流星に願い事

なづ

第一章

 流星りゅうせいが、しんだ。

 自分でもなぜかわからないけれど、俺はふとイツカを振り返った。イツカは顔を蒼白にして、目を見開いている。らしくないその妹の表情に、俺はぞっと背筋を凍らせた。

 ワンピースの裾を強く握っているイツカが、俺の視線に気が付いて、機械のような動きでこちらを見る。俺はすばやくそんな妹から目を逸らした。

 香典をやって、手を合わせて――じいちゃんのときにやったことの繰り返しなのに、簡単なそれすら手につかない様子でいるイツカに、俺はやっと近づく。イツカはこちらを再度見た。暗い、にごった目だった。

「イツカ。帰ろう」

「でも、まだ、お葬式、終わってない」

 イツカの言葉は、本当にその通りだった。葬式の途中で抜けるなんて、イツカちゃんは流星くんと、本当に仲が良かったのにね……、そんな言葉を周囲から投げられる様を、俺はまざまざと想像する。それでも、俺はイツカの腕をつよく引っ張って、嫌がるけれどろくに抵抗もしないイツカと、流星の棺桶に背を向けたのだった。

 葬式の帰り道、俺とイツカを照らしていた真昼の太陽を、俺はまだ覚えている。

 イツカが抵抗をしていないから、全く意味もなくではあったけれど、俺はいまだにイツカの腕を引っぱっていて、イツカのほうもなにも言わなかった。いつもであれば、彼女はそういうとき、「痛いから離して」くらい言うのに、そういうことを一言も漏らさずなされるがままというのは、やはり今考えても異常だったのだと思う。

「流星くん、死んじゃったね」

 ぽつりとつぶやいたイツカの言葉には、イツカの心がどこかにいってしまったかのようなからの響きがあった。梅雨明けすぐの、夏になったばかりの頃、じわじわと背後で蝉が鳴いている。

「死んじゃったね……」

 イツカは呆然と繰り返し、道端に転がる石ころを見ていた。俺は足元の潰れたジュースの空き缶を踏みつける。「そうだな」

 そうだな、以外に、なんと言えばよかったのだろう。

 まだ幼い妹と、そしてまだ幼かった俺は、そうしてほとんど無言で家に帰った。

 あのとき、俺がもっとうまい言葉をイツカに渡せていれば、この三年間はもっと、イツカや俺にとって、良いものに変わっていたのだろうか。答えは当たり前に誰も知らないし、誰も教えてくれないだろう。

 流星は、俺たちの流れからひとり、出て行ってしまった。流星のことを妹の友達としか思っていなかった俺であっても、やっぱりその死に方が自殺だと知るのは、あまり良い気がしない。特に友達であった当人のイツカは、良い気がしないどころではなかっただろう。

 でも、中二の俺に、「そうだな」以外の言葉を吐けと言うのは、どだい無理な話だったのだ。それだけはどうしても覆ることはないのだと、俺はいまでもそう思う。

 あの日から、三年が経った。

 迫田流星はイツカと本当に仲が良くて、イツカの兄である俺が、そんなふたりを揶揄うこともあるくらいだった。

 そんな俺にイツカはにこにこ笑って、俺に向かって「ばかなこといわないで」だとか、「お兄ちゃん、うらやましいんでしょ」なんて軽口を叩いていたのだ。

 妹のイツカは、あれからろくに学校もいかず、真っ白な中学三年の夏を迎えている。

 青春の思い出なんて、勿論彼女にはまったくないだろう、と思う。

 俺は、高校二年の夏、そんな妹を、狭い室内に置きざりにして過ごしていた。部活は帰宅部だけれど、人並みに恋もして、彼女をつくり、友達とファーストフード店に行ってくだらないことを話して――そういう当たり前の青春を、妹のイツカと流星をあの日にしまい込み、端からいなかったかのように振舞っていた。

 そんなある日だった。「なあ、ゆきに妹がいるって、まじ?」

 雪平ゆきひらという俺の名前をもじって、皆は俺のことを、ゆき、と呼ぶ。俺はぱちぱちと瞬いた後、わざとらしく眉根を顰め、嫌で仕方がないとでもいうような声で言う。「思いださせるなよ。誰からきいたわけ」

