第1話 小さな喫茶店:あがた森魚

「いつまで寝てるのー、もう昼やでー」


その声で森園寛治もりぞのカンジは釣り上げられた魚のように、大きくびくんと痙攣し、一瞬にして飛び起きた。その声は紛れもなく彼の母親の声だったからだ。そしてわずか数秒で、昨晩の出来事と、さらに半年前から続いている不思議な出来事を早回しの動画のように頭の中で再生した。


半年前に校庭で倒れ、この世界で目が覚めたこと、恋人澤木恵さわきケイとの再会、修学旅行、期末テスト、初体験、喧嘩、文化祭と葬式。そして昨晩の出来事。


昨晩、夜遅くに、この世界で再会した恋人は家までやってきた。ふたりは家を抜け出し久良岐公園で深夜の散歩をした。その時に彼女も未来からやってきたことを告白した。この夜が、この世界での最後の時間だと思っていた。ふたりは最後のキスをして、深夜三時頃に帰宅した。


目が覚めれば47年後の自宅だと思っていた。横には一緒に暮らしているレイコが眠っていると思っていた。 とりあえず、この状況がどうなっているのかを確認すべきだ。布団から起き上がると思いのほか寒かったので、思わずジージャンを羽織った。部屋を見渡すと、この世界で買ったグレコEG360の姿はなく、犬のように四つん這いで電話口まで這っていき、彼女の家の電話番号を回した。


「もしもし…」

「あ、あたしよ」

たった一言で、電話口にいるのは『未来からやってきた彼女』であることが分った。

「これ、どうなっているんだ?」

「また大変なことが起きているみたいよ。電話じゃ長くなるから会えない?」

「会えない、って今日は学校じゃないのか?」

「違うのよ、今日は日曜日。11月18日よ」

「えー!それどういうこと」

「だから、会って話しましょ」


ジーンズに着替えて、ジージャンを羽織り母親に「ちょっとケイに会ってくるよ」と言うと、不思議そうな顔をして「ケイ? ケイって誰?」と聞いた。これはとんでもないことが起きているかも知れないと思いつつも、いちいち驚いている場合ではない。「学校の部活の子だよ、みんなで会うことになっているんだ」と適当に返事をして家を出た。


中学の裏門の前に、彼女は先に到着して待っていた。珍しくジーンズにセーター、ダッフルコートという中学生らしいで立ちだった。


「ごめんね、こんな格好で」

「いいじゃん、中学生らしくて可愛いよ」

「だって、中学生だもん」

「あ、そうか」

「それより、そんな格好で寒くないの?」

「大丈夫。じゃあ、駅まで歩いて、途中で喫茶店|ルビを入力…《サテン》でも入ろうか」

「いいわね、いかにも中学生って格好だけどね」


少し歩くと、ケイが「ねえ、腕を組んでもいい?」と言って手を回してくる。背の高い彼女は、カンジにとって肩を抱くことができなかったので、腕を組むしかないのだ。


「要するに一晩寝たら、三日後の18日になっていた、ってことか」

「それに、この世界は、あたしたちが中学時代を過ごしたままみたいだよ」

「つまり、ちゃんとしたカップルになっていない俺たちってことか」

「ちゃんとしてない、ってどういうことよ」と少し頬を膨らませて睨んだ。


「そういう意味じゃなくて、半年前からの俺たちじゃない、ってことだよ」

「あたしね、姉上に「カンジに会ってくる」って言ったら、カンジって誰? って聞かれちゃった」

「おれも、おかんにケイって誰って言われた」

「だから、あの半年の出来事は全部、無くなっていて、あたしたちが過ごした中学時代のままなのよ。たぶん」

「そっか、また半年前からやり直しってことかー」


「それだけじゃないわ、もっと重大なことが起きているのよ。あたし、出かけるまえに、部屋をいろいろ確認してみたの。そしたら、ふたりの交換日記が出てきたんだけど、その内容が変なの」

