二章 怨嗟と紅眼、あるいは呪いの少女[六]
石楠花に〝
血も涙もなく、感情などなく殺意なく、標的は標的でしかなく、その生命を停止させよと請け負ったが故に、必ず殺す。
殺意なき殺人。
動機なき殺人。
人を殺める理由などなく殺す。社会を、あるいは組織を円滑に存続させるために、不必要なものを排除する。その歪な在り方こそが、暗殺を生業とする石楠花が背負った必要悪であった。
闇に紛れ光に紛れ、人に紛れ風景に紛れ、個を消し群衆に同化し、あらゆる手段の中から最適を選び取り、殺す。
誰が殺したかを悟らせない。
誰の殺意を請け負ったかを悟らせない。
殺人を、一片の疑いの余地もなく事故として成立させてしまう。
あるいは、誰もが迷いなく殺人と断定する凄惨な現場をつくり上げながら、自らの痕跡を一切残さない。
殺人を技術として昇華させた極地こそが〝音無し〟であれば、その石楠花由唯をして殺せぬ者は人にあらず──。
宮本陸の名が明確な世界の敵として轟いたのは、まさにそれ故であった。
そして、男は思う。
──あれこそが我が悲願。我が復讐の到達点。
石楠花家の襲撃者にして呪術師、
暗殺の大家である石楠花を相手取るにあたって、十分すぎるほどの準備をして臨んだつもりだった。
勝算は、あったのだ。
石楠花の暗殺術がいかに優れていようとも、あくまで暗殺術である。純粋な白兵戦に持ち込むことが出来たならば、たとえ戦場が石楠花の本拠地であったとしても、彼我の戦力はひっくり返るはずであった。
現役を退き、石楠花由香理を身籠った頃にはすっかり腕も衰えたと聞く香子を除けば、敵は由唯ただ一人であったと言っても過言ではない。勝負は、屋敷に強襲をかけられる距離まで接近出来るか否かで着くはずだったのだ。
呪術師が呪術師に助力を乞うなどという恥辱を呑んだのも、すべては悲願のためである。
非の打ち所がない、完璧な隠蔽呪術だった。かの呪術師の協力なしには、葛西は屋敷に近づくことさえ出来なかっただろう。
しかし、結果として葛西は、使える練度を持ち合わせた貴重な手勢、親類縁者のすべてを失った。
それは、葛西という呪術師の一族の、事実上の滅亡を意味していた。
そんなことは今更どうでもいいのだと、葛西は思う。
葛西の、ただ一点に集約された憎しみの炎は、彼の中からおおよそ人間的な感情のほとんどを、すでに焼き払っていた。
──えぇ、えぇ、ですから、石楠花に鬼眼有りと、そう申しております。その力は死の蒐集故。急ぎ確保と相成った次第ですよ。
宮本陸の置き土産、外道の策士、百舌文隆のその言葉は、一笑に伏すことさえ馬鹿馬鹿しく思えるほどの与太話だった。
いかに純鬼種であろうとも、鬼そのものの力を肉体に封じ込め発露させることは不可能だ。
魂は実在する。しかし、死は現象であり、概念だ。故に、死に形などない。
肉体は魂の器である。肉体を失った魂を蒐集するならば理解の範疇だが、死という現象そのものを蒐集するともなると、それは、形のないものに形を与えるということに他ならない。
もしもそんな眼が実在するならば、それは、悲願の相手、宮本陸にすら比肩し得るのではないか。
一縷の望みのようなものだった。
その眼を手にすることが出来たならば、悲願の成就は確実なものとなるはずだ、と。
葛西は由香理の眼の力を目の当たりにして確信に至る。
——あれほどのものが、鬼の眼であるはずがない。
神、あるいは鬼神の眼だ。
蒐集した死を他者に与える眼。
他者の死を等しく他者に与えるなど、それはもはや、運命干渉の領域と言っても差し支えがないだろう。
まさに奇跡であり、奇跡が必ずしも人間にとって都合の良いものであるとは限らない。
——あれは、滅びが人の形をしたモノだ。
その滅びの形が、あろうことか——。
葛西は、耐え難い屈辱に、呼吸することさえも忘れて奥歯を噛み締めた。
——撤退する。
宮本陸はそう言った。歯牙にもかけられなかった。