空也くうやに訊いたんだよ、なんか、妹の名前、明日あしたみたいな、明後日あさってみたいな名前だったんだけど……」

「――イツカ」

 俺よりもっと冷え切った声で、俺の隣でハンバーガーを食べていた椎名しいながいう。「椎名」と俺は名を呼んで牽制したけれど、椎名は俺の言うことなんか聞くような殊勝な奴ではない。「イツカだよ。日付の五日って書いてイツカ」

 椎名は、男の俺でも驚くほど整った顔をしている。だけどいつも不機嫌というか、クールぶっていて、こんなに付き合いの悪い奴とつるんでいる理由が、俺自身のことなのに、本気でわからなくなるくらいだった。

「五日ちゃん! それそれ、すげえ名前だよな」

 友人の馬鹿みたいな盛り上がりに背を向け、「俺、帰る」と俺は唇を尖らせて言い捨てた。本気で帰るつもりで店から出ようとしている俺を追いかけてきた椎名が、「おい、いい機会だろ」と俺の腕を強く引っ張って、店内に戻そうとする。

「いい機会ってなんだよ」

「お前、いつまでイツカを放っておくつもり?」

 椎名の言葉に、ぐっと俺は喉を詰まらせる。不機嫌まるだしの顔で椎名を見ても、椎名までこちらをきっと睨み返してくる始末で、どんどん険悪になっていく雰囲気を見ていたらしい、イツカのことを勝手にべらべら喋った空也が「おいおい」と俺と椎名の間に入ってくる。

 空也は髪を茶色に染め、耳にピアスをじゃらじゃらつけた、所謂「不良」とかいうやつで、空也が近付くと、いつも煙草のにおいがする。そんな姿をしているから、俺たちのような普通のグループの中で、いつも空也だけが悪目立ちしていた。

 俺と椎名の間にいる空也の足を、俺は思い切り踏みつける。「いてっ!」と空也が短い声を上げたけれど、俺はそれを無視して、自分の言いたいことを言う。「空也、なに勝手にあいつの話なんかしてるんだよ。気分が悪いだろ」

「なんでそんなにイツカちゃんを嫌うんだよ、お前のその態度を見ているこっちのほうが、気分が悪いっての」

「お前に関係ないだろう!」

 俺が突然大声を出したことに対して、そばで見ていた椎名がはっきり表情を歪めた。「ゆき」と今度は椎名が俺を咎める。俺は空也を突き飛ばして、荒々しく店を出た。外は蒸し暑く、蝉の声が煩わしく響いている。

 ――七月になってだいぶ日が過ぎて、課外ばかりのつまらない、高二の夏休みの始まりの日のことだった。

 こんな始まりを迎えて、俺はなにもかもにうんざりしていた。やっと夏休みだな、でも課外があるなあ、どっかに遊びに行こうぜ。そんな他愛もない会話で終わらせていればよかったのに、どうして妹の話なんて。

 イライラしながら部屋を出て、トイレに向かう。その途中で妹の部屋の扉が目に入って、俺はわけもなくその扉を蹴りつけてやりたくなった。しかしそれを実行に移すことは駄目なのだと、俺はちゃんとわかっていた。

 代わりに、こん、と返事がないことを知っているうえで扉を一度だけノックする。やはり中から返事はなく、しんとした廊下にため息をひとつ落として、俺は妹の部屋の前から退いた。

 小学六年生、流星がいなくなったあの夏から、五日の時はぴたりと止まっていた。まるで、イツカはあの日、流星とともに死んでしまったかのように。

 部屋の中からまるきり出てこなくなった彼女は、気付くとそのまま中学三年になった。義務教育が終わってしまう歳になって、ちょっと前まで諦めていた両親も、最近、妹の様子を気に掛けている。

 迫田流星の名は、この家ではタブーであり、イツカが飯時でさえ部屋に籠っているような状態でも、俺たち家族はみんな、絶対に流星の名は出さなかった。昔はあんなに、流星くん、流星くんと言って笑っていた母も、いまは俺の友達の名前しか、口に出すことはない。

 次の日、再び課外授業で、夏休みだというのに学校に行った俺は、そこで椎名にきつく睨まれた。俺を見た瞬間、椎名はこちらに向かってきて、「ちょっと」と顎で廊下を指し示す。俺は癪だと思いながらも、椎名の後ろをついていく。椎名は人気の少ない廊下まで行くと、「あのさ」と低い声で言った。

「イツカのこと、本当にいつまで無視しているんだ? 俺が首を突っ込むようなことじゃないけどさ、あんなに仲が良かったくせに、お前もお前なんだよ。俺とイツカは仲が悪いんですみたいな顔、してんなよ」

「……ほんと、椎名が首突っ込むことじゃないだろう」

「それなら、いつまでも経ってもだらだらと、泣きそうな顔してんじゃねえよ」

 椎名の言葉に、俺は赤面する。泣きそう? 誰がそんな顔したよ!

