第7話
今、エイルは冬の寒さを震えながら牢で耐えている。春の訪れには今からひと月、いやふた月ほどかかるだろう。そこまで待て、というのは急に現れた女神サングリーズの口ぶりからすれば少々悠長ではないか、とエイルは感じた。何か火急の事情があったから、熱心な信奉者でない巫女相手だとしても、何か責務を与えるために姿を現したのではないか? という疑問が頭の中を駆け巡る。そしてそれは、激情と共にエイルの口から放たれていく。
「急に私の前に現れて、私の運命を変えたと告げ、多くの人々に呪いを掛け、そして……春まで何もせずに待てと言うのですか? 一体何が目的なのですか? 私は、ただ平穏に日々を過ごしていただけなのに!」
「勝手すぎる、とでも言いたそうね」
「でも、あなたに神が定めた運命のくびきから抜け出す力は、ある?」
「……そんな力があったとしたら、こんなことにはなっていないでしょうね」
「そうね、物分かりが良くて助かるわ」
クスクス、と悪戯っぽい笑みを浮かべてサングリーズはエイルに語りかける。
「実は、あなたに試してほしいことがあるの」
「……!」
予想こそしていたものの、いざ女神から自分に何か提示されると、ついエイルは身構えてしまった。得体の知れない恐怖を、目の前にいる女神から突き付けられている気さえする。もはやサングリーズが本当に女神なのか、あるいは実のところは悪魔で、人々に崇拝されているだけの存在なのか、エイルにはわからなくなっていた。
「抗ってほしいのよ、神が定めた運命に」
しかし、その口から告げられた提案は意外なものであった。
「……え?」
もともと混乱していた頭に、突拍子もない発言がエイルの脳内に突き刺さった。
「そろそろ機織りにも飽きてきてね。今回みたいな事故はいいきっかけになると思ったから、人間がどの程度自分たちの行く末を自分たちで決められるか、見てみようと思ったのよ」
必死に頭を落ち着かせながら、矛盾している、とエイルは感じていた。運命の女神、それも未来や来世を司る存在のサングリーズが、彼女自身が定めた運命に抵抗しろ、というのは筋が通らない。
どんなに人間が頑張ったところで、その苦闘すら、血染めの糸でつむがれた神々の物語の一つではないのか。そんな疑念をエイルの表情から感じ取ったのか、サングリーズは思い出したように付け加える。
「言っておくけど、神とて万能ではないわよ? 私たちが編み上げる運命だって、今こうしてほころびが見えているし。そもそも決まっている未来は大まかなものでしかないのだから、細かい部分は下界の人々が直接決めていたのだし。まあ逆に言えば、人間は大筋を変えることができなかったということなのだけれど」
ゆっくりと、音を立てず、女神はエイルへ触れることができない手を伸ばす。
「しばらくの間、私たちの意思とは関係なく、下界で必死に生きてほしいの」
相変わらず床にへたり込んだままのエイルに柔らかな笑みを向けながら、サングリーズが膝立ちで巫女へと距離を詰める。瑠璃色に染められた美しい
「自分の人生くらい、自分で決めたいと思わない? 私に運命を決められるの、腹立たしくないの?」
その姿はさながら、人間を誘惑する悪魔であった。実のところはエイルに世界の行く末を託す女神なのだが、どちらにせよ人間の死を多くもたらす存在なのは間違いなかった。少なくとも、エイルを使って幾人もの兵士たちを輪廻の環に戻した張本人ではあるのはささやきかけられた側の巫女にもわかっていることではあるのだが。
「それは、そうですけれど……」
エイルは気圧された。そのささやき自体は甘美なものなのだが、女神そのものの畏怖すべき超常の力は囚われの巫女を大いに戸惑わせた。確かに、自分の人生を滅茶苦茶にされた挙句、それが全て女神の筋書き通りなのは癪に障る。生きていくうえで、たとえ苦難が降りかかってきたとしても、それが自分自身による選択の結果だったとしたら後悔はないだろう。しかし、ここまでエイルにもたらされた困難は彼女自身に起因するものではないのだから、ここまでの運命を半ば呪いかけていた。
それでも、はたしてこの女神とされる存在の言うままに提案を受け入れて良いものか、囚われの巫女には判断ができなかった。
(何か、何かがおかしいはず……)
単なる気まぐれかもしれない。ほんのお遊びで、人間に運命をゆだねてみたくなったのかもしれない。あるいは、サングリーズの言葉はすべて噓で、結局は女神の手の上で転がされているだけかもしれない。
「そういえば、あなたは慎重派だったわね。すぐに選べないのもある意味当然かしら」
女神は懐かしそうに唇に人差し指をあて、口角を吊り上げた。
エイルは忘れかけていたが、どうも女神は前世やそれ以前からエイル、あるいは彼女と同じ魂を持つ者と面識があるらしい。その事実はエイルに自分が輪廻転生を繰り返した人間であることを再確認させたが、同時に女神との価値観の違いを浮き彫りにさせた。
神々にとって人間の肉体は単なる魂の器かもしれないが、今を生きる人々にとってはその体が拍動を止める時は自分の物語が終わる時なのだ。人々は来世を信じ、幸せを祈ることはできるかもしれないが、それは今世の幸せとは直接つながっていない。
「まあ一応、あなたには知らせておいたわ。定めた運命通りにならないことを期待するわね、運命の女神としてどうかと思うけれど」
女神サングリーズは立ち上がり、牢の冷たい床からその体を宙に浮かせた。
(……どのみち、私に選択肢がなさそうなのは運命通りなのかしら)
エイルはどこか矛盾した一連の女神の行動を心の中で咎めながら、背中から白銀の翼を生やし、羽ばたき始めたサングリーズを目で追った。どこまで行っても神々は人間のことなど大して気に留めないらしい。
「あ、そうそう」
何かを思い出した女神がエイルにもう一度近づく。
「私に運命を捻じ曲げられた人間がもう一人いるわ。神界に連れて行こうかと思ったのだけれど、あなたの力になるかと思ったから下界に留めてみたの。近いうちに会えたらいいわね」
最後に言い残した後、背中の翼を大きく羽ばたかせて、女神サングリーズは音もなく消えていった。
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