潜伏感染

 イライラしていた。口内炎が三つも口の中にできていて痛いうえに、大好きな揚げパンを食べられなかった。だから、いつものように幼馴染のあいつがやってきて「また口内炎かよ」ってからかってきたとき、つい爆発してしまった。「いつもおんなじことばっか言ってきやがって、うぜーよ。ヘルペスかてめーは」

 潜伏感染、というちょっとワクワクする言葉を習った直後だった。周りで聞いていたみんなが笑って、あいつのあだ名はヘルペスになってしまった。最初はへんなあだ名だけだったのに、坂を転がり出した小石のように、それはあっという間にエスカレートしていった。卒業まで続いたあいつへのいじめを、俺は止めなかった。正確に言えば、止められなかった。俺はクラスの村人Cでしかなくて、王様の気に入ったおもちゃを取り上げる立場になかったし、そんな勇気もなかった。彼を囲む数人のすき間から、うっかり合ってしまった視線は、俺の脳の底にこびりついて、口内炎ができるたびに顔をのぞかせた。

 十数年がすぎて、俺たちはほこりっぽい教室ではなく脂臭い居酒屋に集まるようになった。同窓会で見かけたあいつは、こぎれいな格好をしてにこにこ笑っていた。俺は飲み会中ずっと見張り続け、あいつがトイレに立った瞬間、後を追った。

 悪かった、という俺の謝罪の理由を思い出すのに、あいつはずいぶん苦労していた。ようやく思い出しても「もしかして、ずっと気にしてたの?」とバカにしたように笑われた。やさしく強い大人になったあいつは、俺なんかよりずっと立派な人間だった。

 水に流していいと許可をもらっても、脳にこびりついたあいつはやっぱり、口内炎ができるたびに顔を見せた。罪悪感に苦しめられた数十年を経て、それは懐かしい記憶に変わった。あの同窓会以降、あいつが顔を見せることはなかった。あいつの言葉が本心かどうか、俺には永遠に分からない。もしかしたら強がりで、今でも俺のことを恨んでいるかもしれない。不意に襲うその予想は、ひどく冷たくて息がつまる。けど今は、脳に住み続けるあいつの視線とともに生きていくことが、不思議とそんなに嫌じゃない。

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