泡に溶かす

芦髙 了

泡に溶かす

人生には至福の時間が必要だ。

私の至福の時間はこうだ。少し伸びた髪を切りに、美容院に行きシャンプーをしてもらう時間。

よりよい空間に出会うために、時折新しい美容院に訪れる。今日のお店はどうだろうか。

最寄り駅から徒歩10分の住宅街に佇む、隠れ家的美容院。

間接照明の穏やかな灯りに、眠りを誘うハープの旋律せんりつ。美容師さんが優しく髪を洗いながら頭皮をマッサージしてくれる。

最高だ。顔がついつい綻んでしまう。

美容院のシャンプーは、自分にとって一種のみそぎのようなものだ。

次々と浮かぶ仕事のプレッシャーや不安がシャンプーの泡に溶けて流されていく。美容院から出る頃には、切った髪の量よりも心なしか身体が軽くなっている気がする。

理性まで洗い流されてしまったのか、口から勝手に言葉が漏れていた。

「あ~。ずっとこうしてたいなあ」

美容師さんの手が止まる。

しまった。初めての店なのにくつろぎすぎた?

いや、でも褒めてるんだから大丈夫だろう。

つらつらとそんなことを考えていると、額にしずくが落ちてきた。

「す、すみません」

慌てる美容師さんの声を聞いてうっすらと目を開けると、口元を引き結んであふれる涙を止めようとしている、美容師さんがいた。

驚いて目を見開くと、美容師さんの手が視界の端に映った。まだ20代なりたてぐらいの若い女性の美容師さんだったが、シャンプーや薬品のせいかひどく荒れた手をしていた。手だけ見せられるとおばあさんの手だと思ってしまうくらいだ。

目元のクマも気になった。シャンプーをする見習いは客がいない早朝と深夜に練習をするらしい。

客に褒められて感動してくれているのだろうか。

私にとっての至福の時間が、それをもたらしてくれる人にとっても幸せなものであってほしい。

そんな苦労をしながら働いているんだ。ねぎらいの言葉はいくらあってもいいだろう。

「シャンプーすごく上手くてびっくりしました。たくさん練習されたんですね」

「ありがとうございます...」

そういって美容師さんは微笑ほほえんだ。頬から伝う涙はきれいだった。

「すみません...。お客さんの顔が、シャンプーしてる時のうちの犬にそっくりで...。昨日犬が死んだのを思い出してしまって」

人は自分の見たいように物事を見てしまう。

何とも言えない気持ちになるが、その思いも泡に溶かして流しておいた。

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泡に溶かす 芦髙 了 @ashitaka_ryo

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