「んな顔してないだろ! 俺は、イツカなんてどうでも……」

「どうでもいい」と言いかけて、俺は口を噤む。それだけは、どうしても言ってはいけない言葉のように思えたのだ。嫌いだとか、知らないだとかは口に出せても、突然部屋に籠った妹の心内が全くわからないことが、妹への嫌悪を増長させているんだとしても――それを「どうでも良い」と言い放つことは、してはいけないのは、俺でもわかる。

 廊下に予鈴が鳴り響く。いつの間にか、廊下の人もまばらになっていて、「椎名、予鈴」と俺は椎名から顔を逸らした。椎名は小さなため息をついて、「先に行く」と言い残し、わざとらしく、予鈴を告げた俺よりはやく教室に戻っていった。

 イツカが壊れたのは、その日の夜だった。

 いつも通り食卓に集まって食事をし、テレビを見ていた俺と両親は、二階からの激しい破壊音に驚いて飛び上がり、顔を見合わせた。断続的に響く音に、父さんが慌てて二階へと向かう。母さんはなにかを察したように顔を真っ白にして、ぶるぶると震えていた。

 俺も父さんの後を追って二階に行く。二階の部屋から、イツカが姿を現していたことにも俺たちは驚いたけれど、それよりもその手首や腕にのこる無数の自傷痕や、ぼさぼさに伸び切った長い髪、ぼろぼろと大粒の涙を流す妹の姿に、俺は目を見張った。

「イツカ」

 父さんが、いまなお壁を殴ろうと腕を振り上げるイツカの名を強く呼んで、その腕を抑える。俺はイツカの名を呼ぶこともできず、なぜかどくどくと早鐘のように打つ心音に、気付くと胸を押さえていた。

「離して、私は死ぬの」「私は生きていてはいけないの」とイツカがわめいているのを遠くできいているような、一枚の壁が隔てられているみたいな、そんな感覚を抱く。「雪平!」と父さんが短く俺を呼んで、そこでやっと俺ははっとした。「イツカ」

 気が進まないけれど、いまはそんなことを言っている場合ではない。俺はイツカの傍に寄って、その顔を覗き込んだ。ぼたぼたと落ちる涙の粒に視線を合わせ、変わり果てた妹を、無意識にあまり視界に入れないようにしてしまう。

 だって、これはあまりにも――ショッキングだ。

 イツカは小さな声で、「りゅうせいくん」と懐かしい名を呼んだ。たった一度だけだったけれど、それを機に、イツカは床に臥せて大声で泣きわめきだした。父さんが妹を部屋に連れ戻す背中を見ながら、なぜだかそれに不思議な心持ちがした。

 それから、イツカはまた、部屋から出てこなくなった。

 あれから三日が経ったけれど、俺はいまだにあの日のイツカの風貌や、行動が頭から離れず、それと併せて椎名の「いつまでイツカを放っておくんだ」という言葉も、ぐるぐると脳内を巡っていた。「いつまで」と言われても、あんな風になった妹、俺にはきっと、どうしようもないだろう。

 椎名は、あれから俺になにも言ってこない。いつも通り俺の隣に座って、無愛想に会話に参加しているし、空也もちらりと俺に絡んだきりで、それからはいたって普通に話している。俺たちはなにもかも「元通り」で、俺が妹を狭い部屋に閉じ込めて忘れ去ろうとしているのも「元通り」だった。りゅうせいくん、というあの日の妹の声が耳に残って離れないのも、きっといつか消えていくだろうと、不確かな予測を立てる。

 迫田流星――

 色素が薄い茶色の目をしている奴だった。顔は平均的で、特別目立った特徴も目の色以外にはなく、だから俺はもう、あいつの顔も声も、ほとんど忘れてしまった。そんな奴いたなあと言えるほど存在は消えないけれど、その形はもう無いのだ。

