転ばぬ先のお金

平 凡蔵。

第1話

久しぶりに梅田まで出て、本屋巡りでもしようと思った。

梅田というのは、大阪の繁華街で、若者でごった返しているから、最近は足が遠のいていた。

でも、大きな書店を覗いてみたいと思ったら、やっぱり梅田に出ることになる。


人が多くて、歩くのも大変だ。

そう思っていると、僕の目の前を歩くサラリーマン風の、年で言うと50歳代だろうか、スーツを着た男性が、ポンと1000円札を、歩きながら道に捨てて行った。

いや、落としたのか。


ただ、男性の手の動きからみると、明らかに捨てている。

とはいうものの、落としたのかもしれないから、僕は、拾って男性に声を掛けた。

「あのう。落としましたよ。」


すると、男性は困ったように、「それは、落としたのやから、もう私のものではありません。だから、あなたが、好きなようにしてくれませんか。」と言う。

いや、落としたものを、落とした人に返すのが、これが普通の考え方だろう。


「好きなようにと言われても、これはあなたのお金ですから、お返ししますよ。」

「いや、それは困るねん。」

「いやいや、困る理由が解らないですよ。あなたのお金でしょ。これ。」

僕は、どうにも、男性の理屈が理解できないでいた。


「いやあ、これは実を言うとね、実験なんですよ。なので、どうか、その実験に付き合ってもらえませんかね。んでもって、それを拾って、あなたのものにしてください。お願いしますわ。」

気持ちの悪いことを言いだしたものである。

「だから、理由がないんですよ。あなたのお金をもらうことが。」


男性は、しばらく、考えていたようだが、「じゃ、理屈を解ってもらえたら、もらってくれますか。」と聞いた。

「まあ、その理屈にもよりますけれどね。」

そういうと、男性は、これからその実験に行くから、付き合いますかと聞いた。

男性の身なりを見ても、変な人ではなさそうなので、少しだけならと、男性について行くことにしたのである。


そして、着いた場所はと言うと、梅田の場外馬券場だった。

「いいですか。私はこれから、次のレースで、1番人気の馬を単勝で1000円買います。1番人気だから、オッズは、これはたぶん、2倍弱ぐらいかな。んでもって、その結果を知りたいんです。それが実験ですわ。」


「どういう事ですか。」

「あなたは、運命を信じますか。」

「いきなり、怪しげな話になってきましたね。」

「実は、運命というのは、あるんですよ。だからの、1000円の落とし物なんです。今日、私は、競馬場に行くことを、昨日の夜から決めていました。あなた、知らないかもしれないですけどね。」

「ええ、そんなことは、知りません。」


「そこでですわ。もし、運命というものがあって、今日1000円のお金をすってしまうという運命だったら、どうですか。次のレースを買っても、それは当たらないですよねえ。だって、1000円をすってしまうという運命だったんだから。


でも、さっき私は、1000円落としたでしょ。ほら、あなたが拾った1000円。あれで、もう、私が今日、1000円をすってしまう、詰まりは、1000円失くしてしまうちゅー、運命を達成してしもたことになるんですわ。理屈では。


だから、今から買う馬券で、1000円をすってしまうという運命は、無しっていうことになりますわな。まあ、単勝で2倍になったとしても、2000円で、捨てた1000円考えたら、プラマイゼロで意味ない話ですけどね、それは、ほら、実験ですやろ。まあ、仕方ない話ですわ。へっ、へっ、へっ。」と、笑ったら、前歯の1本が欠けていた。


面白い考え方とも思えるが、1000円落とす運命って、誰が決めたんや。

「それやったら、単勝じゃなくて、3連単とか、そんなん狙ったらどうですの。そっちの方が、当たったら、儲かるじゃないですか。」

「いやあ、それは、なんぼなんでも、1000円の荷が重いっちゅー話ですわ。3連単って、なかなか当たらへんよ。そんなん狙ろて、当たらへんかったら、どうするの。実験なんやで。毎回、損してたら、実験続けられへんやろ。」


「まあ、僕のお金じゃないから、それは、どうでも良い話なんですけれどね。」

「実験やで、実験。そんな、実験で損してたら、つらいやろ。単勝やったら、1番人気でも3回に1回は、くるからね。それに、こっちは、1000円先に落としてるわけやから、まあ、かなりの確率で当たるやろ。当たらんとアカンやろ、やっぱり。」

