魔法時代の草創期~呪われた巫女の運命研究室~

森メメント

第一章

第1話

 月明かりが照らす夜、春風が吹き荒れる草原を、騎士と巫女を乗せて馬は駆ける。

 昼までは雨が降っていたらしいが、今は雲がどこかに消えて星も月も逃避行を導いてくれている。少し肌寒さを感じるが、我慢できないというほどでもない。

 ただ、鞍上で感じる速度と振動は想像していたよりも大きく、馬に慣れない巫女エイルを驚かせ続けた。馬上でバランスを保つのがこんなに難しいとは思っていなかったのだ。街を脱出して間もないというのに、足の骨が軋みはじめている。


「エイル、しっかりつかまれ。落馬したら命は保証できない」


 言われて、巫女は目の前で手綱を握る騎士の背中にしがみつく。

 それでも、長い黒髪と使い古しの巫女服がバサバサと音を立てながらエイルの心と体を揺らす。彼女の白い肌は少し紅潮していた。


(ボロボロの寝間着のままでたたき起こされて、そのままの乱れた長い黒髪で人前に出ること自体が恥ずかしいのに。そのうえ馬にまたがって、殿方に身体を預けるなんて、もうはしたないったら……)


 そんな気持ちを知ってか知らずか、エイルが馬に乗れないのを見越して用意されたであろう二人乗り用の鞍の上で、スヴェンと名乗った騎士は追い打ちをかけてきた。


「服をつかむな、引っ張られて態勢が崩れる。腰に腕を回して体を固定しろ」


 金髪碧眼の騎士がこちらを一瞥いちべつして指示する。

 ややウェーブかかった短髪、切れ長の目、すらりと通った鼻筋。そのままなら間違いなく人目を引くであろう端正な顔立ちだ。

 しかし、左目をまたぐ形で額と頬の上から首筋にかけて——ひょっとするとそのさらに下までかもしれない——大きく縦に入った傷跡があり、スヴェンがただの優男ではなく歴戦の戦士だという事を誇示していた。

 エイルは長いこと戦争とは無縁の人間だったゆえに、その傷は彼もやはり戦いに慣れてしまった冷徹で非情な男なんだろうか、という畏怖を感じずにはいられない。


(ううう、私がずっと神殿暮らしの巫女だって、この人わかっているのかしら……)


 神殿は兵士に祝福を授ける時以外は基本的に男子禁制だった。単に触れることだけならばそこまでうろたえなかったかもしれないが、抱きつくなど考えもしなかった。

 恐る恐る、言われるがままにスヴェンの腰に手を回す。そのまま前方に体重を預ける形になったエイルは、筋肉質な背中の上から人肌のぬくもりをわずかに感じる。

 否が応でも、見ず知らずの男性に自分自身が何をやっているのかを考えてしまう。


(……恥ずかしさで心臓が口から飛び出てしまいそう)


 胸の高鳴りが目の前の男に伝わるのではないかと不安に駆られたが、あぶみに足をかけてしっかりと座るのがやっとのエイルにとって、その指示には従うほかないかった。

 長身で細身なスヴェンは黒ずんだ革鎧と小弓を身にまとい、腰に矢筒をたずさえて、それはもはや騎士というより狩人といった出で立ちだったが、左腕だけは鉄製の籠手こてと肩当をあてがい、妙に重武装だった。

 エイルの貧弱な腕はそのゴツゴツとした防具にぶつかる度に、その重々しい感触によって押しつぶされそうになっていた。それでも、揺れる馬の上でなんとか振り落とされないように腕に力を込めてみる。


(この感じ……どこかで)


 スヴェンという男に面識はない。しかし、エイルはそのいびつな武具を身に着けた騎士になぜか懐かしさを感じていた。どこか、遠くの記憶が呼び覚まされるような感覚だけは体内に淀んでいるものの、実際にはそもそも男性との会話すら稀な人生だったので、それはただの錯覚だと考えるしかなかった。少なくとも、今のエイルにとっては。