 迫田流星は、妹が小六、俺が中二の夏に、その命を自分で断ち切った。小六だから、すこしテレビのニュースにもなった。走る電車に引き込まれるようにふらふらと、だったらしい。その場を、俺たち兄妹は勿論見ていたわけではなく、その事件も、ニュースと噂話できいて、それから気が付くと彼の葬式に出ていたのだった。

 たったそれだけのことでも、人の命が消える様というのは、いつも誰かの心に傷を遺すらしい。迫田流星が傷をつけた「誰か」が、妹のイツカだったというだけなのだ。

 ぼさぼさに伸びた髪、沢山の自傷痕――生白い腕はきっと、三年も日を浴びなかったからだろう。やせ細っているのは、食事もほとんど摂らなかったからだ。目が剥き出して、そんな目からぼたぼたと大粒を溢して……久方ぶりに出した、掠れた声で喚き散らして……。

「イツカ、暴れたんだって?」

 自転車を走らせながら、後ろから椎名の声。「何で知ってるんだよ」と俺が自転車を止めると、椎名も足を地面につけた。「母さんが言ってた。井戸端会議ってやつ」

「イドバタカイギ……」と俺は母さんに対して恨みがましく呟く。母さんにとってもきっと、なにかしら思うところがあったんだろうけれど……。

「イツカ、どんな様子だった」

「なんでイツカのことを、そこまで気にするんだよ。放っておけばいいだろう」

 椎名の質問に、質問で返す。椎名は俺をまっすぐ見据えていた。「逃げるんじゃねえよ」と椎名が言う。俺は「は?」と眉間に皺を寄せた。「逃げるってなに」

「先に謝っとく。ごめんな」

「は、なに」と俺が言うよりはやく、椎名は俺の肩を、力いっぱい叩いた。「いってえ!」と声を上げた俺に、「いい加減にしろ」と椎名は低く、這うような声で俺に言う。

「あんなに仲良かった妹を、なんで邪険にするんだよ。心配しているなら、心配しているって言えば良いだけのことだろう。それすら辞めて、こんなになっても目を逸らしてるなんて、情けないと思わないのか」

「俺にどうしろっていうんだよ。あいつが出てこないのはあいつの身勝手で」

「――流星の名前、呼んでたんだろう」と椎名が呟く。「妹が引きこもった理由、流星なんだろう? あいつが死んだことに、なにか意味があるんじゃないか。だからイツカが引きこもっているんだろう。私のせいだって、なにか心当たりがあるんじゃないか」

「は……」と、椎名の思いもよらない言葉に、俺は目を瞬く。ふらりと足元がよろけて、でも絶対にそれがバレたくなくて、すぐに俺は踏ん張って椎名から目を逸らす。

「なあ、ゆきの妹、多分、心が壊れているんだよ。分からないのか」

「なんで」と俺は言う。椎名はなぜかかぶりを振った。「ゆき」と椎名は俺の名を呼ぶ。それだけで俺は反論を全部飲み込んでしまって、視線を彷徨わせた。

「……わかったよ」

 なにが「わかった」のかもわからないまま、気が付くと俺は椎名にそう返事をしていた。

 がたん、となにかの物音がして、目が覚める。イツカの部屋からだ、と意識がぼんやり浮上して、不思議なことにその音が無性に気になり、俺は音の方を確かめに恐る恐る部屋を出た。

 なんてことはない、イツカはなにか用事があって――食事だとか、風呂だとか、そういう生理的な用事だろう――部屋の外に出ただけだったらしい。でも、その姿が問題だった。

「おい、イツカ」

 あんなに長かった髪が、ざくざくと短く切られている。それを見た瞬間、俺は平常のイツカに対して、数年ぶりに話しかけていた。イツカは驚きとともに、どこか恐怖も宿しているような瞳でこちらを凝視する。俺はそれに身をすくめたけれど、それでもここで引くのは、絶対にだめだ、となぜかそう思った。

「……その髪、どうした?」

 イツカにそう、努めて優しくたずねても、声が震えるのは隠しようもない。イツカはいまだ警戒しているように身を固くしていて、「なんでもない」と消えそうな掠れた声で答えた。「イツカ、ちょっとこい」と俺はイツカの腕を引いて、自分の部屋に連れていく。イツカはなされるがままだったけれど、いつまでもどこか、緊張しているような様子だった。