捨て置いても問題ないと、そう宣言されたも同然だった。
——ああ、そうだ。その通りだとも。
実際のところ陸の心情はまた違ったのだが、葛西にとってそのすれ違いは、至極どうでもよいことだった。
どういう星の巡り合わせか、悲願の相手、宮本陸という存在と対峙したからこそ、ついに理解する。
あれこそが化物だ、と。
聞き及んでいたほどの、圧倒的な威圧はなかった。
曰く、宮本陸の前では、命の価値は失われる、と。
撤退すると、宮本陸は言った。
ただ、それだけだ。
──しかし、しかしだ。あの言葉は、悲願の相手とようやく巡り合えたこの私が、奴らの撤退を安易と許すほどに。
絶対だった。
故に恐怖する。
〝凄絶の暴君〟の残滓ですら、絶対なのだ。
石楠花由香理の眼とは似て非なる、摂理の異物。
生まれながらの魔性。人の枠から外れた、生きた権能だ。
あれに挑むなど、愚かさの極みであろう。
しかし、その宮本陸の死こそが悲願である。
宮本陸が背負った呪いの正体を、葛西はもちろん、知っていた。
解放せねばならない。解放してやらねばならない。
宮本陸を滅ぼしたのち、あの子が世界をどうしようと、そんなことはあの子の勝手だ。壊したければ、想いのままに壊せばいい。
そして、葛西が助力を乞うたあの呪術師は。
——私は、人の願いを叶えるモノなれば。
葛西に、あの宮本陸を屠るだけの力と機会を与えると言ったのだ。
石楠花の屋敷での、宮本陸との邂逅は偶然などではない。
すべてが仕組まれた策であり、罠だ。
それはつまり、葛西さえも利用されているということに他ならない。
──ああ、そんなことは百も承知だとも。
向かう先が同じであれば、葛西にとってはさしたる問題ではなかった。
でなければ、あの憎き宮本陸がつくり上げた絶望の群れに身をやつすはずもない。
かつて、人の世の終わりを掲げて挙兵した陸がつくり上げた、悪鬼の群れ。
その群れに、名などはない。
ただ、対外的に呼称が必要になった際につけられた名はある。
〝凄絶〟と。ほとんど一人を指して名付けられたその軍勢は、確かに人の世の終わりにその指をかけた。
せめていっそ、人の世が終わっていたならば。
葛西典明は、人のままに死ねただろう。
だが、現実は違う。人の世の営みは今も紡がれ続けている。
失われたものを無視して、紡がれ続けている。
忌々しいことに。
葛西典明が凄絶に身をやつしたのは、そこが考え得る限り、最も宮本陸に近い場所だったからだ。
そして、それがたとえ作為的に仕組まれた邂逅であったにせよ、ついに、宮本陸が葛西典明の前に立ったのだ。
だからこそ、葛西典明は準備に取り掛かっていた。
人がどれだけ外道に堕ちようとも、けっして開けてはならない箱が、葛西の手元にはある。
手勢を失い、悲願の相手と相見えたが故に。葛西典明は、その箱を開けざるを得なくなったのだ。
呪符にまみれたその箱に施された封印は、現世と常世を隔てるが如き、結界である。
必然、箱の中は異界だ。にも関わらず、ある一点を解けばすべてがするすると解かれるように、巧妙な呪術的細工が施されていた。
とはいえ、葛西典明の額には玉のような汗が浮かんでいる。
その一点を見つけられたとしても、目の前にある箱に施された封印は、紛うことなく世界を隔てるほどのもので間違いない。
必然、一筋縄でいくはずもなかった。
人を滅ぼすモノは、人が生み出したモノ以外には有り得ない。
かの呪術師からこの箱を手に入れるために、私財のすべてを
葛西家のすべてを費やしたとしても釣り合うはずもない箱を手にした時点で、葛西家は滅亡していたのだ。
根こそぎ、すべてを。
親類縁者、一族郎党のすべてを。
石楠花由香理による各個撃破。
雪化粧の庭に咲き乱れる蹂躙を傍観していた自身。
その不可思議な事実を不可思議と気づけず、呪術師とは、いったい誰のことであったかのさえも、今は思い出せない。
そして、それらすべてのことを、葛西典明は疑問に思えずにいるのだ。
