「私と、読者と、仲間たち」
眞壁 暁大
第1話
見たとき、厄介なお題だと思った。
ここでいう「私」はたぶん、私のことだ。
そこは良い。
「読者」というのもいちおう、想像がつく。
それぞれの書いてる人から見た時の読み手の皆さん、ぐらいのところは共通理解のはず。
問題は最後。
「仲間たち」である。
これをどう捉えるべきか。
「仲間」がいるということはおおよそ自動的に
「仲間じゃない人」がいるということだ。
そしてこの「仲間じゃない人」は往々にして敵――そう呼ぶのが穏当でなければ対抗相手と言うべきかもしれない――として捉えられがちなのも自明だろう。
鉄人だって言っていた。
「当ててもいい、くらいの気持ちだった。もう仲間じゃないし」
とのコメントを残している。
ここで引っかかってしまう。
「私と読者」ならまだ分かるのだ。
読者はほとんどいないからとりあえず、自作のことだけ書いておけばいい。
お題とは別に一貫したテーマつけて書いてますよ、とか自作の紹介でもすれば一人いるかいないかの読者にもそれなりに有益な内容になったと思う。
しかし、ここに「仲間たち」が絡んでくるととたんに難しくなる。
そもそも、仲間なるものを、カクヨムにおいては意識したことがないからだ。
自分の考えている「仲間」を開陳すればいいのかもしれない。
しかし、それはかなりリスキーな行為ではないだろうか?
「仲間」の範囲を明示すること、「仲間」の条件を明示することで、その範囲や条件から外れた人にどう受け止められるか。
そこを考えると尻込みしてしまう。
仲間を得ること≒読者を得ること、と考えればこうした範囲と条件の明示は正解かもしれない。
しかしそもそもが読者を得ることを大きな課題として捉えていない場合はどうなる?
私のような場合である。
書ければいいや。
私の書くことの意味はこの一言で足りる。
書いたうえで公開しているのだから、何らかの反応を欲しているのは間違いないのだが、書き上げたことそれだけでほとんど満足して終わり、ということのほうがずっと多い。
それにそもそも「書くこと」の意欲も、同じく書いている「私」の中ではそうとうに低いほうではないかと思う。
anniversary企画については毎年なんとか皆勤を果たしてはいるものの、それだけである。それ以外の書きモノを単発でも連載でもやってない。
……不意に気になったが、周年のanniversary企画だけ参加している書く人、「私」ってどれだけいるんだろう?
いたら返事してほしい。
(こうした漠然とし過ぎた反応への要望・欲求はあるから、WEBと繋がっていない環境では済ませていなんだろうな、といま自覚した)
話が少しそれたので戻す。
上手く表現できないのがもどかしいが、私の場合、書くことはおおむねそれだけで完結していることが多い。
なので、「誰かに向けて」「外に向けて」という指向が著しく弱い。
「こう書いたらウケるはず」という目処を立てて書いていないのだ。
「こう書いたらウケる」と書き手である「私」が意識する相手が「読者」であり、その「私」と「読者」の連帯をもって「仲間たち」というのであれば、私にはどうやらその二つが欠けているというしかない。
書けば書きっぱでだいたい満足。
反応が返ってきたら嬉しいけれども、想定していた相手に刺さった、という類のものではない。
反響のなさそうな低い山で大声で「やっほー」と叫んでみたら思いがけず、他人の声が応じた、そんなハプニング的な嬉しさ。
こういう意識でもって書いてるので。
今回のお題はかなりしんどかったです。
カクヨムの書きやすさは頭一つ抜けていると思います。
そこが気に入って、(深い意味もなく)書きたいように(たまに)書く、という私も居るんだよ、ということだけここに書き残しておきます。
次はもうちょっと書きやすいお題が来ますように。
「私と、読者と、仲間たち」 眞壁 暁大 @afumai
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