大賢者の仕事
大賢者アルシュインド邸の朝 <共通>
知らない気配で僕は目覚める。
咄嗟に身構えるが、どうにも勝手が違う。
ここは、どこだったんだろうか。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
そんな僕に、庭師・ネアが声を掛けてくれた。
「…おはようございます。」
思い出すに、多分、ここはキースの私邸の一室。
何と言うか、僕自身が全く信じられないのだけれども、風呂に入った後の記憶が綺麗さっぱり洗い流されているようだった。
「仕方ありません、ルク。貴方も、自分を過信しています。」
今までの僕にはあり得ない事だったが、その、風呂の後、気絶してしまったらしい。
辛うじて服を着直したまでは記憶にあるのだが、それすらも曖昧だった。
「まずは着替えましょう。」
そう言うと、ネアは僕に新しい服を差し出す。
「はい。」
綺麗な色、柔らかい手触り。
間違いなく職人が心を込めて織り上げたろうその、きめ細やかな布で出来た服は、僕には過ぎた物のように感じた。
「貴方の服ですよ、ルク。エルゼヴォーダを名乗る者には、相応しい服です。キースの見立てですけどね。」
「分かりました。」
僕の気持ちを察してくれたのか、ネアがそう言葉を付け足す。
柔らかく白い内着と、専用の糊で仕上げられたであろう固めの襟。
腰で締める形をした大きく胸の開いた革の胴衣に、袖口に白の刺繍が入った上着。
それは、何時か見た夕暮れの先にあった、夜の戸張、その紺色をしていた。
黄色みが掛かった薄茶色の滑らかな革の下穿、そして膝下まである新しい編上靴。
使われている革は、それぞれ上等な魔物の獣皮が使われているようだった。
「手伝いますよ。」
ネアは、どうしていいか分かりかねる僕の様子に気付いたのか、初めて袖を通すその服を着るのを手伝ってくれた。
胴衣を着るのは初めてだったけれど、背中でその着心地を調整できるらしく、ネアがそれをきっちり締めてくれている。
「軽い。」
僕にとっては重装備と思えるそれも、着心地よく、動きを阻害するものでは無かった。
「ルクにとっての一番は、そこでしたか。」
ネアは嬉しそうな笑顔を見せた。
「はい。ルクの動きに邪魔にならないよう、そして身体を守るよう、そう言う意匠だそうですよ。」
出逢ってから実際にはまだ1日しか経っていない、大賢者キースフリーの、僕への理解が込められた贈り物のようだった。
「嬉しいです。ありがとうございます。」
「お礼はキースに。きっと喜びます。」
上着を羽織った僕は、大きな鏡の前に立たされた。
「こういうところは流石キースですね。素敵ですよ、ルク。」
僕自身初めて見るその、真新しい服を着た自分。
僕の髪の色や瞳の色、何もかもが調和しているように感じられた。
「ありがとう、ネア。」
「さ、食堂へ参りましょう。珍しくキースが待っていますよ。」
僕はネアに促されるまま、その後に続く。
白を基調としたその館は、華美ではないものの、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
時折、何らかの気配を感じたが、ネアが気にしていない以上、ここでの「当たり前」なのかもしれないと、僕は割り切った。
食堂と言われたそこは、この館の大きさに対しては小振りな造りという印象を受けた。
六席ほどの漆黒にも似た風合いの木材で作られた椅子、光を受けて金色にも見える滑らかな白い刺繍入りの卓布に覆われたその上には、あの庭でみた白い花が美しく活けてあった。
「おはよう、ルク。」
「おはようございます、キース。あの、ありがとうございました。」
「うん、流石は私の弟子。とても似合っているよ。」
大きな窓から降り注ぐ朝の光の中で輝くのは、その花だけではなく。
キースの満面の笑みは、不思議と眩しいくらいで、僕は何故か、顔が赤くなるのを感じていた。
「さ、座ってください、ルク。」
ネアはキースの正面の椅子を引き、僕を促した。
食卓には、さまざまな皿と銀色の食器が飾られるように並べられている。
その様子を見て戸惑う僕に、ネアは一つ一つ、その使い方や使う順序を丁寧に教えてくれた。
「本来ならここでの朝食は無礼講と行きたいところですが、ルクはエルゼヴォーダですから。出来る所から、始めていきましょう。」
切り揃えられ、白い皿の上に恭しく並ぶ果物に、焼き目が付いた厚切りの塩漬け肉。
こっちに来てから見るようになった、薄く広げられた焼き物。原料は穀物と言う事だったが、携帯に優れた物もあると聞いていた。
そして、何時ぶりか分からないが、久しぶりに見る卵の蒸し焼き。
食用の油と、何らかの香辛料が振りかけてあるようだった。
「美味しいです。」
「ルクの口に合って何よりです。」
ゆっくりとその朝食を口に運ぶ僕に、注がれる二人の笑顔。それは流石に気恥ずかしく感じた。
