300円のために

@snacam

300円あれば経口ポリオワクチン約17回分になります。

 300円と私が出会ったのは大学の研究室だった。


「大谷……これ何て読むの。サンビャクエンさん?」


 後に私達の恩師となるZ教授が恐る恐る問う言葉に、


「はい、サンビャクエンです」


 と彼女は凛と答えを返した。

 後から聞けば、当時の教授は名前を間違えることによるパワハラ訴訟に脅えていたという。

 300円の側は内心、ふざけた偽名だと疑われ、門前払いされまいかと戦々恐々しつつ、忌まわしき名を付けた両親に呪詛を送っていたらしい。

 私自身、「こいつナメてんのか? こっちはZ教授の研究室に入るためにこの大学受けたんだぞ?」と彼女を軽く睨み付けた記憶があるので、その心配もあながち的外れとは言えないだろう。私が教授なら門前払いだった。

 なお、300円は当時の私について「なんか怖い人がいる。都会は怖い」という印象を持ち、教授は当時の私達について「なんか変な名前の人と怖い人が入ってきた。若者は怖い」と思っていたそうだ。


 彼女の本名は漢数字で「三百円」と書くが、気軽なサインは算用数字で「300円」または「¥300‐」と綴る。

 ホワイトボードのマグネットにもテプラで「300円」と印字されていたので、Z研究室の関係者は全員それで覚えているはずだ。


 第一印象は互いに至極悪かったが、実際に話してみれば、300円は愉快な女だったし、彼女にとっての私も愉快な女だったらしい。

 数度の邂逅で意気投合した我々は、一年目の夏には共にインドにまで出掛ける仲になった。

 当時は渡航制限もなく、観光地を巡るだけなら大禍なく過ごせたものだ。


 インドに行けば人生観が変わるという話に期待していたが、私の人生観はそれほど柔ではなかった。人生観など、観光地を巡るだけで変わるものではないのかもしれない。

 その程度で変わる人生観なら、鳥取に行くだけで十分変えられるだろう。

 事実、インド旅行後に「人生観変わったわ」と目を輝かせていた300円は、鳥取砂丘でラクダに乗った後も「人生観変わるわ、これ」と目を輝かせていた。彼女の人生観はぐにゃぐにゃだ。



 卒業してから十年足らずの後――というより、つい先日だ。

 私は大学で学んだことを活かしたような、それほど活かせていないような、一応カスってはいるような会社で、全くカスってもいないような仕事をしている。

 300円から連絡が来たのは、そんな春の日だ。


『私、ワクチン17回分になるよ』


 意味不明なメッセージに、私は首を傾げる熊のスタンプを返した。


『私の血から血清を作って、予防接種に使うんだって』


 意味不明ではあるが、真剣さは文字を通しても伝わってきた。それなりの付き合いだからだ。


 とはいえ、人生観がコロコロ変わる300円のこと。

 変な宗教にでも嵌まったのだろうと思い、目を覚まさせるため、次の休日に会おうと誘った。


『ごめん。私、もう今からすぐ、ワクチンになるんだ』

『あ、呼ばれた』

『じゃあね』

『¥300‐』


 300円は一方的にそれだけ連投し、それ以降、私のメッセージには既読もつかず、通話への応答も一切なくなった。



 300円は実家との折り合いが悪く、最後に会った時も、もう何年も連絡を取っていないと言っていた。

 そんな彼女の実家から、私の携帯電話宛に連絡があった。

 彼女の遺書に別紙で添えられた「友人の連絡先」の一番上に、私の番号があったらしい。

 電話で住所を教えたので、後日葉書で訃報を送ってくるという。

 彼女の親は、電話を切るまで一度も、彼女の名前を口にしなかった。



 300円は彼女の言った通り、ワクチンになるために死んだそうだ。

 昨今のワクチン不足を少しでも補うために、国がワクチンの志願者を募っていたことを、私はそこで初めて知った。


 狭い世界で生きている人は笑うけれど、ワクチン陰謀説を掲げる人は未だに絶えない。ワクチンで遺伝子を書き換え、5G電波で人を操ると心の底から信じている人は、本当にいる。

 テレビドラマでも視聴者の不安を煽るように、狂科学者が偽ワクチンを作る話を流していた。


 私の友人はワクチンになった。

 自分一人の命で17人が救われるなら、と、そう思って。

 馬鹿なやつだと思うけど、彼女は真剣に、他人を救いたいと思っていた。


 ワクチンは単に個人を守るためのものではない。

 同時に多くの人が接種することで、ウィルスを根絶することにこそ意味がある。


 くだらない風説で、彼女の思いが無駄になるのは嫌だから。

 私は今回、カクヨムにこの話を掲載することにした。

 これを読んだ誰かが、少しでもワクチンの意義を知ってくれたらと思う。



 300円のために。

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