「え、どういうこと」

「普通の中三のカップルの他愛のない交換日記なのよ」

「あの交換日記って、何がきっかけでスタートしたか覚えている?」

「えーっと、なんだっけ?」

「あれはね、転校が決まって、毎日ノートを交換しようってことで始まったのよ」

「あー、そうだった、思い出したー」

「やーね、もう。でね、その交換日記に書かれている内容が、あたしたちが書いた内容と全然違うの。つまり転校のことが書かれていないのよ」

「えーー!」

「そして、もうすぐ12月。なんだか変だと思わない?」


頭の中が、昨晩のように混乱してくる。つまりふたりは昨晩自宅に戻って就寝し、目が覚めたら再び1973年の11月18日にやってきたということだろうか。


「つまり、親父に転勤辞令が出てないってことか?」

「はっきり断言できないけど、その可能性が大きいと思ったわ」

「うおー、それってずっと横浜に居られる、ってことじゃん」

「でも喜んでばかりもいわれないと思うの。そこで相談したかったのよ」

「なるほど」


彼はサクサクと物事を進める彼女に圧倒されていた。昨日までとは全然違う女性のようだ。強いて言えば昨晩の、大人の澤木ケイのままのような気がする。

カランコローンと、喫茶店のドアが懐かしい音を立てる。昨晩、お互いに本当の自分を曝け出してしまったせいか、ふたりとも熟年男女の行動に慣れてしまった。むろん外見は誰が見ても中学生なのだが。




「いらっしゃいませー」とウェイトレスが少し不思議そうに僕たちを見た。中学生が喫茶店に入ってはいけないという校則があったかどうかは分からないけど、普通に堂々としていたせいか、ちゃんとお水が出てきて注文を取りに来た。


「あたしホット」「俺も」と答えると「かしこまりました」と言って、テーブルの上の灰皿を回収していった。おまえたちタバコを吸うなよ…と言わんばかりに。


「灰皿、持っていかれちゃったね…」とケイが、小声で笑った。ケイはダッフルコートを脱ぎ、僕もジージャンを脱いで、テーブルを挟んで前のめりに腰掛けた。


「さてと…、さっきのケイの仮説が本当としたら…僕は、年末までじゃなくて、ずっと横浜に住んでいられる…ってことだよな」

「そうなの。そうなると、次の課題を解決しないといけないと思いながら、歩いてきたのよ」

「次の課題って?」

「高校受験よ」


そうか…と思った。さっきからのケイの話に「ずっと横浜に居て、ケイと一緒にいられる」というだけで舞い上がっていた僕に、彼女は冷静に次の一手を考えていたのだ。


「ねえ、あたしたちがずっと一緒に居るには、どうすればいいと思う?」

「同じ高校に通うこと、か?」

「そうなのよ!」とケイは、体を乗り出して強い口調で言い放った。

「おまたせしました」とウエイトレスが、コーヒーを2つ持ってきた。以前に吉田拓郎の「リンゴ」の歌詞に出てくるような情景を夢見ていた僕にとって、少し嬉しいシチュエーションだった。


