二章 怨嗟と紅眼、あるいは呪いの少女[八]

『ジュース1、配置に着きました』

『ジュース2、いつでもいける』

 隊員たちの報告が、司令官である金ヶ崎に届く。

『センサーに頼るな。惑わされるぞ』

 建物内に侵入した突入部隊に対して、金ヶ崎は、大型トラック内より冷静に指示を飛ばす。

 隊員たちが身につけているヘルメットには多種多様なセンサー、スコープが搭載されてはいるものの、この戦闘においては役に立たないと判断しての指示だった。

 江波恭子の、現状で確認出来ている脅威は、視認することが困難であるほどの、その速度だ。

 センサーから得られる情報は、本来、隊員たちに大きなアドバンテージを生む。しかし、センサーが意味を成さぬほどの速度となれば話は別だ。

 現代の技術を上回るほどの、その肉体。〝最速〟の異名は伊達ではない。

 だが、いくら速いとは言っても限度がある。さらに、速度という技能は特筆するべきものでもない。実際、江波恭子に比肩し得る速度を持つ者は他にもいる。彼女が群を抜いて速い、というわけではない。

 あるいは、極限まで鍛え上げられた技が、瞬間的にではあれ、江波恭子を凌駕することもあり得る。

 人間の限界を超えていようとも、果てはあるのだ。

 いかな〝最速〟とはいえ、江波恭子が同時にすべての隊員を攻撃出来るわけではない。さらに、近接戦闘従事者である以上、江波恭子は敵に接近しなければならないという問題を抱えている。

 そもそも目で追えない速度ならば、センサーが与えてくれる情報もまた、目では追えない。

 だが、江波恭子が確かにそこにいる、と言える瞬間が、場所が、確かに存在している。


 


 江波恭子の攻撃の瞬間こそが、こちらにとって最大の好機なのだ。

 もちろん、中距離の攻撃、例えば投擲を用いることも考慮に入れるべきではあるが。それでも、その攻撃方法は物理的なものに限られる。

 突入部隊が対処不可能な、不可思議な攻撃は行ってこない。

 江波恭子は、江波家お墨付きの〝不才〟である。

 江波家——。


 優れた剣士は、この時代においても重火器のそれを凌駕する。


 江波恭子は、彼女の兄姉が振るうようなを待ち合わせてはいない。

 それでも拭えぬ不穏。

 油断など塵の一つも許されない標的。

 偵察班がもたらす建物の全景と、入手した設計図を照らし合わせながら、金ヶ崎は思考する。

 大戦時に破棄された建造物は、煉瓦などは用いていない鉄筋コンクリートで地下二階を含む地上二階建てだ。病院や学校を思わせる部屋割り。中央に正面玄関を置き、左右に伸びる形の比較的規模の大きい建造物である。

