【完結】獣人族だとバレました
ちゆき
1.
「お前、獣人だったのか」
目の前にいる彼がにやりと笑う。散々両親には獣人だとバレないようにと言われていたのに、自分の不注意でバレてしまった。逃げ出したいのに逃げられない。彼の真っ直ぐな視線に体が動かないからだ。
(ど、どうしよう……!)
自分の感情とは裏腹にピコピコと動いてしまう耳を両手で隠す。そもそもどうしてこうなったのか、私はあの時の自分を恨んだ。
「おや、ティアナ。今日は何を買いに来たんだい?」
頭からすっぽりとマントを被った私に、店の店主が気軽に声をかけてくれた。この村でこんな格好をするのは私ぐらいなので、誰か聞かなくても分かっているのだ。
「えっと、あの……り、りんごを買いに……」
「りんごだね、ちょっと待ってな」
紙袋にりんごを数個入れてくれた店主に、銀貨と交換して受け取る。ありがとうとお礼を述べ、私はそそくさと来た道を戻っていった。途中何人かの村人に名前を呼ばれ、その度に挨拶を交わす。もちろん布は取らない。こんな所で姿を晒すなんて不用心すぎる。
私は少し離れた家まで足早に戻り、そして後ろ手にドアを閉めて一息ついた。
「ふぅ、今日もバレなかった」
自信を覆う布を取れば、ぴょこんっと耳が飛び出る。所謂獣耳というやつで。毛並みを整えるためにそこへ手を伸ばした。
昔は人間と共存していたという獣人族と人間のハーフ。獣人族である証の獣耳が生えていて、それによって少しだけ聴覚がいい。そして瞳は獣人族特有の金糸雀色をしているが、これは人間にはあまり知られていないようで、特に何も言われることはなかった。
耳と瞳以外に関しては人間と同じものを受け継いだため、完全な獣人でもないし、人間でもない。そんな、中途半端な存在だった。
私は買ってきたりんごをテーブルに置き、そこに飾ってある写真に微笑みかける。
「ただいま。お父さん、お母さん」
写っているのは、普通の人間の父と、獣耳が生えている母だ。両親は3年前、事故に遭って亡くなってしまった。今でも寂しい思いをするけれど、いつまでも悲しんでいたらお父さん達に怒られてしまうからと、普段通りに生活をしていた。引っ越すことも考えたのだが、思い出が詰まったこの家から離れることなんてできなかった。日用品や食料品がなくなれば、この獣耳が見られないようにすっぽりと帽子を被って村へ赴いていた。万が一獣耳を見られたらきっと捕まってしまう。昔と違って今や獣人族は見世物として浸透していた。早い話、獣人族は奴隷として捕まってしまうのだ。
男性は力仕事として、そして女性は慰み者として。
そのせいで獣人族はだんだんと数を減らし、私達はひっそりと暮らすしかなかった。私達は少し人と違うだけ。それだけなのに奴隷にされるなんて酷い話だと思う。しかし、人間全員が酷いわけではないと分かっている。一部の富裕層だけなのだと。村の人達がそんな人間ではないとは思うものの、どこから一部の富裕層にバレるか分からない。なので私は自宅以外では獣耳が隠れるように布を被っていた。この耳がある限り私は普通の人間ではないし、獣人族であるからだ。幸いにも村の人達は、私が帽子を目深に被っているのは極度の恥ずかしがり屋だと思っているようで。まあ隠れて暮らしていたために人と話すのは得意ではないのだけれど、せっかくの設定を拝借し、便乗していた。
生きていくには村に出ないと行けない。なるべくなら自家栽培のものをと思ってはいるのだがすべてを補えるわけではないし、たまには違うものも食べてみたくなる。
「さて、アップルパイでも作ろうかな」
お店で見かけた美味しそうなりんご。それを見ていたらお母さんが作るアップルパイが食べたくなったのだ。試行錯誤をしてお母さんの味に近いアップルパイを作れるようにはなったけれどやっぱりまだまだで。ちゃんとレシピを聞いておけば良かったな、なんて自嘲した。
教えてくれていたのに、私はその時遊ぶことに夢中で『また後で教えて』と聞く耳を持たなかった。大丈夫だと思ったから。その時聞かなくても次があるからと思っていたから。もう、次などなかったのに。
「……お母さん」
お母さんの優しいにおいが好きだった。お布団を干したような、お日様のにおい。ポカポカで、優しくて、私の大好きなにおいは、もうない。
「……っ、やば。お鍋に入っちゃう」