「ここに座れ。……俺が、その髪、整えてやるから」

 その俺の提案は、イツカには驚くものだったらしい。そりゃあそうだろうな、と思う。自分でも、なんでそんなことを突然口に出してしまったのか、わからなかった。

 でも、イツカは稍々迷ったあと、こくりと一度頷いた。彼女はそうして俺の学習机の椅子に座り、こちらに背を向けた。

 ハサミは工作用のものだけれど、それで丹念に髪を整えてやる。

 イツカはその間中、肩が凝りそうなほど身を固くしていた。

 イツカの髪は、イツカが突発的に、鏡も見ずに切ったのだろうとわかるほどに乱雑に切られていた。俺の手が、情けないくらいにぶるぶると震える。始終無言でこちらに背を向ける妹の、記憶のそれより随分細くなった肩を見ていると、なんだか言い表せない感情が湧いてきて、気付くと俺は震えながら泣いていた。

 イツカに気付かれていないだろうか。気付いているだろうな……。

 それが分かっていても、兄として恥ずかしいものであるように思えて、俺はその次から次に溢れる涙をこっそり拭って、鼻を静かに啜った。なんで、どうして、こんなことになったんだろう。わけもなく――いや、「わけもわからず」だろうか――そんな言葉が頭に流れ込むように入ってきて、そして脳内に留まってしまう。濁流のようなそれに、俺は必死で耐えながら、イツカの髪を切りそろえてやった。

 ――なんだか、自分が情けなくて仕方がない。

 イツカのさっぱりした後頭部を見ながら、俺はぼうっと、椎名の言葉を思い出していた。「心配なら、心配だって言えば良いだけだろう」「イツカは、心を壊しているんじゃないか?」

「イツカ」

 俺は、イツカを呼ぶ。でも、なにか言いたくて名を呼んだのに、イツカが振り向くとなにも言えなくなってしまって、結局当たり障りもないような、「髪、終わったぞ」という一言で、俺は口を一文字に固く結んでしまったのだった。

 新聞紙のうえに散らかったイツカの髪を全部捨てて、ごみ袋を固く結ぶ。それだけで全部が終わったような気がして、俺はどっと疲れてしまった。でも、状況はそれだけで変わるはずもなく、終わったどころかいまだ平行線に続いているのだ。

「俺に、なにができるんだろう」

 ベッドに入る気も起きなくて、俺はイツカの座っていた椅子に座り、背もたれに身を預ける。学習机の横に置いた、自分の通学鞄が目に入り、イツカも来年には高校生なんだよな、といままで目を背けていたはずである、イツカのことを考える。

 小六から、中三までの、きっと大人になって「青春だった」「こんなこともあったよな」って笑えるような期間を、イツカは知らない。本人が勝手に閉じこもったんだから、仕方がないだろう、と思うことで知らない振りをしていたけれど、それがいつまでも通じるはずもない。俺はイツカの兄で、イツカは俺の妹なんだ。

「……でも、どうしようもないじゃないか」

 椎名は、イツカが引きこもった原因が、流星の死にあるんじゃないかと言っていた。流星が死んでから、イツカは部屋にこもりきりになり、進むのをやめてしまったのだ。

 まるで、流星がいないなら、自分は生きる価値がない、みたいな……。

 ――その自分の思考に、どこか違和感が付き纏う。流星がいないから、と言ってイツカが泣きわめく、ということ自体になにも矛盾はないはずなのに――イツカと流星は、それほどまでに仲が良かったのだし――、なぜだろう。「そうじゃない」と、誰かがずっと、俺の頭の中で囁いているような気がする。

「流星、お前のことさ、調べてみてもいいかな……」

 ぽつりとそう呟いて、目を瞑る。久方ぶりに流星の顔を思い出すことができたと思ったら、不思議とその流星の顔は、見たこともないような、こちらを睨みつける怖ろしい顔だった。

 課外のない日が、久しぶりに訪れたような気がする。

 じりじりと灼ける日差しと、青い空には入道雲が散っている。外は蒸し風呂のようで、そこに蝉の鳴き声がうるさい。バスに乗るのは、面倒であまり好きではないから、自転車を走らせていたけれど、俺はすぐにそれを後悔していた。面倒でもなんでも、こんなに暑い中、自転車なんて乗るもんじゃない。

 流星の墓がある場所をきいたとき、流星のおばさんは泣いていた。「ありがとう」と何度も言われ、いつもはくすぐったいだけのその言葉を、俺は初めて痛々しく思った。流星のおばさんは、三年前にはふっくらとした優しそうな人だったのに、三年後に会ったその姿は、がりがりに痩せこけて、目の下に隈ができていた。

