賢者省の常識無し
主に刺突が主力とされる片手剣は細身ながらも両刃を持ち、鋭く磨かれ、青味掛かった銀色のそれは、僕がさっきまで使っていたインクを少し思い出させた。
「やぁ、ネア。今夜は一段と美しいね。」
「見え透いたお世辞は結構。」
「いや、レイピアが。」
「ほう。」
ネアと呼ばれたその女性は、剣を腰に収めると同時に、反対側の腕でキースの首を絞めた。
「それで、久々に戻って着たと思ったら新たに弟子を作ってこき使った挙句この時間から何をさせようって言うんですか何を。」
これまたキースに負けず劣らずの高い背に、腰の下まで伸びる真っ黒な黒髪。
ウルゲンルーデル卿を思い出させるも、明らかに異なるその癖のない髪質と、前髪は眉毛に並ぶように右上がりに綺麗に切り揃えられていた。
透明感のある黄褐色の瞳は暗闇の中で尚その存在を見せる獣のように輝き、右目は眼帯で覆われている。
キースとは対照的に、全身上から下まで真っ黒の、細身の軍服を着こなした風な出で立ちの女性だった。
呆然とする僕に、キースが最早いつも通りとなったあの笑顔を向けた。
「ルク、これがうちの庭師。」
「ごめんなさい、この常識無しが迷惑掛けまして。ちょっと待ってくださいね。」
そう言うと、庭師・ネアはキースを締めていた腕の力を強め、更にしっかりと締め直してから外した。
「えっと…。」
僕は掛ける言葉を一瞬失った。
流石の大賢者キースも、物理的に首を絞められると苦しいのだということは、僕でも理解できた。
庭師・ネアは僕に向き直ると、右手をその胸に当て軽くお辞儀をした。
「ネア・イル・エマストル。訳在ってここの、大賢者アルシュインド邸の庭師をしています。どうぞ宜しくお願い致します。」
「僕は、その、ルクです。ルク・エルゼヴォーダ…。」
精霊使いルアン・ルーとのやり取りは意外と僕の心に刺さっていたらしく、ここでも語尾が弱くなる僕だった。
「はい、存じてますよ。ルク・エルゼヴォーダ。私のことは、どうぞネアと呼んでください。」
「はい、宜しくお願いします。ネア。」
ここでの『庭師』は恐らく、僕の想像が間違いなければ、単なる庭園を手入れする人を表す言葉ではないのだろう。
どう見ても、敵に回したら勝てるかどうか分からないこの恰幅の良い女性が、植木の手入れをするだけとは思えない。
『庭』と言う家の周りの世界全てをその手中で管理している、そんな印象を強く持った。
「ご飯は、食べさせたんですか?」
ネアは未だに首を抑えてよろめくキースを睨みつける。
「あ。」
途端に顔色を変えるキースは、いきなり僕に抱き着くように膝まづいた。
「ルク、ごめん!私は師匠失格だな…。とりあえず調査報告は後回し。まずは君の身辺を整えよう。お腹は空いてないかい?眠くはないかい?」
唐突な質問に僕は、どう答えて良いのか迷ってしまった。
「だから常識無しって言うんですよ、うちの大賢者様は。後は私に任せて、とりあえず他の準備をしてください。」
「そうだね…じゃぁ、私はとりあえず、ルクの部屋と服を用意しよう。後は頼んだよ、ネア。」
「かしこまりました、この常識無し。」
キースは立ち上がると、再び僕を抱きしめてから慌てるように上の階へ、その優雅な曲線を描く階段を上がって行った。
「あの、ネア、実を言うと…その、言われるまで僕も気が付かなかったんだ。」
「あら、そうですか。」
あの裏門を潜ってからここまで、空腹や眠さ、そんな不快な感情を抱いた実感は、僕には一切なかった。
「それは恐らく、あの常識無しが一緒だったからかもしれませんね。ですがルク。私から見たら、貴方、相当酷いことになっていますよ。」
そう言うと、ネアは僕を大きな鏡の前に立たせた。
確かにスライム討伐からここまで、手が付けられることを全てやり通してきたつもりの僕は、自分がここまで汚れていることに全く気付かなかった。
「さ、風呂に案内します。」
ネアはそう言うと、僕を屋敷の奥へと誘った。
「一応お伺いします。ルク、風呂に入った経験は?」
「…ありません、多分。」
「そうですか。分かりました。」
僕がそう答えると、ネアは真顔で僕に言った。
「服を全部脱いだら、この籠に入れてください。大事なものはこちらの箱に。浅めの湯場があるのでそこで身体を洗ってください。」
「はい。」
「身体を洗う時は、これを使ってくださいね。あの常識無しが作ったものですが、肌には良いですよ。」
ようは、風呂と言うのは身体をお湯で洗える場所、と言う事で僕も合点がいった。
「ところで、この、柔らかくて穴がたくさん開いている物はなんですか?」
「身体を洗う道具なんですけど、繊維状になった綿です。」
「綿?」
「はい。綿を繊維状にして繋ぎ合わせて作ったもの、だそうです。」
「すごいですね。」
僕は素直に感心した。
「ルクはこの先もっと凄いものを作るのかもしれませんね。が、今はとりあえず、風呂に入りなさい。話はそれからです。」
「分かりました。」
「宜しい。では、しばらくしたら迎えに着ますね。」
そう言い残すと、ネアは通路の暗がりに消えて行った。
これは僕の出身地がどうとか、出自がどうとか、そういう問題ではなく、恐らく、この風呂は一般的なものではないのだろうと瞬時に理解した。
広い。とにかく広い。
しずくの滴る音で周囲の状況が把握しにくい事も、湯気で視界が取りにくいのも、僕にとっては少し怖いものだった。
だが、僕より遥かに強いと思われるあの二人がいるこの屋敷なら、少しは腰を下ろしても良いのかもしれない。
僕はネアに教わったままに、とりあえず風呂に入ることにした。
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