「で、どうですか久しぶりの食事は。この常識無し。」
ネアはキースに容赦がない。
「だからそこは私も気を付けるよ。実際、たまにはいいものだね。こうやって食事をするのも。」
「ええ、そうですね。なので、ルクが居る時はそうするようにしてください。」
僕にとっても、誰かとこうして同じ食卓に座り、食事をするという事は本当に久しぶりのことで。
思い出そうとしても思い出せないくらい、きっとそれはとても昔のことなのだった。
「さて、ルク。これの話、聴かせてくれないか。」
綺麗に片付けられた食卓の上に、僕が書いた調査書が並べられた。
僕の初めての仕事、そう、スライムについての調査書だ。
「はい。」
僕が気付き、どうしてもキースに伝えたかった事。
ここに書けなかったそれを、伝える時が来たのだ。
「あれは、スライムではありません。」
「根拠は?」
「自然発生した魔物としては不自然です。」
キースは僕の眼を見つめる。
多分この大賢者は、僕がこれから言う事の、そのほぼ全てを知っているのかもしれない。
いや、恐らく、知っているのだ。
「あの、全部話した方がいいですか?」
「もちろん。ルクが気付いた全てを、教えて欲しい。」
キースに促されるままに、僕は説明を始めた。
まず食性。
生き物は、食べなければ死ぬ。
スライムという個体を維持できるほどの物質、自然があるにせよ、あの個体数に対してあの平原では狭すぎること。
逆に言えば、あれほどの個体を維持できる魔力の源流があるはず、と言う事。
あの場に生息していたスライムは、その食性以外に魔力を活力へ変換できなければ、増殖かつ生存が出来るはずがないのだ。
が、体内にあるのは僅かな魔石片だけ。
あの魔石片をその活力の変換に使っていたとしても、その生命活動に見合わない質量でしかない。
つまりあの平原は、スライムにとって適正食性の場ではない、ということ。
更には、その形状と環境が見合っていない。
薄く弾力のある外甲殻で覆われてはいるが、そもそもそれは何のために「進化」したものだったのか。
中身を乾燥から防ぐためなのか、適した場所に移り住む為のものだったのか。
無理矢理合わせたような、まるであの場に置かれる為に作られたような「進化」。
「何より、僕は、多分本物を知っています。」
僕はキースに告げる。僕が知っている本物のスライムのことを。
キースは僕の話を黙って聞いていたが、話終わるや否や、席を立つと例によって僕を持ち上げた。
その余りの速度に、僕は椅子から転げ落ちそうになりかけた。
「流石はルクだね。本当に、私は君を弟子にして良かったと心の底から感動しているんだ。きっと今の君にこの今の私の気持ちは伝わらないかもしれない。だけどね、覚えていて欲しいんだ。私が心から、君に感謝していると言う事を。」
その光景を遠目で見ていたネアが、ぽつりとつぶやく。
「ルクは、もう少し身体を鍛えないといけませんね。」
「はい…。」
どう対応していいか分からない僕は、半分困り顔でキースを見つめる。
キースのあの碧の眼は、僕を放してくれそうにはなかった。
「キース。ルクが困っていますよ。そう言うところもそろそろ気を付けてください、この常識無し。」
「ああ、ごめんごめん。つい嬉しくてね。我を忘れてしまったよ。」
キースは僕を下すと、再び強く抱きしめた。
「少し、歩こうか。」
やっと満足したのか、僕を放すと館の外へ僕たちは歩き出した。
「さて、スライムだけど。ルクの言う通りだよ。あれは僕たちが『創った魔物』だ。」
キースはそう言った。創った、と。
「原初のスライムを安全に、かつ、飼育しやすいようにしたもの、とでも言えば良いかな。ここから世界へ旅立つ冒険者たちの為に、敢えてそうした魔物だよ。」
分かりやすくするために、と、キースは笑う。
「あれは仕組みが単純な上、ほぼほぼ限定された地域でしか発生しない。無害な改良種さ。」
「無害。」
「うん、まぁ、稀に事故はあったみたいだけど。」
僕たちは中庭を進んで行く。
いつの間にか静けさを増したその庭の片隅で、キースは振り返った。
「ルク、もう一度聴かせてくれ。君は、この世界をどうしたいんだい。」
それは唐突な質問だった。
確かにそれは、一度僕とキースが交わした言葉だったはずだが、今その質問の意図は、あの時とは異なる重さを帯びていた。
「世界を、良くしたいって。」
理不尽な世界を、抗う事が許されない世界を、僕は変えたかった。
「ではまず、この世界の『正しい在り様』を知ること。どうだろう?」
「正しい、在り方?」
正しさとは何か。
この問いは、僕の心を波立たせた。
誰かの正しさは、誰かの不条理。
平等な正しさ、道徳的な正しさ、道理にかなった正しさを、僕自身未だに一線を引けないでいる問題の一つ。
そして僕が変えたかった在り方の一つだ。