出されたコーヒーを、砂糖もミルクも入れないでそのまま口に運ぶ。こっちの世界に来てから一度もまともなコーヒーを飲んだことがない僕にとって、至福の味だった。


「おいしいね」と僕がいうと、彼女も同じようにブラックコーヒーを口に運んだ。

「おいしいわ」

「ね。こっちの世界にきて初めてまとなコーヒーを飲んだよ」

「あたしもよ」と、ケイはカップの中の黒い液体を嬉しそうに見つめていた。

「ねえ、カンジはどんな高校に行ったの?」

「うーん、全然受験勉強してなかったから、入れる高校を探すって感じかな。偏差値50もない私立の男子高校だったよ」

「あたしも同じ、全然勉強できなかったから、お嬢様系の女子校だったわ」

「わー、俺と同じだ。私立のボンボン学校だったよー」


「うふふ」とケイは続けてコーヒーを飲み、カップをソーサーに置いて、こう言った。

「でもね、それじゃダメなのよ」

「う、うん。そうだね」

「あたしたちは男女共学の高校に一緒にいかなくちゃだめなの」

「そ、そうだよね」

「そのためには、あたしたちは何をしなくちゃならないと思う?」

そう言うと、彼女はもう一口コーヒーを口に運んで、こう言った。

「あのね、カンジは、半年前にこっちの世界で学校一番の成績になったでしょ」

「あ、ああ、そうだね」

「もう一度、それをやりましょうよ」

「あ、そうか…」とケイが言ってることを理解した。半年前こっちの世界に来て、中学生の勉強をもう一度真剣にやり直し、結果的に僕はクラスで一番の成績を叩き出し、さらに二学期になってからは学年で一番の成績を残すことができたのだ。

「でしょ、成績さえよければ、わたしたちは進学する高校で悩むことはないのよ」

「うん、その通りだ」

「別に「いい高校」に行く必要はないの。男女共学ならどこでもいいわ」

「確かに、そのためには選択肢を増やすってことだろ?」

「そうなのよ、どの高校でも行けるようにならないとね」

「おう、そのためには」

「そのためには?」

「学校の成績をあげることだな」

「その通りよ」


そう言って僕たちは笑いあった。

ケイは一息ついて水を口に運び、深呼吸してこう言った。

「あたしね、昨晩、カンジがこっちの世界で勉強を頑張りすぎたことは、目立つからよくない…って言ったよね」

「うん、そうだね」

「それ、取り消すね。今は、なりふり構わず成績をアップさせることが、ふたりの最優先事項だと思うの」

「そうだよ、その通りだ。いまは成績をあげて進学校のランクを上げないとね」

「そうなの、もうなりふり構わず頑張るだけよね」

「うん、幸い二学期の期末テスト前だしさ」

「あたしは、こっちの世界に来て、勉強を頑張ると周りから目立ちすぎると思って抑えていたんだけど、これからは全力で頑張るよ」

「うん、大丈夫。俺でも学年一番になれたんだからさ」というと、ケイは思い出したように笑った。

「こっちの世界では、あたしもカンジも勉強できないカップルだもんね」

「あはは、ほんとだ」

「でね。カンジ…」

「なに?」

「あたしたち、こっちの世界では47年前のままのカップルじゃない? だから前のように周りを気にしないで交際してますよ的なオーラは少し控えて付き合わない?」

「賛成。明日から急に学校でもいちゃいちゃしてたら、周りがまた不審な目で見るしね」

「そうなの、わたしたちは、わたしたちだけの秘密がある。それを大切にすればいいと思うのよ」

「その通りだ、それよりも大事なことは…」

「勉強をすること!」とふたりが同時に言ったので、大笑いしてしまいウエイトレスがこっちを見た。


「あのさ…」と最後のコーヒーを飲み、ケイに語りかけた。彼女は少しだけ首を傾げてこっちを見た。

「考えたんだけど、前にこっちに来た時、僕は未来を知っている自分自身が怖くなったことがあったんだ」

ケイは、黙って僕の方を見ている。

「つまり未来を知っているということは、世の中が変わって、何が求められるかを知っているということだろ、だったら、それを先回りすることで色々なことを先に実現できるということ。そして、その結果として、色々な場面での成功者になれる可能性を持っているんだと」

ケイは真剣な目で、僕が話すのをじっと聞いている。

「だから、そういった知っている知識を使うことは、ここから先の世の中を変えてしまう可能性があると思っていたんだ。つまり、そうした知識は能力として使うべきじゃない…って」