呪術師が呪術師の術中にあるということは、つまり、そういうことだった。
完全に傀儡と化している、というわけではない。葛西典明を駆り立てているものは、確かに、葛西典明の内側から溢れ出す憎しみからである。
だからこそ、第三者から見れば、吐き気を催すほどにたちが悪い。
個人の自主性を踏み躙らぬように使役する。
尊厳を尊重をしながらに、踏み躙る。
傍目には、葛西典明が操られていることなどわからない。
向かう先が同じであればと、葛西は思っている。
復讐鬼と化し、利用される道を選んだ者の、それが末路だ。
——願わくば。
あの鬼眼も手に入れて、復讐を確実のものとする。
だが、摂理の異物を殺すということは、もちろん、容易なことではない。葛西はその障害として、鳥山大地や江波恭子をも過小評価するつもりはなかった。
あれらを突破するためにすら、想像を絶する力が必要である。
自身など遠く及ばぬ領域にある宮本家。その宮本家が封ずるしかなかった純正の鬼を、その身に三鬼も宿す、鳥山大地。
その脅威は語るまでもない。その鬼種としての暴力など、子ども騙しのまやかしだ。そこに注力していては、勝てるものも勝てなくなる。
鳥山大地を〝不動〟足らしめるもの。
その、異形のそれとも言うべき、精神性。
それこそが、鳥山大地を脅威足らしめる所以なのだ。
葛西典明の思考は、正しく鳥山大地の脅威を把握する。
そして、江波恭子——。
屋敷にて、その蹴撃を、葛西典明は凌いで見せた。
首を取ると、明確な殺意の込められた蹴りを、咄嗟に腕で防いだが、しかし。
——あれは、なんだ。
理解している。しかし、理解が追いつかない。
〝不才〟の恭子と揶揄され、ただ速いだけの〝最速〟と渾名されるばかりの女の蹴りに、葛西典明は吹き飛ばされたのだ。
呪力障壁の上から、衝撃を通された。
呪力を編んで展開された障壁は、目に見えない物理的な壁という矛盾を成立させる。
障壁は、吸収、あるいは反発といった属性を帯びていることが常であり、葛西のそれは後者だ。
鞭のように、あるいは鎌のように、性格無比に振るわれた蹴撃は、葛西が無抵抗であったならば確かにその首を容易く落としただろう。
言わば、あれは刃物だ。極限まで、痛めつけるかのように鍛えられた脚力から生み出された斬撃であり、剣術だ。
だが。
その鋭利な殺意が、衝突の瞬間にその意味を変えた。
斬撃から打撃へと、目を見張るほどの速度で、瞬時に。
——あんなものが、〝不才〟であるはずがない。
その江波恭子が、今まさに戦火の口火を切ろうとしていることなど、今はまだ渦中にはいない葛西は知る由もなかったが。
——あれは、あるいは鳥山大地以上の。
障害だ。
もちろん、江波恭子はあの、宮本陸の右腕なのだ。
ただの近接戦闘従事者であるはずがない。
そして、箱の封印に汗を滴らせながら向かい合う葛西の傍、祭壇の上で眠らされている女は、今はまだ、健やかな寝息を立てていた。
◆
「ふふふ」
異界にて、呪術師は不敵に笑う。
「ふふふ」
その邪悪を、その奸邪を隠すことなく笑う。
「それで良いのです。貴方は、貴方の願いのままに、その力を振るうのです」
その背に注がれる殺気を、風のように流しながら。
「そして、現実を知るのです。今はまだ、敵わぬということを」
太刀を構えて座す男の視線を、心地よしと感じながら。
「貴方の道筋は、貴方の怨嗟が教えてくれるでしょう。貴方はただ、その心のままに、その心の赴くままに、進めば良いのです」
異界の客人の殺気が、今にもその首を落とさんと研ぎ澄まされ続けることを良しとして、語り続ける。
「種は蒔きました。ええ、貴方が望むものはそこにある。種より放たれるその呪詛が、その怨嗟が、その憤怒が——」
——貴方を、貴方の敵の元へと、導くでしょう。
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