『私』と『読者』と……『仲間』?

葵 悠静

 本編

 さて、困ったぞ……。

 今回のKACのお題を見て、まず私が抱いた第一印象である。


 そもそも先週のお題は『ホラーorミステリー』に『スマホ』と、ジャンルとよくあるテーマだったため、カクヨムさん、ネタ切れですか? と少々小ばかにしていた。


 小ばかというのは少々言い過ぎかもしれないが、それでもネタ切れなのかなと思ったことは事実である。


 そこに来てこのお題。

 『私』と『読者』と『仲間』……だと? やってくれたな、カクヨム……!

 まさにはめられた気分である。


 なぜならこのお題、フィクションを造るには向いてなさすぎると思うのだ。

 少なくとも私の足りない脳みそでフィクションを造るには、どうしても内容に『無理』が発生してしまう。


 ということで、このお題を受けてからの私の思考を羅列していこうと思う。

 これは逃げではない。なぜなら私は今こうしてこの作品を公開してあなたに読んでいただいているのだから、ミッションはクリアしているのだ!


 まず『私』についてだが、これは『私』という単語をどう捉えるかによってお題の意味合いが変わってくるのではないだろうか。


 真っ先に思い浮かぶのはもちろん『作者』『創造主』といった意味を持つ『私』である。


 作者である『私』を登場させてまずどうやってフィクションを作れというのか。

 私の中ですぐにこの結論に至り、『私』=『作者』は却下。


 では次に『私』をその話の『主人公』と捉えてみてはどうだろうか。

 一人称を『私』にしてその『私』を主軸に話を作っていく。


 うん、これなら何とかなりそうである。何とかどころか私もよくやっていることだ。

 これなら無問題。これで『私』はクリアできた。


 では次に『読者』である。

 『読者』……これは捉えようも何も意味は一つしかない。


 私の作品、もといカクヨムを開いていろいろな作品を読んでいる皆様方という意味しかない。


 そうなってくると前述した『私』=『主人公』に『無理』が発生する。


 なぜなら、『私』を『主人公』とした場合、作中に『読者』の意味合いを発生させるには、主人公が読者に語りかける必要があるのではないだろうか?


 これはあくまでも個人的な意見ではあるが、私は主人公がたまに読んでいる人に向かって語りかけてくる展開、一文、もとい自分がその小説の登場人物であると自覚しているような文章が出てくることがあまり好きではない。


 というよりそれを下手くそにやってしまうと、途端に萎えてしまうのだ。

 私が小説を読むときは感情移入派だ。主人公に感情移入して物語に没入しているときに、ふいにこれは『フィクション』であり作り手の意思が見えたとき、途端に現実に引き戻される感覚に陥る。 


 その時に少なからず『あーあ』という感情を覚えてしまうのだ。


 もちろんそれに長けた人がやれば、さして気にならずクスッと笑えるシーンになるかもしれないが、私にそれはできない。

 私自身がそれに忌避感を覚えているから。


 まあ何はともあれこの時点でフィクション路線はほとんど諦めていた。

 じゃあエッセイでも書けと? そうおっしゃるのですかカクヨムさん。と思っていたら次の言葉が引っかかる。



 『仲間』



 仲間……ナマカ……ナカマってなんですか?

 またまた個人的な意見ではあるのだが、小説を書くにあたって仲間は必要ない。


 執筆はいつだって一人なのだ。誰かと二人三脚で文章を分け合って書くわけでも、チーム戦でじゃあ君は世界観担当で、君はキャラクター担当ね! という風に割り振りを行うわけでもない。


 もちろん誰かと話していてそれをネタとして頂戴し、物語を造ることはある。

 でも造っているとき、書いているときは絶対に一人なのだ。

 少なくとも私はそうである。


 ではこの『仲間』とは一体どういう意味なのか?

 小説を書くということはチーム戦ではなく、個人戦である。


 プロの人たちは編集者とかイラストレータとかそういった仲間がいらっしゃるのかもしれないが、私にはそんな経験はない。


 絵心はないからキャラクターは私の頭の中、もとい読者の思い思いの描くキャラクターしか存在しない。

 編集に関しても添削を行うのは自分だし、公開後誤字の報告をしてくれるのは読者である。

 ……そういうことか。私は一つの結論にたどり着いた。


『仲間』=『読者』だと、そういうことをカクヨム様は言いたいわけですね?


 そもそも『読者』がいなければ『私』は作品を書こうと思わない。

 元来私は日本人らしく、周りの評価を気にするたちである。

 どれだけ気にしまいと思ってもやっぱりランキングとかPV数とか気になってしまうのだ。


 そんな私の作品に、新しく公開した作品に『1PV』とつくと、それは続きを書こうというモチベーションにつながる。


 はたまた応援コメントやレビューが付こうものなら、果てしないやる気につながり続きをすらすらと書けてしまう時だってある。


 読んでくれている人がいるのだから下手な物は出せないし、ちょっとでも読んでいて面白いと思ってもらえるようなものを書かなければとこんなにも一つのお題で考えてしまう。


 私たちが作品を書き続ける理由はひとえにそれを読んでくれる『仲間』が存在しているからに過ぎないのではないだろうか。

 少なくともこういったサイトに公開している人たちには少なからずこういった意思があると断言できる。


 これ以上『仲間』=『読者』説を唱え続けていると羞恥心で燃え尽きてしまいそうなので、このあたりにしておくが、そもそもこういったものは言葉にするのではなく心のうちに秘めるものだと思います。はい。


 こういう思考のもとに出来上がったのがこのエッセイである。

 カクヨムからのお題、もとい問いに対して私が出した答えがこれである。

 『仲間』もとい『読者』がいるから『私』は存在している。できている。


 つまりやはり読者は偉大……!


 もう一生公開することもないが、私が小説を書き始めたきっかけをつらつらと書きなぐったエッセイにもそういったことは書いた覚えがある。


 だからこの結論は当然の帰結。カクヨムはそんな当たり前で大事なことを思い出させてくれたのだ。

 このお題を通して。

 まあ別に『読者』のことを忘れずにいたことなんてないのだけれど。



 カクヨムさん、これで合ってますかね……? 

 

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