chrono-29:コミュ力は、ダスト…塵芥人海の濁流坩堝ステイジーの巻


 退院の手続きはあっさり済んだ。丸一日寝ていたようで、今日は週明けの月曜日、午前十一時。明日奈は制服ブレザー姿だけど、今から学校に行くってわけでもないようだ。おそらくは俺のために長い間付き添ってくれてたんだろうし、念のため準備はしてくれたのだけれど、このままいてくれるんだろう。


 けど悪い。もうキミの好きな「おにいちゃん」はいないんだ……だから俺はここから消えた方がいい。


 病院から徒歩で帰る道すがら、三人の間に会話はまるで無く、ただ揃って黙々と足を動かすだけだった。明日奈でさえ、俺と一定の距離を保ったまま、とぼとぼと。俺はと言えば、幸い頭にも身体にも異常は無さそうだ。記憶を戻したから、自分に変な「枷」みたいなのを付ける必要も無くなったから、脳は澄み渡り、身体の隅々まで意識が通るような、そんな研ぎ澄まされたような感覚にまでなっていた。


 もっとも、意識を絡めとるようにしていつも在った、考えることが、考えるべきことが何も無くなって、スカスカになっただけかも知れないが。頭も、体も。


 沈黙に耐えられなくなったわけではないが、ぼんやりと、ただぼんやりと視線を上げてここら辺りの景色を見納めとばかりに見ている。さっきまで差していた日差しは、徐々に雲間に吸い込まれていった。六歳の頃からずっと暮らしてきたこの街にも、たぶんもう訪れることは無くなるはず。そう言や、


 「親父」の言った「条件」、ってのは何だろうな……中学卒業するまで家からは出さない、とかだったら厄介だな。時間的期限は呑めない。いまこの瞬間も、いたたまれなさは空洞になっているかのような脳内にこびりついているから。


 ……見えてきた。建売にしちゃあ、そこそこ洒落た外観の白壁の一軒家。小さいながらも庭付きで、さらに洋風の生垣みたいなのがぐるりを囲んだ、緑が鮮やかな見慣れた我が家。ここも最後だ。普段は意識することすら出来なかったが、改めて外観を眺めると、何だか懐かしいな。アスカがいなくなったこの家で、俺はずっと育ってきた。そこには明日奈がいて……心の中にはアスカもいた。そうだ、ポーちゃんのことも思い出した。最期には、「俺」は立ち会えなかったけど。と、


「オー、アシ……タカサンー大丈夫デシタカねー」


 親父か明日奈から連絡が行ってたのか、コンクリ塀から顔を覗かせていたおふくろが、俺らの姿を認めるや、サンダルをぱたぱた鳴らしながらこちらに向かってきた。フリルのついたエプロン姿が、妙に似合うな。その上の鼻筋の通った整った顔は、やっぱり明日香明日奈の面影がある……その顔を心配そうに強張らせながら。いや、きっとすごい心配をしてくれたんだろう……でも、この人とも、もうお別れだ。


「キノゥヤッタ、悪いがさっき言ってたアレ、庭の方に持ってきてくれないかい? オレらはこのまま向かうから」


 親父がそう声を掛けると、何か言いたそうでそれでも神妙に黙って頷いたおふくろは家の中に戻っていった。何だ?


「……」


 促されるまま後についていくと、手入れされた芝が張られた割と広めの庭があるわけで。子供の頃はよく明日奈と遊んでいたそこは、今では家の中から何となく眺めるだけの風景と化していたこともあり、改めてそこに立つと何というか、「縦に狭く」感じる。


 郷愁……と呼べるほどでも無いな……ほぼほぼ「俺」はアスカやアシタカの「内」に半分埋もれていたような、定かではない状態であったわけだし。


 でも、それでもどこか懐かしい……でももうそれをそうと感じることも無くなるはず。


 誰も俺を知らない所に行けば、自分の過去から逃れられるはず。はずなんだ、そう思えばそうなる、そうだろその「思い込み」こそが俺の最大の能力のはずなんだから……っ。


「……!!」


 必死で感情とかいろいろ溢れそうになっているのを押し込めながら、雲が翳りを運んできた芝生の色を見据えながら佇む。そこへ放り投げられてきたのは、赤い小さな冊子と黒い短い何かと橙色の薄いカード状の……いやカードだ。誰でも知ってる金融機関の。通帳、印鑑、カード。そこまで揃っていたらそれらを投げ放って来た親父の意図は汲めた。わざとぞんざいに扱ってることも、分かった。


「おめえさんのだ、持っていきな。名義だ何だの手続きもやってやる。ただし……」


 「条件」、いったい何だよ。相変わらずいいガタイに纏っていたスカした黄土色のスーツの上着を、掃き出し窓を開けてこちらを不安げに見ていたおふくろに手渡すと、髭面の壮年は躊躇もせずにその磨き上げられた革靴も両方脱ぎ捨てると、そこだけは普通のおっさんっぽい、薄手の黒い靴下も丸め脱いで投げ捨てたのだが。そして野太い声でひとこと、


「この俺を、倒してからゆけぇぇぇええい……ッ!!」


 どこまで本気なのかは分からなかったが、厄介だなということだけは把握できた。そのまま腰を割り、四股みたいなのを踏みつつこちらを意味ありげににやりと覗き込んできやがる。らしいよ。あわよくば、こんなわやくちゃでうやむやにしちまおうとか思ってんだろうな。それはありがたくもあるけれどさ。親父の本気なんだかどうなのか分からない言葉は続いていく。


「……親もとから巣だとうってんなら、その親を、倒してから飛び立つが必定……」


 いやに芝居がかった感じだけど、もうそんな……感じでも無いんだ。完全に、俺はもう……自分の中で何かがキレちまったんだよ。何もリアクションは返せねえぞ? でも俺以外は意外とみんな真剣マジっぽい目でこちらを見て来やがる。何だってんだ。母親に後ろから両肩辺りを支えられながらの明日奈と目が合ってしまう。ウインクで、殺してくれるなら殺してくれてもいいが。が、


「……」


 ここはもう、自分の力でこじ開けるほかは無さそうだった。親父の恵体とか、そこから繰り出される冗談みたいな膂力は奇しくもこの身体で何べんも刻み込まれるかのように記憶させられていたけれど、それでもやるしかない。幸い「能力」……というか、意図的に「枷」を付けていた身体能力はもう全開で出せる。【胆力】【筋力】【体力】……そして【気力】【活力】、その辺りを燃やせ。靴下を靴の中に入れ込むように半脱ぎすると、そのままスニーカーと一緒に左右に蹴り飛ばすように脱ぎ捨てる。昨日から着ていた色あせたパーカーも後ろらへんにほっぽり投げると、思い切り息を腹底まで落とし込んだ。


 相撲の立合いのように蹲踞しつつ既に左拳を芝生に付けていた巨体の真正面に、俺も腰を落とし構える。変化とかは考えない。まずは渾身の力で、このままならねえ頭をぶち込んでいってやるまでだ。


 全部を、全部がぶち壊れちまっても、それはそれで何も問題は無いのだから。

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