持続感染

 二十万円のジャケットを革張りのソファに投げ捨てたとき、右の頬の内側に口内炎ができていることに気づいた。ぴりっとした痛みが不快で、顔をしかめる。同時に、ついさっき見たあいつの情けない顔を思い出す。にごった眼球に、ほっと安堵が浮かぶさまは、何度思い返しても不愉快極まりない。

 一流大学を出て、最大手の金融機関に勤め、あのころヘルペスと呼ばれたぼくは今、きっと世間では勝ち組と呼ばれるようなマンションに住んでいる。ありきたりな、見返したいという動機は、単純なぼくのいい燃料になってくれた。その点だけは感謝している。けど、ようやく夢かなってステータスの差を見せつけたにも関わらず、気分が晴れないのはなぜだろう。忘れたふりまでしてやって、あいつをあの時に置き去りにして、さぞかしスカッとするだろうという妄想が、実現しなかったのはなぜだろう。許す、なんて言わなければよかった。だって本当は、許す気なんてさらさらない。二度とぼくの人生に関わらず、どこか遠くで不幸になっていてくれと、たぶん一生恨み続ける。許すなんて言ったのは、ただの格好つけだ。自分で自分を嫌いにならないための、保身だ。

 気づけばそんなことばかり考えてしまうから、ぼくは前にもまして仕事に没頭した。忙しければ、余計なことを考えずに済んだ。いつの間にか昇進し、最年少で課長の職に就いて、はじめての大きなプロジェクトを成功に収めたとき、ふっと何かがちぎれるのを感じた。

 長期の休暇の申請を出した日、同窓会の案内が届いた。いっそ、この恨みをぶちまけてこようか。どす黒い衝動に駆られながら、メーラーを閉じる。いつもよりすこし多い荷物を抱えてビルのエントランスを抜けたとき、声を掛けられた。部下の一人が、息を切らして立っていた。大型犬のように温厚で、それゆえに「愛のある」とマスキングされたいじり方をされていたやつだった。動揺でゆれた舌先が、口内炎に触れて痛む。部下はまっすぐぼくをみて、ありがとうございましたと頭を下げた。「本当はいじられるの、嫌だったんです。朝礼でやめるよう言ってくださって、救われました」

 連休明けのお土産楽しみにしています、と笑って部下はフロアへ戻っていった。ぼくは再び歩き出す。自動ドアが開くと、涼しい夜風が顔をなでた。スマホを開き、届いたばかりの出欠確認メールを削除する。うっかり触れた口内炎は、さっきよりも痛まない。

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