「そう。ルク自身が見付ける『正義』と言ってもいい。その基準がなければ、良いも悪いも、君自身が決めることは出来ないんじゃないのかな。」
キースが言うには、『正義』とは、それは僕自身が決める定規を持つことなのだと。
「賢者とは、賢き者とは。世界を知り、今を知り、過去を知り。その「正しさ」を見抜き、在り様を見抜き、変わりゆく世界を見守る者。そして時には、その世界を変え得る者。私はその一人な訳だけれども。」
言葉を区切り、改めて僕の眼を正面から見据えて、キースは続ける。
「君にその道を歩む決意があるなら。」
木々から零れる陽射しが、左目を覆う片眼鏡に反射する。
一瞬その光の眩しさに、目を細めた僕だったけれど、そこに立つキースは何時ものように、余裕のある笑みを浮かべてこう言った。
「君に調査をお願いしたいんだ。」
「調査?」
「そう。この世界に住まう魔物、その全てを君の手で調べて欲しい。」
そこにはきっと、僕にしか気付けない、僕にしか分からない物があるはずだと。
「ルクなら理解できるはずだよ。その果てに、私が君に託す物が何かを。」
一陣の風が吹く。
僕は昨日あの裏門を潜ってからこの今までのことを思い出す。
キースの話を大人しく聞いたのは、僕がどう足掻いても、手が届く『力』ではないと即座に理解したから。
あの時、僕の肩に置かれたキースの手が、とても、とても温く感じたから。
こんな僕を、傍に置いてくれたから。
それが僕がキースを信じる理由の全てだった。
「キース、一つ、聴いてもいいですか。」
「何だい?」
分かりやすく小首を傾げるキースに、僕は告げる。
「僕で、いいんですか?」
その答えは即座に音になって僕の耳に届いた。
「君じゃなきゃ駄目なんだ、ルク。」
キースの声、その柔らかい音は、僕の心に落ちて波紋を描くように広がる。
「分かりました。やります。」
「うん、ルクならそう言ってくれると信じていたよ。さぁ、あの手帳を出して。」
僕は何時の間にかその、上着の内側に隠されていたあの黒革の手帳を取り出す。
「では術式を解放しよう。」
僕の掌に置かれたその手帳に、更にその右手を重ねるとキースは謳うように言葉を編んだ。
― 世界に繋がれしその子供らの
歩み止めることなく鳥は唄う
果てに広がるその真実を
君が何時か掴まんことを
表紙に型押しされたその模様は、一瞬、蒼い炎を舞い上がらせたかと思うと、静かに鈍く光り出した。
「手帳であり、道しるべであり。これは今、僕と君の契約で繋がれた。」
「契約、ですか?」
「そう。私の弟子として、その任務を全うせよってことだ。」
キースは重ねられた手を放すと、僕の胸に置いた。
僕はその手の温かさを再び感じていた。
「良いかい?無理はしないこと。君の日々の状態は、この手帳に書き連ねられる。」
「勝手に、ですか。」
「勝手に、だね。例えば君が怪我をしたり、重篤な危機に陥った場合とか、そういういろいろがね。」
僕はいまいち容量を得ていないままに、キースへ質問を繰り返す。
「後からそれを見られるように、ですか?」
「いや、その場で、かな。ルクは、自分の状態に少し無頓着過ぎる。それは私も同じだ。人のことを言えたもんじゃないが、自分を知ると言う事は、新たな秩序に挑む前に、必要になる儀式みたいなもんだよ。」
儀式。
その言葉を素直に呑み込めない僕だったが、要は、僕が僕自身万全の状態を保つための目印の一つだと理解した。
『常に、自分も狩られる側であることを自覚せよ。』という、そんな教えの中で生きて来た僕にとっては、具体的に目に見える指針は重要な情報に違いなかった。
「さ、長い話を終わりにしたいところだが、まだまだ伝えなきゃいけないことは山ほどある。だがそろそろ、私は行かなきゃならない。」
「中央に、ですか?」
「そ。今日、ちょっと面倒なんだよね。公式試合の二日目、その最終選考。二省の長として出なきゃいけないし。」
自分でも驚くほどにすっかり頭から抜けていたが、本来なら僕もそこに参戦しているはずの、公式試合。
二省が長、現『勇者』の後継者候補を選ぶその御前試合。
「仕方がないから、一緒に行こうか、ルク。僕の弟子の初披露だね。」
大人は自分の企みが上手く行っている時程その笑顔を絶やさない、と言うあの言葉が僕の脳裏に再び過った。
キースは、愉快そうに笑っていたのだった。
◆黒革の手帳
魔紋が型押しされ、術式が刻印された上質な魔物の皮を使った手帳。
様々な機能が封印されている。
簡単に言うと、自分のステータスが表示される便利手帳、らしい。
各機能はキースが術式を解放することで発動する。
一般での販売価格は不明。
恐らくキース自身による自身のためのオーダーメイド魔道具。
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