 ――時の経過というものが、きっとイツカやおばさんの中にはなくなっていて、でも、やっぱり見た目は流星を追い越していく。

 流星のいた三年前と、こんなに変わってしまったのだ。おばさんも、イツカもふさぎ込んでしまって、それはきっと、流星が自分で死を選んだからで。流星になにがあったのか、みんながわからないと思っているのはなんでなのだろう。

 今思えば、それはちょっとだけ、異常な気がした。だれひとり、流星の死について、語れる人がいないのだ。

 「自殺してしまった小学六年生」の迫田流星がニュースになったときも、結局その原因はテレビでさえ流すことはなかった。いじめが原因とみられ――や、虐待が――という言葉も、勿論、一切なかったのだ。それもそのはず、流星はどちらかというと好かれるほうで、いつも輪の中心にいるタイプだった。おばさんやおじさんとの仲も、とても良好だったように思う。あざなんて、あったとしても自分で作ったのを見せびらかしてくるくらいだった。

 だから、原因のない突発的なものか、事故だろう、と地方のテレビ局がちらりと流しただけで、それで流星のニュースは終わりだった記憶がある。いまでも鮮明に思いだせるほどに衝撃的だったのに、夕方に一度、人身事故だと流れたきりで、流星は世間からも消えてしまった。

 迫田流星という人物は、イツカや俺、世間にとって、一体なんだったのだろう。

 流星はきっと、死を選ぶだけの理由があって死んだのだ。でも、それがなんだったのか、俺はいままで知ろうともしなかったし、そうする理由もないと思っていた。でも、もし――もし、「イツカのせいで流星が死んだのだとしたら」……

 それに思い至った瞬間、ぞわりと背筋が凍る。そんなはずないだろう、と俺は頭を激しく振った。それから前を向き直る。流星の墓がある墓地まではるばるやってきたというのに、俺は流星に会う勇気がなくなってしまい、結局顔を見せずに帰路についた。

 流星の墓についたときに昇っていた太陽が、いまはもう夕日に変わっている。外はいまだ蒸し暑く、八月の訪れがもうすぐであることを感じさせた。

 迫田流星について調べるといっても、普通の高校生である俺に、そのやり方がわかるはずもない。流星の家に行って、おばさんに訊くことも考えたけれど、それはあまりにも非情な気がした。

 イツカのためとは言っても、俺にはいまだ超えられないラインというのがあって、安っぽいと自分で思うだけのプライドがそれだった。

 それを誰に相談することもできず、俺は一日目を、ほぼなにもせず、思考を巡らせるだけに費やしてしまったのだった。

「ゆき、おはよう」

「はよ」

 課外でふたたび学校にきた俺に、椎名が話しかけてきた。俺はちょっと複雑な心境を隠しながら、普通に挨拶をし返す。

 朝方はすこしだけ涼しく、あの日の気温に比べれば自転車も楽に感じた。それでもだるいものはだるいし、気が進まないものは気が進まない。

 椎名は、イツカへの俺の態度に対して怒りのようなものを露わにした、あの日から、まったくあの日の話をしなかったし、謝りもしなかった。よくよく考えれば、肩を叩かれる前に一度謝られていたような気もするけど、おぼろげだ。

 椎名が普通に接してくるから、俺も普通にするしかないし、そうする以外にどうしたらいいのかわからないと思うくらいには、俺は子どもだった。

 もしかしたら、子どもなのは椎名もその通りだったのかもしれない。俺のほうに椎名からの視線を感じて、課外中だったけれど、俺は椎名の席を振り向いた。椎名がすぐに目を逸らし、ちょっと気まずそうに頬を掻いている。

 俺はなにか言いたくて、でもなにもできないし、課外中だし――といろいろ、ぐるぐる考えた結果、「ばあか」と声を出さずに、思い切り嫌な顔で、椎名に向かって口を動かした。椎名はそれをはっきり見ていて、わかりやすく不機嫌に顔を歪める。

 斜め後ろの椎名が、俺の机の脚を、先生にバレないくらいの強さで蹴る。俺はきっと睨みつけて机を蹴り返して、音が派手に立ってしまい、教室中の視線がこちらに向く。慌てて俺は屈みこみ、落ちてもいない消しゴムを豪快に探している振りをした。

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