 かつて、人を超える兵士を創り出さんとして失敗を積み重ね続けた、忌まわしき過去の残骸——。

 その二階廊下を、江波恭子はゆっくりとした足取りで歩いている。

 サーモグラフィモニターに映る映像は、ドローンによる上空からの映像と、偵察班からもたらされる正面からのものだ。

 比較的に体温が高いと判断出来る江波恭子の像は、呪力感知モニターには認識されていない。


 江波恭子には、呪力がないのだ。


 呪力とは、感情や思考、つまりは脳の運動によって排気される熱量である。故に、どんな人間であれ、当たり前に持っているものであるはずのものなのだ。

 その数値が、0。

 それでは、呪力を肉体強化に転用することも、呪力障壁を展開することも出来ない。つまり、江波恭子は、その肉体のみで〝最速〟に至っているのである。

 血の滲む、などという鍛錬の果ての結果ですらない。いったいどれほどの地獄を乗り越えたのか、金ヶ崎には想像することさえ出来なかった。

 敬意を払うべき敵、であることは間違いない。


 与えられた、天性の肉体。

 そして、不幸。


 江波恭子の身体は、生み出される呪力を

 特異体質と呼ばれるものだ。あるいはそれこそが、江波恭子に与えられた異能だったのかもしれない。

 結果的に、江波恭子に呪殺や傀儡化と言った呪術は通用しない。

 江波恭子の肉体は、他者の呪力ですら、その呪力が意味を成す前に無効化する。

 呪われないという呪いを帯びた肉体。

 だが、欠点、弱点は、ある。

 江波恭子の肉体は、呪術によって発現した結果には影響を受けてしまうのだ。

 呪術によって生み出された炎熱は彼女の肌を焼き、衝撃や切断は彼女の肉体を確実に損傷させる。

 そして、呪力がない江波恭子は、呪力障壁なしでそれらを受けなければならない。


 それは即ち、死だ。


 故に、江波恭子が速度を求めたのは必然だった。

 徹底的な回避、撹乱。

 だからこそ、金ヶ崎には、江波恭子が怪物に見える。

 そんな身体で今まで生き残っているという事実。

 そんな肉体で、宮本陸の隣にあり続けているという、現実。

 彼女が今も生きて金ヶ崎たちの標的となっている。

 その事実だけで、油断など、出来るはずもなかった。

 ただ速いだけの〝最速〟などでは、けっしてない。

 どうして生き残っていられるのか、得体の知れないモノを指して怪物と呼ぶならば、江波恭子こそがそれである。

『標的はゆっくりと廊下を前進。鳥山大地とアンノウンは室内にて沈黙。宮本陸は室外扉前にて待機』

 モニターを監視するオペレーターが状況を突入部隊に伝達する。

 金ヶ崎は、鳥山大地とともに沈黙する、アンノウンを見た。


 ——あの鳥山大地を沈黙させるほどの作戦の鍵がアンノウンだったならば、味方の可能性がある。


 だが、救出は不可能だ。

 同時に、金ヶ崎は改めて恐怖する。

 数値化とは、目に見える指標だ。

 江波恭子のそれが0であることが——。

 その事実が驚愕という名の脅威であるならば。

 宮本陸のそれは。


 測定、不能。


 機器の測定領域を超えている。オーバーフローを避けるためのセーフティーが機能しているところを、金ヶ崎は初めて見た。

 それほどの呪いを、個人で背負っている。

 そして、鳥山大地から測定された値もまた、測定不能となっていた。

 マイナスの値で。

 負の数値。

 鳥山大地は、それほどのモノをもってしてやっと沈黙が叶うほどの存在、ということだ。

 天変地異の総エネルギーを一箇所に集めたようなモノが、同時に二つも、廃墟と化した建物内に存在している。

 宮本陸は、前には出て来ない。


 ——だからなんなのだ。


 それほどの恐怖の象徴を間近に置いて、突入部隊は戦闘行動を取らなければならない。

 そのプレッシャーを考慮に入れないことが、今、金ヶ崎に求められている指揮官としての仕事だった。

 任務を遂行するために。

『目標の速度は一定』

 ロビー内に展開する部隊に、オペレーターが語りかける。


 わざわざ口にするまでもない情報を報告する。

 わざわざ、口にするべき情報が報告される。


 ロビーはほぼ正方形の、吹き抜けの箱だ。

 多数の鉄筋コンクリート製の柱を起点にして、二階部分を一周する廊下。二階廊下へと繋がる階段は左右二箇所。屋上に続く階段が二階廊下から一箇所。

 部隊は柱の影、階段の脇、江波恭子が進む廊下の直下、出入り口を塞ぐ形で正面玄関と屋上へと続く階段、そして、江波恭子が歩む二階廊下に繋がる内周廊下の両脇に、息を殺して待機していた。

『………………』

 廊下を進んでくる江波恭子に、内周廊下の両脇に待機する隊員四名に緊張が走る。

 狙いは脚。ぎりぎりまで引きつけて、撃つ。でなければ、そこがたとえ一本道の廊下であったとしても、その出鱈目な速度によって回避される可能性が高いからだ。

 彼らの四名は、もっとも危険な任務に就いていると言っても過言ではない。

 廊下から顔を覗かせるということは、あの宮本陸を視認するということに他ならないのだから——。

 しかし、四名に緊張が走った理由は別にあった。


 オペレーターは、江波恭子の速度を一定と言ったのだ。


 人間の歩幅が、その一歩一歩が、あるいは脚を踏み出す速度が常に一定などということは本来あり得ない。訓練と実践を幾度となく潜り抜けてきた彼らですら、その歩幅をミリ単位で一定にすることは叶わないのだから。

