リバーシブル可能

オオムラ ハルキ

モジモジ君


【モジモジ君】 : 文字を紡ぎ、読み、楽しむヒト


 このように定義した上で私は、私も含めて、小説に関わるサイトに集う人々を皆モジモジ君であると考える。それを以下、背理法で証明していく。


 私も含めて、小説に関わるサイトに集う人々を皆モジモジ君でないと仮定する。

小説=文字で書かれた物語の塊—①

小説に関わるサイト=”小説”を作ったり、読んだり、評価しあったりする場所—②

 ①、②より小説サイトに集う人々は文字を使ったコミュニケーションをしていることが明白である。よって、仮定に矛盾が生じる。

 従って、私も含めて、小説に関わるサイトに集う人々は皆モジモジ君である。    ⬜︎


 もちろん、各小説サイトで活動している人はモジモジ君であるが、モジモジ君であることはもしかしたら日本人にとっては普通のことかもしれない。なぜなら識字率が圧倒的に高いからだ。


 義務教育のカリキュラムにおいて(ネーミングにいささかの違和感はあるが)”国語”というものは無くならない。例えば『スイミー』や、『ごんぎつね』などは2000年代以降の子供たちをはじめ、馴染みが深い作品なのではなかろうか。他にも小学校での国語といえば『くじらぐも』や、『ちいちゃんのかげおくり』などが有名である。こうして、圧倒的に文字慣れした子供たちはすでにモジモジ君の一員となる。このような教育が仮に諸事情で受けられなかったとしても、生活をしている上で路上の看板や自動販売機などの必要最低限の文字は生きる上で周りに影響されて否が応でも習得してしまうことだろう。つまり、モジモジ君になることは必然なのだ。

 

 さて、ここで今回の第6回目のお題である「私と読者と仲間たち」に戻ろう。先程、一般的に皆日本人はモジモジ君であり、我々小説サイトに集う人もまた同様にしてモジモジ君であるというように述べた。そのように考えると、”私”も、”読者”も、”仲間たち”も皆モジモジ君である。その意味で我々は同じフィールドに立っていると言っても過言ではない。ただ、ここで、では何が違うんだという話になる。しかし、モジモジ君という一括りの観点でみてしまうと、私、読者、仲間たち、というように言葉が分かれていることの意味がなくなってしまう。全て同じであるというのは明らかに不自然だ。


 個人的にその三者をリバーシブル可能な服に喩えられると考えている。ここでの私を書き手と断定して考えると、私は読者にも、仲間たちにもなり得る。一人で物語を紡ぐには限界があるから他の人の作品を読んでみたり、プロ作家の本を手にしたりするし、応援している物書き仲間の作品を評価し、レビューを書くこともある。

書き手としてのモジモジ君の私は文字を紡ぐことに特化している。

読者としてのモジモジ君の私は文字を読むことに特化している。

仲間たちとしてのモジモジ君の私は文字を楽しむことに特化している。


 このように、柔軟性を帯びた個人が織りなすモジモジ君としての性質が日々日常を彩っている。

そのどの部分の性質をとってもモジモジ君はそれであり続けるだろう。今後、少子高齢化の影響でモジモジ君の増加率は低下する。しかし、今存命の我々はモジモジ君として胸を張って生きていき、後世にモジモジ君としての威厳を見せていくべきだと思う。

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