ケイの目が、僕の目を覗き込むように真剣にこっちを見ている。

「でもね、今日色々とおまえと話をして、ちょっと考えが変わったんだ。この能力というか知識は自分たちのために使おうと…」

ほんの少しの沈黙のあとケイが口を開いた。

「カンジ…、実はあたしも同じこと考えていたよ」

「え、そうなの?」

「うん。わたしはね、死ぬ直前にカンジと会えて、本当に幸せだと思ったの。そして今日また、この幸せがずっと続くかもしれないと思った。だったら、もう欲張って、この幸せをずっと続けるためには何をしてもいいんじゃないかな…って思ったの」

「そう、そんなんだよ」

「でしょ、同じこと思ってるよね」

「うん。これは僕たちふたりが幸せになれるのなら、周りの世界は変わったってよいと思うようになったんだ。それが正しいか正しくないか…なんて誰に気を使うものでもないはずだと思うんだ」


そう言うと、少し沈黙が続いた。僕はこの先、未来を変えてしまう可能性があると知ってはいたが、そのことを怖いとは思わなくなっていた。そして、きっとケイも同じことを考えているだろうと思った。半年前にこっちに世界にきて、自分ひとりがエイリアンだった時の孤独感は、目の前にいる同じ境遇の愛する女と一緒に乗り越えていけると思うと、怖いものは何もない。まさに無敵状態だった。


「ケイ…」

「なあに?」と彼女は、顔を上げて僕を見た。気のせいかまた涙が浮かんでいるように見えた。

「これから先、ずっとずっと一緒にいようね」…そう言うと、ケイの両目から涙が零れ落ちた。昨晩と同じ美しい涙が頬を伝っていた。

「ばか…」とケイが口を開く。

「カンジ…ってどうしてそんなに優しいの…」と笑ってみせた。

「ケイは泣き虫やなあ」と言うと

「あーん、カンジの大阪弁、やっぱ癒されるー」と笑った。




「これからどうする?」喫茶店を出てケイが僕を見た。

「駅前のデパートでもいかない? 寒いし」

「いいね」そう言って。ケイはまた腕を組んで来た。

「喫茶店のねーちゃん、俺らのことを不審な目で見てたよな」

「ね。失礼しちゃうわ、年下のくせに」と二人で笑いあった。


「もうちょっと年上に見える格好しないとね。お洋服を買わなくっちゃ」

「うん。これじゃあんまりだもんな」

「カンジは髪の毛も伸ばさないとね、前みたいに」

「うん、またケイに髪の毛を切ってもらうよ」

「まかせて。わたしも手入れしないとボサボサだしね。昔の女子中学生ってこんな髪の毛だったのねー」

「あはは、そうだねー」


今はない京浜デパート。当時はこの3階建のデパートしか買い物をする場所はなく、婦人服や紳士服など以外にも、一応レコード屋やファンシーショップなどがあった。

「わー、あったかいねー」

「うん、避難するにはちょうどいいや」

「久しぶりのデートで嬉しいなー」

僕たちは腕を組むのをやめて並んで歩いた。こうしてショッピングモールの中を歩くのは半年前の横浜ジョイナス以来だ。


「あのさ、前に一緒にジョイナス行ったじゃん」

「うん」

「あの時、俺の様子って、やっぱおかしかった?」

「そうね。男子なのにすごく婦人服のことが詳しいって分かったわ」

「そうかー、俺、昔婦人服のカタログの撮影とかしていたんだぜ」

「素敵ね、カンジがこの先、デザイナーになっても、ずっと一緒にいたいわ」

「もちろんだよ」


エスカレーターで、上の階にあがりレコード屋に入ってみた。さっそくロックのLPレコードのコーナーに足を運ぶ。

「俺が映画を見た帰りに、レッドツェッペリンを買ったの覚えている?」

「もちろんよ、あたしはモーニングアフターのシングルを買ったわ」

「そうだね。でも実際の過去では買ってないから、家に戻るとレコードがないんだろうな」

「また、買えばいいじゃない」

「そうだね。そのためには…」

「勉強すること!」とまた二人で一緒に言ったので、他の客がこっちを振り返った。僕たちは声を出して笑ってレコード屋を出た。

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