浪人生の伝言
加登 伶
第1話
思えば私の人生は、最初から錆びついていた。
これは、私の伝言である。
おそらくは
どこでまちがったかなどと、今さら言うつもりはない。
ただ単純に不思議に思うことはある。私には何かが足りない。何かが欠けている。この感覚に囚われて、一度自分はヒトではないと思うことでひどく納得した経験がある。「根本的にまちがっている」という言葉がとてもふさわしかった。むしろ「根本だけがまちがっている」ような気がした。
記憶を遡るのは、一年程度で良いだろう。それ以上前のことは、今現在私がおかれている状況と、直接的な関係性が薄い。とはいえ、私の特性がその期間に形成されたのは事実だ。この特性が病と言わねばならないほど面倒なものになったのが、およそ一年前。まだ私が大学受験というものに対し、前向きな夢や希望を抱き、青い熱をそそいでいた頃のことだ。
少なくとも私がいたあの教室の中では、勉強することだけが私の尊厳だった。教室は私にとって外の世界だった。そこにいる生徒たちは、私と同じ年齢の人間という点で共通していた。
私はいつも、彼らが羨ましかった。スポーツが得意だとか、快活な性格であるとか。優しい、飾らない、かわいい、大人っぽい、元気、面白い。様々な特徴があっただろう。
誰にでもない。彼らは存在を許されていた。
人を喜ばせたり楽しませたり、幸せな気分にさせることができる人間は、それだけで存在を許されている。そうでないケースでも同様に。自分はほかの子に比べてなんのとりえもないなあと思っている子でも、私のように愚かな思想に浸らない健やかさを持っていた。「それでもなんとかやっていける」力を持っていた。私にはそれが欠けている。
軽蔑や嫉妬もあっただろうが、心の底にはいつも尊敬があった。だから私は誰も嫌うことがなかった。みんな好きだと思えた。そんなふうに思える自分に心酔していただけかもしれないが。
私はそこにいるだけで誰かにプラスの感情を与える存在ではなかった。それでも別にいいと思える勇気もなかった。教室にいるために、なんらかの理由が必要だった。
そして、学力に焦点をあてた時のみ私は存在を許された。あの教室の中で、私は勉強ができるほうだった。テストや模擬試験でいい成績をとると、教師はみんな褒めてくれた。「学校にいる大人は生徒がいい成績だと喜ぶ」というルールがあった。そのルールを信じていたから、私は自分の成績を見ると安心できた。
教師は生徒に勉強しろというのも仕事の内なのだろう。それは進学実績のためだけではなく、生徒の今後のために。
でもちがう。本当はちがう。勉強しなくても人はいくらでも生きていける。ちゃんと幸せになれる。そういう人間がほとんどだと思う。そうでないなら、あの学校の大多数の人間は不幸だということになる。あの教室の中にもそういう子は複数いた。勉強なんてしなくても、あの子はきっと幸せになれるだろう。上手に生きていけるだろう。
だが、私は。
ほかに何もない。幸せになるための条件、上手く生きていける精神、どちらも持っていない私には。私が生きるには勉強するしかなかった。勉強していい大学に行けば、付加価値がつく。そんなものなくても生きていけるような子たちが欲しがるもの。私がもっていないものを、数えれば両手で足りないほど持っていて、それでも手を伸ばす無邪気さ。私はそんな彼女たちを見ると息が止まりそうだった。勉強なんて誰にでもできること。私はそれまで日常的に積み重ねた量が多かっただけ。どんな人間でもやれば学力は伸びる。成績は上がる。健やかな彼女たちが羨んでくれる私の唯一の力は、その程度のものだった。
ほかのものは全部あげよう。努力や金では手に入らないもの。私がほしいと思った立場。空気。居場所。全て。もう望まない。その代わりひとつだけ。優等生という席を私に譲って欲しい。一年前、私はよく思った。
しかし、みんなそれぞれ自分の主観で世界を見ている。学校で、しかもあの教室において、私が必要なものをみんなが欲しがるのは当然のことだった。奪われないように私は常に努力しようと思った。
これは、私が受験勉強に熱を注いだ理由の四分の一程度にすぎない。呆れるほど浅はかな事実だ。さらに滑稽なことに残りの四分の三は全て、たったひとつの理由に集約されていた。
一人の人間に認めてもらうため。
私がこの側面で求めたのは、存在を許されるより、もっと贅沢なことだった。努力して頑張れば許されるかもしれない。あの男に優しくされることを。褒めてもらうことを。
この望みを叶えるために、私は一番にならなくてはいけなかった。一番になったところで特別な待遇を与えられる保障などどこにもないのに、もしかしたら、という一縷の光に全てを賭けた。
そのために全ての痛みを飲み込もうと、一度は覚悟したはずだった。あの時ほど私が確固たる前向きな意志をもったことはほかにない。現在の私には、あの時の私が最も理想的な姿に見えてしまう。叶うはずのない幻想を抱いて一心に知識を貪る私の姿は、最悪にみじめで浅はかで、だからこそとても美しい。私は、自分が苦しんでいる姿が一番好きだ。苦しみながらそれでも努力を積み重ねる私が。あと少しで全てを失うことも知らずに前を見据える愚かさが。どんな幸せな笑顔をも塗りつぶして、私の中に偶像をつくる。これが私のあるべき姿だと。
日常はしだいに色を失くしていった。なんて色のない世界だろう。退屈だ。つまらない。疲れた。認めたくない感情が無意識に口から漏れ出すのが、とても不可解だった。私は破綻した計画に基づいた勉強に追われ、みるみる内に精神を疲弊させた。それだけならまだいいものを、私は苦痛さえも願いをかなえるための対価であると信じ、しだいに屈折しはじめた。
崩壊の日は突然ではなかった。ゆるやかに、ひっそりと、私の日常は崩壊した。中学生のときとはちがう。ギリギリまで何かにすがりつこうとしたような、歯切れの悪い終わり方だった。
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