そんな話をしていると、レースは始まって、買った1番人気は、4コーナーから、他の馬にさされて2番になった。


男性は、口を開けたまま、茫然と電光掲示板を見ている。

「なんでや。」

どうやら、実験は失敗だったようである。


「あんたが、ちゃんと1000円拾って、ちゃんと貰ってくれへんかったからちゃうか。当たらへんかったんは。」

「いや、僕のせいにしないでくださいよ。ひょっとしたら、今日は、2000円落とす運命やったんじゃないですか。」


「そんなあ。誰か、私が、なんぼ落とす運命やったか教えてくれる人おらへんかな。」

がっくり肩を落とした男性は、何とも見ていて滑稽だったが、実験の結果を報告に行くという。

僕も、流れで付いていくことにした。


報告と言っても、場外の近くの喫茶店だ。

行くと、40歳ぐらいの男性が2人と、30代の女性が1人、コーヒーを飲みながら、先に待っていた。

「石田さん、どうやった。」

男性の1人が聞いた。

石田さんと言うのかと、名前を聞いてなかったことを思い出した。


「当たらんかった。」

石田さんは、ガッカリした表情で答える。


「そしたら、今日は、1000円落とすという運命じゃなかったんちゃう。1万円落とすっていう運命やったんちゃう。」

「怜ちゃん、そんな1万円なんて、実験に使われへんわ。堪忍してえな。」

怜ちゃんとは、目の前にいる30歳ぐらいの女性で、少し華奢な感じで、どちらかというと、好みのタイプだ。

ただ、話す言葉が、もう大阪のお姉ちゃんと言う感じで、その華奢な身体を見た後に、話す言葉を聞くと、少し残念な気持ちになった。


「ほな、続けてえな。」と怜ちゃんが言った。

すると、もう1人の男性が、「まだやるの。もう、ええかげん、終わりにせえへん。」と、疲れたように返す。

見ると、なかなか若く見える男前である。


「いや、まだやん。あと、100回言ってほしいねん。」

「えーっ。100回。」

「お願い。」

「もう、ホント、100回で終わりやで。はい。お前なんか、大嫌いや。お前なんか、大嫌いや。お前なんて、大嫌いや、お前なんて、大嫌いや。、、、、、。」

男性は、やや疲れた声で、この「お前なんて、大嫌いや。」を仕事の様に繰り返し、怜ちゃんという女の子に、言い続ける。


「あと、何回や。」

「あと、5回。がんばってや。」

僕は、その光景を、ずっと見さされている。


誰も、一言も発しないで、それを見ていた。

「はい。100回。」

「ありがとう。これでもう、バッチリやね。」と怜ちゃんが、ニコッと笑った。

うん、笑い顔は、そこそこ可愛い。

右だけ出ている八重歯が、そう思わせているのかもしれない。


「これも運命の改善やねん。」石田さんが、僕に説明するように言った。

「実はな、この怜ちゃんは、今日の晩が、初めての彼とのデートやねん。でも、今日は怜ちゃん、運勢悪いらしいわ。朝のモーニングショーの占いでも12位やってんで。そやから、フラれる可能あるちゅうんで、こうやって、お前なんて大嫌いやと言われることで、今日の晩、彼氏に、お前なんて大嫌いやっていう言葉を言われる運命から逃れようという算段なんや。先に、大嫌いやって言われてたら、もう、嫌いやって言われる運命は達成されたことになるから、本番のデートでは、嫌いやって言われへんという理屈なんや。」


「はあ、石田さんの1000円と理屈は同じですね。」

「そうや、そういう理屈や。」

「でも、石田さんの場合は、失敗したんですよね。」

「しーっ。」石田さんは、唇に人差し指を当る仕草をしたが、もう怜ちゃんには、聞こえたしまったようである。

これは、悪いことを言ってしまったか。


「あのう、お兄さん。そんなこと言わんといてくれる。それより、お兄さん、誰。」

ちょっと、怒ったように怜ちゃんが言った。

「このお兄ちゃんはな、さっき、1000円落とす実験の時に、その1000円を拾った人やねん。いや、ちゃんと拾うてくれへんかったから、さっきもレース当たらへんかったんやけどな。」

「いや、ちゃんと拾えへんかったって、そんな僕のせいじゃないですよ。」


「そうなんや。1000円拾うてあげへんかったんや。」

「いや、そやから、1000円拾てあげたんです。それで、返そうとしたんです。」

「ええ迷惑やな。」と、怜ちゃんが、つぶやくように言った。


「みんな、もがいてるねん。」怜ちゃんが続ける。

「今の生活から脱出したいと、もがいてるねん。そやから、こんなことしてるねん。」

寂しそうに言った表情が、少し可哀想でもある。


「お兄ちゃんは、そんな、もがいたりせえへんの。」

「いや、それは、悩んだりもするし、今の生活から、脱出したいと思てるよ。」

「あ、それじゃ、あたしたちの会に入れへん。自由参加やから、気楽やし。令和運命研究会って言うねん。」


すると、石田さんが続けた。

「実はですね、つい最近までは、平成運命研究会やったんですわ。そんでもって、令和に変わったでしょ、なもんで、あたしらも令和にあやかって、名前変えたんですわ。へっ、へっ、へっ。」と、嬉しそうに言った。