 だが、彼らが信頼するオペレーターがそう告げたからには、江波恭子の歩行速度は一定なのである。

 数学の教材に登場する、点Pの如く。

 不可思議の世界に生きる彼らにとってしても、空想上の存在が一定速度で歩いて来ているのだ。

 金ヶ崎もまた、理解する。その額に滲む汗を拭うこともせず。

 その脅威は、けっして速度などではない、と。

 肉体を完全に支配している。


 技術、だ。


『射撃、用意』

 金ヶ崎が告げる。あと一歩。江波恭子が踏み込めば——。


『ロストっ!』


 しかし、オペレーターの叫びにも似た報告が、突入部隊の耳朶を叩いた。


   ◆


「貴方は、いったい、なにを企んでいるのですか?」

 声は静かに、しかし鋭く、冷たく響いた。

 明確な、殺意。

 まさに純粋な、不純物のない殺意を込めて、異界に座す男は問う。

「ふふふ」

 呪術師の返答は、微笑みだけだった——。


   ◆


『ロストっ!』

 オペレーターの報告が、隊員たちの頭蓋に反響する。

 だがしかし。

 突入部隊は確かに見ていた。

 彼らの戦歴が、そうさせた。

 すべての経験を総動員した極限下における緊張が、彼らに江波恭子の軌跡を追わせる。

 すべての視線は、ロビー中央、その空中。

 身を翻し、身体の前面を天井に向けて。高跳び選手がまだ見ぬ高みを目指すように。


 ——笑っている。


 楽しそうに。心の底から。

 舐められている、と思えない。

 ただ、美しいと、感じた。

 そんな猶予が彼らに許されていたならば、戦場にあるまじき感嘆の声がロビーには響き渡っただろう。

 息を呑む。引き金にかかった指に力が入る。

 銃口を向けるには、江波恭子は、確かに速すぎた。

 幸か不幸か。

 速すぎた。

 この時、この瞬間。

 見惚れていた。

 だが、それ以上に‪──‬。


 ‪──‬この江波恭子いきものは、ここで確実に殺しておかねばならない、と。

 狂おしくも駆動する本能が囁く。

 でなければ。

 彼女の人生は必ず。

 に辿り着いてしまう——。


 笑っている。

 江波恭子は笑っている。

 柔らかに。慈しむように。

 愛するように。

 その肉体のすべてで、笑っている。

 悲しむように、幸福を抱いて、笑っている‪──‬。


『迎撃っ!』


 だが、突入部隊は我に帰った。

 金ヶ崎の号令が耳に木霊する。

 勝ち負けで言えば、すでに負けてようとも。

 思考は、殺すためではなく、勝つためのものに瞬時に切り替わった。

 彼らは個にあって個にあらず。目的のためにのみ進軍する一つの意志である。

 江波恭子は、対面の手すりに脚を着き、さらに飛んだ。

 一直線に。飛び出してきた廊下に向かって。

 そこにいるのは四人。

 陸に最も近い四人だ。

 逃げ場がない宙空。

 撃てば当たる。

 対象はまるで弾丸のように。頭を無防備に晒して突っ込んでくる。

 突入部隊の役割は、江波恭子の無力化だ。

 このまま撃つことは容易であり、それは江波恭子の殺害を意味している。

 だから四人は、確信を持って射撃した。

 薙ぎ払うように。

 振り返りざまに瞬時に行われた指切り射撃は、確かに妙技である。

 放たれた弾丸は、十六発。四×四の面となり、壁となって、江波恭子の進行方向を塞いだ。

 江波恭子にとって、それは死への軌道だった。


 だからなんだというのか。


 この程度の死地をものともせぬ怪物だということを、突入部隊の誰もが、あの悲壮な美しさの向こうに幻視したではないか。

 だから、その確信は——。

 死の壁を潜り抜けてくる者が、数瞬先に自分たちの意識を刈り取ると確信してのものだった。

 撃っても撃たなくとも、結果は変わらない。

 彼らは、人体を破壊するためだけに行われたその射撃が、一瞬の足止めにしかならないと理解している。

 むしろ、彼らの性能が、あるいは射撃が、江波恭子に回避運動を取らせることをことを誇るべきである。

 瞬間、江波恭子の身体が、慣性を無視して跳ね上がった。

 ロビーには、当時の軍部の権力と誇りの残滓を思わせるシャンデリアが釣り下がっている。

 今や、なんの威光も威厳も発しはしないその照明器具に垂れ下がっているもの‪──‬。

 江波恭子が身につけていたベルトが、シャンデリアに引っかかっていた。

 そして、ベルトを掴み、跳ね上がった恭子の下方を通り過ぎようとした弾丸は。


 

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