第12話

 次の朝、目覚めたときに私はもう、私を保つ意志を失くしていた。今から服を着て髪を整えて一階に下りてご飯を食べて。ああ、でも昨夜お風呂に入りそびれてしまったなあ。

 洗面台で髪だけ洗えば大丈夫。だから行けばいい。はやく。はやく。考える前に動けばいいだけ。なのに。私は床に座り込んだまま、脳以外の器官を動かそうとしなかった。携帯電話の待ち受け画面に浮かぶ白抜きの文字が、着々と時を刻んでいく。それを眺めながら私は「どうしよう、どうしよう」と何度も呟いた。ろくに掃除機もかけていない床に這いつくばって、朝日が差し込む窓を見る。晴天だ。

 行けばいい。行きたくないという思想が入り込む余地はない。行かなくちゃいけない。行くしかない。それ以外の選択肢はない。行かなかったらどうなる。たった一日で挫折なんて、誰も同情しない。行って苦しんでくればいい。極限まで追い詰められればいい。そうしたら勢いで死ねるかもしれない。そうでなくても、挫折する権利くらいは与えられる。「今のお前にはそれすらない」。もっと苦しまなくては救済を求めることすら許されない。今行かないのは一番してはいけない選択だ。行けばいい。行くしかない。

 私が思うのはせいぜいこれくらいのことだ。だが体に力が入らない。あれこれと錯綜する思考の奥で、たったひとつ「もういやだ」という意志が私の体を支配していた。体は動かないのではない。何より確かな私の意志に従った反応を示している。それを認めまいと私は必死になっているだけで。だから考える前に動けと、言ったのに。




 遅刻がほぼ確定した頃に、部屋の扉を叩く音がした。来たか。なぜ。

 名前を呼ばれる。答えない。扉が開く。足音。心臓が止まりそうなほど優しい父の声。

 この人に通じる言葉を吐き出すのがひどく面倒だった。話したくない。出ていってほしい。早く。それすら言葉にならない。私はその時初めて父を徹底的に無視した。彼が部屋を出て行くまで、一言も声を発することが出来なかった。

 だが、父はその間に様々なことを私に話した。昨日の私の話を聞いていたし、今日の私の状態がよくないことはすぐにわかった。父は私を心配した。

「どうしたの?」の、次の言葉は「そんな状態ならもう行けそうにないね」だった。

「これじゃあ高校のときと一緒だよ。つらいならもうやめればいい。合わないなら行かなくていい。受験勉強もそんなにいやなんだったらしなくていい。家にいればいい。お金のことは気にしなくていい」

 うるさい。うるさい黙れ。そんな話聞きたくない。

 黙っている私を見て父は言った。

「一体どうしたいんだ? これからどうするつもり?」

 私は父に失望した。

 たとえ私がどんな状態であろうと、親の言葉に返事もできない状態であろうと、まだ始まって二日目だ。現時点で確かなのは「とりあえず今日はいけそうにない」ということだけ。なぜ「いけそうにない」私を見ただけで、受験をやめるという話にまで飛躍する?

 どうしたいか、なんて。

 自分が招いた状況に打ちのめされている私がまともな答えを返せると思うのか。冷静な判断ができると思うのか。なぜの私にそれを聞かなければならない。なぜそんなに結論を急ぐ。

 予備校を辞める。受験もしなくていい。本当に、本当にそれが正しいと思っているのか。嘘だ。本当に辞めたら辞めたで金が無駄になったと思うくせに。

「あんなに手を尽くしてあげたのに、ろくに感謝もされない。何も返してくれない」と私のいないところで母にこぼしていたじゃないか。どうせ同じことを思うのだろう。

 よくわからない長い話をして、父はようやく出て行った。父の言うことが正しいとは思えなかったが、結局その言葉に従うことになるような気がする。不穏な未来が見えた。

 その日、私は予備校に欠席の連絡をしなかった。午前中に担任からメールが来た。昼には電話がかかった。どちらも無視した。煩わしくてたまらない。おそらく親に連絡がいくだろうとは予想したが、それさえどうでもよかった。夕食を食べに行かなかった。その旨を告げる連絡もしなかった。母からはメールが来た。「あまり気にしすぎないように」。

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