「そうなんですね。」というほかないだろう。


生半可に答えていると、どうも、次回も集まるから来いという。

まあ、行くつもりはないけれども、分かったと答えた。


その場を、何となく誤魔化して、店を出る。

コーヒー代に、例の1000円を置いてきた。

この場合は、運命は、どうなるのだろう。

と、僕も運命論者になりそうではある。


さて、本屋へ急いでいると、道路の端で、立って身体を前後に揺らしている男性がいた。

道路に向かって、身体全体を、ゆーら、ゆーら、と揺らしているのだ。

気分でも悪いのかと思って、通り過ぎる時に、大丈夫ですかと声を掛けてみた。


今にも、泣き出しそうな声で、「あのう、僕の背中を押してもらえませんか。」と言った。

「いや、背中を押すって、押したら、どうなるんですか。」

「実は、さっきから、道路に飛び出そうとしてるんですけど、車が怖くて飛び出せないんです。」


「それはそうでしょ。車、ひっきりなしに走ってますからね。そんなことをしたら危ないですよ。というか、どうして、飛び出さなきゃいけないんですか。」

「そうですよね。そう思いますよね。実は、わたし、明日、手術なんですよ。何でも、ガンの疑いがあるらしいんです。とりあえず、手術してから、細胞をしらべるそうなんですけれどね。ガンって、死ぬかもしれない病気ですよね。だから、先に、死ぬかもしれないような事故を起こして、死ぬかもしれないようなガンから脱出しようと思ってるんです。あ、こんなことを言ったら、おかしな人だと思われますよね。でも、運命ってあると思うんです。」


なんか、聞いたことのある話じゃないか。


「あのう、ひょっとして、違うかもしれないですけれど、あなた、令和運命研究会に入ってないですか。」

「えっ、なんで知ってるんですか。いや、ちょっと前までは、平成運命研究会だったんですけれどね。それで、令和に変わったでしょ、、、、」


「いや、その令和に変わった話はいいです。実は、さっき、令和運命研究所の人に会ったばかりなんでね。」

「そうですか。これも運命なんですね。やっぱり運命ってあるんですね。」

「じゃ、背中を押してください。お願いします。」

「いや、やめときます。」

そういって、逃げるように本屋に急いだ。


狂っている。

みんな狂っている。

それにしても、令和運命研究会なんて、聞いたことが無かったぞ。

これほどまでに、街中に研究会に入っている人がいたのか。

大阪に、何人ぐらいいるのだろう。


そう思っていると、さっきから、道を何度も転んでいるおばさんがいた。

5メートルほど歩いては、ワザとらしくコケる。

んでもって、また、5メートルほど歩いたら、またコケる。

それを見て、はっと気が付いた。

これもまた、運命改善をしているのじゃないか。


もう、ヤケクソで、おばさんに声を掛ける。

「あの、令和運命研究会の人ですか。」

するとびっくりしたように、僕を見て言った。

「なんで知ってるの。あなたも、そうなの。」

「いや、僕は、関係ありません。」


「実は、そうなのよ。あなた、年をとってから、骨折したらどうなると思ってるの。あれ、大変やで。年とったらな、あんた、ちょっとしたことで転ぶんやで。そしたら、骨折や。何しろ、骨も弱わなってるからな。骨折や。あんた、骨折したら、大変やで。入院せなアカン。それが問題や。年とって、入院したら、もう、あんた、寝たきりや。寝たきりなったら、もう筋肉も衰えて、歩かれへんようになるらしいわ。そんな話よう聞くわ。そうなったら、頭もボケて、はい、さようならや。怖いで。怖いやんかいさ。そやから、年とって、転ばへんように、今から、コケてるんや。そしたら、年とって、コケへんやろ。そしたら、はい、さようならってことも防げるっちゅう訳やんか。」

おばさんは、得意げに僕に説明してくれるが、僕はそれを遮って、本屋に急いだ。


こんな話を聞いていると、頭がおかしくなってしまう。

狂ってるよ。

狂ってる。

大阪の人間が狂いだしている。


そう思いながら、小走りに走っていると、横道から来た車に衝突をした。

病院に運ばれる救急車の中で、僕は思った。

肩が猛烈に痛い。

これは、きっと骨折してるに違いない。

「これで、しばらくは、大きな事故はしないだろう。」そう呟いたらしい。

痛みに耐えながらも、笑っていたという。

そうとう、令和運命研究会のことがショックだったのかもしれない。


病院に運ばれて、検査をしたら、果たして鎖骨を骨折していた。

そして、今から手術だという。

骨折しているのだから、手術は仕方がないだろう。

或いは、これで、手術をしない人生が送れるかもしれない。

いや、そんな考えは、理屈が立たないだろう。

或いは、僕も狂い始めてしまったのか。

ただ、今日、運ばれた病院に、外科の先生がいてくれたことはラッキーだった。


手術室に運ばれて、麻酔が打たれた。

すぐに意識が薄れていく。

その薄れていく意識の中で、先生が看護婦に言っている言葉が聞こえて来た。


「明日、大切な手術があるから、今日の手術は、失敗しておくか。」

、、、先生、狂っているよ。

という間もなく、もう、意識は消えてしまった。

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転ばぬ先のお金 平 凡蔵。 @tairabonzou

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