chrono-28:協力は、リング…繋ぐ輪環リインカーネイションの巻


 自分の鼻いびきの音を聞きながら、徐々に覚醒していった。そのままずっとまどろんでいたかったが、そうもいかないだろ、との思いも肺奥くらいからじわじわと上半身全体一帯に広がっていき……


「……」


 目覚めた。持ち上げた瞼の隙間から見上げた天井はくすんだ白色で、その横の灯りが消されたままの蛍光灯シールドの灰色じみた白色と、どちらが濃いのか、みたいな詮無いことに意識を飛ばしていたら、目の動きで気づかれたみたいだ。


「おにいちゃんっ、よかった……」


 身体の上に掛けられていた薄い毛布の上に出していた右腕にしがみつかれた感覚。震える涙声の方に視線をやると、そこにはさんざん泣きはらしたと思われる、赤い両目があったわけで。徐々に周囲の様子が分かってくる。一般病棟、個室、ってところか。左手側はほぼ一面ガラス窓で、そこからの光の感じでまだ昼頃かな、とか考える。ファミレスの外階段から転落して頭かどこかを打って気を失って病院に運ばれたと。そういったところだろう。頭にもどこにも、痛みを感じるところは無いように思えた。


 そうだろう。意識を失ったのが先で、それから倒れたのだろうから。まあ何事も無かったのは幸いだ。逃げ場のない病室でずっと顔を突き合わせるなんてことは、もう耐えられそうになかったから。と、


「おうおう、階段からスッこけるたぁ、よくよく運の無え奴だぁ。小せぇ時からそのうっかりさは変わんねえなぁまったく」


 そのことには何の感慨も覚えない自分に少し戸惑いながらも、傍らから発せられてきた野太い声には、ちゃんと辟易した。珍しいな、こっちの方に時間を割くなんて。


「乗ってたバスが滑落しかけても生きてたんだから運はあるだろ」


 次の瞬間、自分の口から出ていたのは、そんな温度の無い言葉だったけれど。それについても何も思うところは無かった。ただ、記憶が戻ったということを、その事実を端的に伝えようとしただけだ。もちろん悪意は込めた。何らかの毒みたいのを吐かなければ、自分がそれにやられてしまうような気がしていた。


 ふたつ並んだ似てない親娘の顔が、同じように引きつったのを冷めた視界で捉えている。何も、感じなかった。「心」というものがもし可視化できるのだとしたら、自分のはありがちなハート型だが、光をほぼ吸収するようなツヤも無い漆黒の、硬質なゴムのような質感のものであるようなイメージが頭に浮かんだ。いや、そんなのどうでもいいか。とにかくもう、何にも動じることは、無い。


「おにいちゃんっ……思い……出したの?」

「『おにいちゃんっ』て呼ぶのはやめろ。本当の兄妹じゃないんだから」


 キサマァァァッ!! と案の定、激昂したのかそれもポーズなのか分からなかったが、傍らの髭面壮年に、着せられていた前に併せのある水色の患者衣の胸倉を捩じり掴み上げられていたが、それすら型に嵌まった茶番にしか思えなかった。その横で、涙も出ないほどにショックだったのかは知らないが、息を吸い込んだままで固まってしまったかのような表情を見ても、特に何も思わなかった。


 全ての記憶が戻った今、全部が全部茶番に過ぎないことが分かった今、


「……」


 俺にはもう、意思も意志も、一滴たりとも残っていないような感じがした。鉛の玉を吞まされた……というか、喉奥とか鼻孔とかさらには耳の穴からも溢れ出てこんばかりに、水銀みたいな重質な液体をたぷたぷになるまで飲まされた気分だった。軽く胸元の手を掴んで離させる。そして、


「今まで騙してくれてありがとう。おかげで何とか今まで生きてこれた。でももう限界だったみたいだ。俺の中の『アスカ』が、苦心して作り上げた『アシタカ』という存在も、もう消えた。残ったのは六歳から十五歳の借り物の記憶しか持たない、『網代田 天史』という名の抜け殻みたいな存在だけだ」


