客が多いんだよ。

 そりゃ、最初に見てたおばちゃんたちはもう帰っただろうけど。というか、顔覚えられてたら僕もうこのスーパー来れない。

 まだ来る頻度の低いスーパーで良かった。これが我が家から一番近いスーパーだったら、間違いなくご近所さんがいるし。もっとも、僕の父さんの職業がアレだから、ご近所付き合いは無いに等しいけど。


「ですので」


「う、うん?」


「もう一度やりましょう」


「せめて場所変えよう!」

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