第100話 自分らしさ
「海? なんだってこんなところに?」
空の色を吸い込んだような海水。どこか心惹かれるような潮騒の音と鳥の鳴き声。イレーナは、俺をここに連れてきたかったのだと言う。
「……ここはな、あたしが鍛冶職人になることを決めた場所なんだ」
イレーナは腰に手を当て、海を見つめながら呟いた。太陽の光に照らされた彼女を見て、俺も同じように海を見つめた。
「何かきっかけがあるのか? 海を見て鍛冶職人なんて」
「昔、ここにサムライがいたんだ。サムライがあたしに、世界の広さを教えてくれた。そういう場所なんだ」
……それ本当かなあ。イレーナのことだから話を盛ってそうな気がしないでもないけど。
イレーナはそう言ったかと思うと、俺の方に体を向けた。
「アルクス。
イレーナが笑った。満面のくしゃっとした快活な笑顔に、俺は思わず視線を逸らしてしまった。
「……喋り方が戻ってないか?」
「いいの。ここではアルクスとあたししかいないんだから。それに、ここでだけはあたしは自分をさらけ出せる気がするんだ」
「それが、ここを選んだ理由か?」
イレーナは頷く。その場にしゃがみ込んで、波打ち際を眺めて話し始める。
「あたし、こう見えてちゃんと感謝してるんだよ? アルクスがいなかったら、ここまでこれなかったから」
「そんなことないよ。イレーナが緋華を完成させたのは、自分の力だって」
「――ううん。もしあたしが一人だったら無理だったよ。あたし、何度も心が折れちゃいそうになったもん」
そう言われればそうなのかもしれない。でも、俺はそれを素直に肯定できなかった。
「でも――俺がもっとしっかりしてれば、イレーナは優勝できたかもしれない」
「とうっ!」
その時、イレーナが突然立ち上がって俺の額にデコピンをしてきた。いきなりのことに、俺は思わず驚いてしまう。
額を抑える俺を見て、イレーナは満足げに笑う。ひとしきり笑うと、ふうと息をついて。
「あたしさ――怖かったんだよ。優勝できなかったらどうしようって。師匠の弟子の中で、あたしが一番出来が悪いのはわかってたし。あたしだけ優勝できなかったら、そんなの落ちこぼれじゃんね」
「それじゃあ余計に――」
「でもね。今はよかったって思ってるよ」
意表を突かれた。
「アルクスのおかげで、あたしは大事なことに気づけたから。あたしはね、上手くやろうとするばっかりで大事なことを忘れてたの。『自分らしくいる』ってこと。この場所が、あたしにとっての原点。あの日鍛冶職人に憧れた気持ち。それを思い出したの」
優勝が出来なかった。それは事実だし、取りこぼしだと言ってしまえばそうなのかもしれない。
でも、イレーナのその言葉を聞いたとき、俺の中の後悔のような気持ちは消えていた。
なぜなら――彼女の笑顔が、心の底から嬉しそうで、とても素敵だったから。
「ありがとう。アルクス。一緒に戦ってくれて。あたしに大事なことを思い出させてくれて。それから――大好きだよ」
その瞬間、イレーナが背伸びをして、俺の唇にキスをした。
波音が、世界から音を奪う。ほんの一瞬のことだったのに、彼女の表情の機微が見て取れるような、そんな感覚だった。
イレーナが俺から離れて、いたずらっぽく笑う。海が光を反射し、キラキラと装飾された彼女の笑顔を見て、俺は思わず心を奪われそうになる。
――何も取りこぼしてなんて、いなかったんだな。
俺は全力でやった。大会は優勝できなかった。でも――今、目の前にいるこの少女は、世界の誰よりも幸せそうだ。
「イレーナ、今のは――」
「よし、やることもやったし帰るぜ! 師匠が、今日は『大会お疲れ様会』をやるって言ってたからな!」
彼女の行動の真意を聞こうとした瞬間、目の前にいたのは『いつものイレーナ』だった。
「うわっ! 切り替えが早いな!?」
「てやんでい! さっきのはちょっとした休憩だ! あたしは世界一の鍛冶職人になる女だ、止まってなんていられないぜ!」
すっかり元気を取り戻したイレーナ。さっきの『俺とイレーナしかいないから』という発言はどこに行ってしまったのやら。
「おーい! 遅いぞアルクス! どっちが真のサムライか、街につくまでの時間で勝負だ!」
さっさと走り出してしまうイレーナ。俺はため息を吐きたくなる気持ちを抑え、彼女の後に続く。
ふと後ろを振り返ると、波は絶えず揺れ動き、寄せては返してを繰り返していた。
波打ち際で立つ水しぶきは、日の光を浴びて輝き、まるで火花のような様相を呈していた。
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