読者と仲間とわたくし達

江戸川台ルーペ

一人でやれること

 小学生の頃、絵が上手いクラスメイトがいた。その子は少し小太りな女子で、いつもうなだれてノートに向かっていた。周りの女子グループに「描いて、描いて」と懇願されて、ノートに鉛筆で緻密なブラジャーの絵を描き、僕が内心「すげえ!」と感心していると、女子グループがそれを見て笑い、「●●さんがエッチな絵を描いてまーす!」と大きな声で先生にチクった。「だから描きたくなかったんだよ!」とその女の子は机に突っ伏して泣いてしまった。


 僕がその後どうしたのか、先生が何と言ったのかは覚えてない。今の僕なら、ちゃんとその子に「すごいねどうやったらそんなに上手くなれるの?」と聞くし、周囲の囃し立てた女子グループに「やめろよ」くらい言えただろう。ちゃんとそういう風にしていれば良いのだけど、引っ込み思案だった僕はそのままスルーしていた可能性がとても高い。せめて先生がその子の絵の巧さを褒めていてくれたら良いな、と思う。本当に、指でつまめそうな、小さく緻密に描かれたブラジャーだったのだ。



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 それから絵に対する憧れが上手く抜けなくて、大学では美術部に入部したし、漫画がうまい人の家に集まって毎晩絵の練習をしたりして、ずいぶんと拗れた時間を過ごしてしまった。今でも練習したノートは実家にあると思う。ド下手だし、観た映画のタイトルや気に入った役者の名前を表紙に書いてメモ代わりにもしていた。でも漫画は結局、まともに最後まで描けた事がなかった。短いのを一つだけコマ割りしてノートに書いただけで、それも絵よりも文字の方が多かったし、下手ウマを目指した似非松本大洋風の悲しい代物だった。空き地で野球をしてると、道場破りとして野茂に憧れた女子ピッチャーがやってくるというお話でした。野茂って言うのが時代を感じさせる。


 案の定、一緒に絵の練習をしていた人達からは酷評されてしまった。もっとおっぱいを大きく描け、とか言われたような気がする。



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 小説を書いたのもその頃で、読者は絵描きの人だった。悪くない、という評価ではあったけれど、感想をくれたのは一人だけだった。それでも嬉しかった。その人とはひどい別れ方をしてしまったけれど。結局僕はその短編一度きりしか書かなかった。多分、8,000文字くらいだと思う。これも小学生の主人公「僕」が空き地で野球をしていると頭がおかしい親父がいちゃもんを付けにくるというお話だった。野球、好きだな。実はそうでもないんだけど。



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 今も、僕の周りにはずっと小説や絵や漫画を描いている人がいる。お金になっている人もいれば、仕事を続けながらやり続けている人もいる。お互いの作品を見せ合って批評し合う、というような昔の火が出るような苛烈さはもう無い。お、お互いやってんな、くらいの緩い繋がりだ。ここまで生きてくると、何が当たるのかも分からないし、単にお互いの好みで「あーだこーだ」と言っても、結局のところそれを好いてくれる人も必ず一定数いる事が分かっているんだと思う。僕が「おっぱいばっかり強調しやがって! 内容がないよう!」と言ったところでそれが好きな人がたくさんいるのを知ってる、というような事ですし、相手からしたら「小難しいお話は面倒だから、とりあえずおっぱい頼む」と僕に言うようなものである。お互い、「それは別のところで」と目配せをし合って、結局自分が書けるものを、描けるものをボチボチとやっていくしか無い。お互いの需要を供給し合うのは、目先の人だけである必要はないのだ。むしろそうじゃ無い方が良いかも知れない。インターネットがその垣根を壊してくれた。




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 だから僕はインターネットを愛する。




 行間を開ける必要ある?



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 ない。




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 僕は創作をしている人達を勝手に仲間だと思っている。特に、今みたいに夜中に起き出して、ぼーっとiPadに向かっている時にそれを感じる。大変だよな、と思う。思うだけで、口には出さない。書いてる人たちが大変なのは分かってるから、出来るだけ言わないでおこうと思っている。でも時々呟いちゃったりしてるかも知れない。そういう時は申し訳ないな、と思う。


 なんだかnoteみたいな文章になってしまった。


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 僕が書いた小説が好き、と言ってくれる読者の方々に感謝したい。一人づつ、ヨックモックを配りたい。そして、嫌い、という人たちに「申し訳ない」と謝罪したい。次、面白いの書くかも知れないからよろしくね、とこれまたヨックモックをお配りしたい。


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 どういう訳か、最近泣いていた女の子の事をふと思い出す事が多い。多分その子とは大学生の頃、ドラクエ7を買う時にブックランド・カスミで再会したと思う。僕はゲームセンターのバイトを勝手に中抜けして、徒歩でそこまで買いに行った。ちゃんと予約してあったから、すぐに買えた。「ポイントカードはありますか?」と聞かれた時には既に「あ、ブラジャーを描くのが上手な●●だ」と思い出していたのだけど、万が一違う場合もあるし、僕はモソモソと糞しょうもないカードを出してポイントを付けてもらった。


 本当は、「小学生の時に僕は君と同級生で、君がノートの片隅にこそっと描いたブラジャーに大変感銘を受けて、今でもはっきりと覚えている。君には才能があると思うから、今でも絵を描いてると嬉しい」と伝えたかったし、そうする事で何かしらの状況や、僕やあの子の心持ちが少し変わった結果として、今とはまた違う世界線を歩んでいたような気もする。もちろん、現実世界にセーブポイントもないし、クイックセーブもないのでやり直す事は出来ない。あと、そう簡単に今という状況が変わる訳がないだろう、と諦観している所もある。転換点は努力と習慣の積み重ねが引き寄せるのではなかろうか? 少なくとも、当時の僕は何も積み重ねていなかった。ビートマニアとビリヤードは結構上手だったかも知れない。


 引き寄せ、などと書いてしまった。



 ■


 何はともあれ、全部僕が書いたものだ。

 最悪、生きてればそれでいいんじゃないかな、と近頃は思っているよ。




(おわり)





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