 フラットに、とわざわざ心がけなくても、俺の唇から滴るようにして放たれる言葉は平坦だった。


 ちがうもんっ、と言い募ってくる柔らかで華奢な身体を右腕で押し返しながら、自分にも言い聞かせるように俺は言葉を放つ。訣別。諸々からの、訣別へと向けて。


「なんて、ま、俺も騙していたんだけどな。記憶なんて、失ってやしないんだよ。六歳の頃の転落事故をきっかけにして、『記憶を失ったフリ』を始めた、それだけのことだったんだ。なんか大きな怪我して俺って不幸……みたいな感覚? それでもっとみんなの気を引きそうなことをやってみたくなって、『記憶喪失』した俺カッコいい……みたいな? ハハッ、安易だよなぁ……そして『違う自分』を演じ始めた。その時ひらめいたんだ、せっかくなら、アスカをトレースしよう、って……俺の病気を治してくれて、いつも引っ張ってくれてたアスカは……俺の中で本当に、本物の『ヒーロー』だったんだ……」


 いったん吐き始めたからには、最後まで吐き切らないと収まらないような、そんな奇妙な義務感のようなものが自分の頭を支配していた。


「そう決めてから俺は、アスカならこうする、アスカならこう言う……みたいな膨大な選択肢を常に思い描きながら選び続けてきた……その時は、自分が本当に『アスカ』になった、なれた気がしたんだ。周りもそんな俺に合わせてくれてたんだよな……かわいそうなコっていうような感じだったんだろうな……」


 反論は、もう聞こえなかった。そうだ、在坂とか、あの辺の奴らは物心つかない頃から一緒の保育園で、一緒に遊んだ仲間だった。朋有センセーも、年の離れた妹を、母親の代わりに頻繁に送り迎えしてたっけ。だから、顔見知りの昔っからの付き合いだった。だから、奇行まる出しの俺でも、生暖かい目で見守ってくれてたんだろう……俺は馬鹿だ。


「でも、俺の中で作り上げたアスカはそのうち拒絶するようになっていったんだよ……ッ!! アスカはいつの間にか『自我』みたいなのまで持ち始めていて、そして考えた。『自分は、この身体の持ち主じゃない』ってなぁ……ハハッ、まあ当然だよ、女と男、歴然だ。だが俺はもういまさら『自分』として振る舞うことは限界だった。だから殻に籠ってアスカからの受け渡しを断固拒否した。そして……進退窮まったアスカは、考えに考え抜いてとんでもない選択肢を捻りだした……」


 いつの間にか、自分の身体は半身が起き上がり、そして長距離を走ったかのように、息を切らせていた。それでも、空気を吸い込み、言葉を続ける。自分に、訣別するために。


「それが『来野アシタカ』さ。アスカは自分で作り上げたその『人格』のひとつに逃げ込んだ。そして自分の記憶を『三十一の断片』にして、それらをひとりひとりに割り振っていった。自分の真実を、明確には思い出させないように。そうして俺は、『来野明日香アシタカ』という名前で……人格で、落ち着いた。思い出してはいけない、でも忘れてもいけない三割の記憶のピースを日々入れ替えながら、自分を殺すことで自分を何とか生かしてきたんだ……」


 何のために、俺は生きてきたんだろう……アスカのいない世界で。それでもアスカは喪われていないってことを証明するために? それを……周りの人間がどう思うかも考えずに? 俺は馬鹿だ。


「記憶が戻るきっかけが『精通』だったってのはお笑いだったぜ。が、完全にそれで、アスカは突きつけられてしまったってわけだ、自分はニセモノだったってことを。その上で、崩壊しかけた自分の中の、アシタカ全員を誘導して、俺を、アシロダタカフミを引きずりだそうとしたっつうことか。そうか……そうだったんだな……」


 最後の方は、自分に言い聞かせるような感じになってしまった。アスカの真意を、他ならぬ俺自身もようやく汲み取れたよ。でも俺はもう限界だよ。いまさらアシロダタカフミとして生きていくなんてことは……それも独りで、ひとりぼっちの人格で生きていくなんてもう、出来やしないよ……


 明日奈はもう、顔を両手で覆って、身じろぎもしていなかった。彼女に対しても、記憶が戻ったいま、もう今まで通りに接することなんて、出来そうもなかった。訣別のための、言葉を放つ。今はそれだけしか出来ない。


「……もう此処にはいたくない。どこか遠くの場所でひとりで生きるよ。だから親父、カネと名義を貸してくれないか……」


 「親父」と面と向かって呼んだことは無かったが、思ったよりフラットに呼べた。もう関わり合いが無くなると思ってたから、そんな風に他人事のように発せられたのかも知れない。そして言ってることは最低だったが、それに対して返された言葉には、それについての何の感情もこもってはいなかったわけで。


「……いいだろう。ひとつ条件があるけどな」


 目の前の髭面は、いつの間にか凪いだ表情になっていた。それは、今も忘れることが出来ない、俺の、本当の父親の顔に似ているような気がした。

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