 そんなことを巫女が思っていると、不意に馬がつまずきそうになる。ガクッ、と大きくバランスを崩して前脚の膝を折り、地面についてしまう。


「あうっ!?」

「しっかり!」


 すかさずスヴェンが手綱を引いて立て直す。馬はなんとか態勢を整えて鞍上の二人は落馬こそ免れたが、エイルはその拍子に大きく上下に揺られ、尻を鞍へ強く叩きつけることになった。


(痛い……今のは痣になったかも……)


 急激に減速することになった馬は、エイルの気持ちなど知る由もなく、その場で数歩足踏みをして前脚が無事なのを確かめる。そして、再び主人の指示通りに走るべく急加速した。

 

「……もう少し、ゆっくり走れませんか!?」


 律儀にも再び走りだした馬の速度と振動に耐えかねて、旅慣れぬエイルはつい弱音を吐いてしまう。

 しかし、スヴェンは冷静にこう答えた。


「ダメだな、追手が来てからでは遅い。ある程度ヘリヤの街から距離を取りたい」

「うう……でも、このままだとお馬さんが疲れるんじゃないんですか?」

「……どこかで宿が取れるはずだ、そこまではなんとか踏ん張ってもらう」


 生まれ育った故郷と神殿を背に、西へと大気を切り裂きながら馬は進む。

 月が出ているから多少はましなのだろう。しかし、追手を気にするスヴェンは松明を掲げていないため、本当に自分たちが西へ向かっているのかは彼の勘と経験に頼るところが大きい。

 騎士の背中に身体を預けているので、当然前は見えない。行き先も簡単な説明だけだった。少しだけ馬乗りになれたのもつかの間、心細さと見知らぬ土地にいるという不安が闇夜にまぎれて少しずつエイルを押しつぶそうとしていた。

 

(初めて街の外に出る旅が、こんなことになるとは思わなかった)


 まだエイルがいたいけな少女だった頃は、自分がいつか街の外に出て冒険の旅に出る、なんて夢を見たものだ。

 しかし、心と体が成長するにつれ、それはただの夢でしかないと気が付く。現実を生き抜くために、毎日の糧を得るために、神殿で織物や編み物をこなしていく日々を過ごしていくだけだった。きっとそれが自分の運命だと、そう思っていた。

 それでも、まさか旅というよりは逃避行が始まるなどとは想像もしていなかったので、この先に何が起きるのか全く見当もつかない。スヴェンも説明は後だ、と言ったきりだ。


「ん、あれはファティナか」


 手綱を握る騎士が人影に気づく。しばらくして、エイルも知る顔が近づいてきた。

 少しずつ互いの馬が速度を落とし、一度立ち止まった。

 月明かりに照らされた銀髪を風になびかせる褐色肌の女性、ファティナが声をかける。


「ご無事で何よりです」

「何とかここまではたどり着いたな、どこかに泊まれそうか?」

「ここから一時間ほど走った先に農家があります。そこで銀貨を渡せば問題ないかと」

「巻き込みたくはないが、仕方ないだろう。先導してくれ」


 自分を放置して話が進行する様子に、エイルがたまらず叫ぶ。


「ファティナ! どこへ行っていたの!?」

斥候せっこうに出ていたんですよ、エイル様」

「せっこう? ええと、偵察ってことよね?」

 

 エイルは彼女が馬に乗れることなど知らなかった。彼女はどこかキビキビと動き、今までエイルの世話をしていた時よりも振る舞いが違っているようにも見える。

 ひょっとすると、ファティナのことはほとんど理解できていないのかもしれない。


「そうです。急ぎましょう、追手がいつ現れるかもわかりません」

「でも……きゃぁっ」


 言い切る前に、スヴェンに促された馬がいなないて再度加速した。

 ファティナが続き、やがて追い越してリードする。


「話は後だ、その農家で4時間ほど休息して、日の出と同時に出なければならん」


 再び走り出した馬の上でまたも騎士の背中に身を預ける。

 振り落とされないように必死ではあるものの、今は頼るべきものがそれしかないという事実にすがるしかなかった。

 もう戻れない故郷を背に、エイルはスヴェンを掴む腕に力を込めた。

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