顔を背けて袖で涙を吹き、ぐすんと鼻を鳴らす。何度泣いても足りない。お父さんとお母さんが、足りない。ぎゅっと唇を噛み締めた後、私は小さく頭を振ってアップルパイ作りに集中することにしたのだった。
「よし」
明日の朝食の下ごしらえを終え、備え付けてある布で手を拭く。いつもならこの後は語学の勉強をするのだが、今日は久々に村に出たので疲れてしまった……ということでこのまま寝てしまおう、と言い訳をしながらエプロンを脱ぐ。
(……このエプロンもほつれてきたわね)
別に誰に見せるわけでもないのだから気にすることもないのだけれど、少し手直しがしたくなってくる。それにこの前、料理の最中に誤って焦がしてしまった所も何か可愛い布を使って誤魔化したい。
気になってしまったらどんどん止まらなくなって。寝ようと思っていたのに棚から裁縫箱を取り出していた。何かに使えるだろうかと取っておいた布の切れ端。これをリボンにして、焦げた所に付ければ誤魔化せるし、そして可愛くなる。ほつれている紐の部分も縫い直せばまだまだ着られる。頭の中で順序を組み立てながら針に糸を通した時だった。がさっと外の草木が音を立てた。それはとても小さな音。しかし風で揺れたのとは違うその音に、背中に嫌な汗が伝う。
「誰か、来た……?」
だんだんと近づく音は確実にこちらへと近づいていて、不意にドアがガタッと音を立てた。
針とエプロンをテーブルに置いてじっとドアを見つめるが、それ以降音が聞こえることはなかった。お母さんのような完全な獣人であれば違う音が聞こえたかもしれないが、もう私には聞こえなかった。しかし私はなんだか気になってしまい、取っ手の長いお鍋を手に取ってゆっくりと近づいて行く。
しん、と静まりかえった室内。もしかして私の存在がバレて捕まえに来たのでは、なんて不安が過ぎる。開けない方がいいのは分かっている。でもこのまま黙って捕まるならば少しでも抵抗がしたかった。
ぎゅっとお鍋の取っ手を握り締め、そしてドアノブをゆっくりと回した。
「誰もいない……?」
少しだけ開けたドアの隙間から外を窺う。目の前に誰かいるだろうと思っていたが、いつもの光景が広がっていた。
なんだ、私の気にしすぎか、と何気なく視線を下に向ければ、月明かりでキラキラと輝く何かが目に入ってきた。
「髪、の毛……?」
ここからだとあまり良くは見えないが、恐らく人の髪の毛だろう。更に視線をずらせば服のようなものが見える。酔っ払いでも迷い込んで寝てしまったのだろうか、と呆れたが、すぐさま考えを改めることになった。
「怪我!?」
暗くて分かりにくいが、服の辺りには血のような何かが付いており、それにむせ返るような鉄のにおいが鼻をつく。私はお鍋を放り投げてゆっくりとドアを開け、その怪我人の前に回り込んだ。怪我人は恐らく男性。恐らくと付くのは、その顔があまりにも美しかったからだ。
「大丈夫ですか!?」
「……っ」
痛々しげに顔を歪め、こちらの声が聞こえているのかいないのか。口から出るのは唸り声だけだった。
とりあえず手当てをしないと、彼の腕の中に体を滑り込ませ、足にこれでもかという程の力を込めて立ち上がる。全体重が私にのしかかってツラいが、私よりもこの人の方がツラいのだから我慢をするしかない。
「もう、ちょっとです、から、頑張って……!」
んぐぐ、と力を込めてなんとかベッドまで運び、その人を横たわらせた。すぐに服を切り、その傷口を確認する。擦り傷や切り傷、そして打撲の痕があちこちに見られる。どこかから滑落したような傷のようだった。とりあえず私は急いで水と清潔な布を用意して傷口を拭いていった。布が傷口に触れる度に苦痛に顔を歪めるが、まずは傷口を清潔にしないことには薬も塗れなかった。
なんとか傷口を綺麗にした後、棚に置いてあった薬を引っ張り出す。お母さんが『これはどんな傷もすぐに治すのよ』と言ってよく塗ってくれたものだけれど、果たして傷全てにこれが効くのか分からない。しかし他に塗れるものはないし、何より傷口をこのままで放っておくことも出来ないので、この薬を使うことにした。
清潔な布にたっぷりと薬を染み込ませ、ごくりと唾を飲み込む。これはどんな傷も治してくれる優れた薬だけど、一つだけ問題があったのだ。めちゃめちゃしみる。それはもう、紙で切っただけの切り傷でも床を転げ回る程の痛さだ。それをこの傷口に塗るのは申し訳ない気がするが、ぐっと気合を入れ、薬を染み込ませた布を傷口に押し当てた。
「ぐっ! う、がぁ……っ!」
「ごめんなさい我慢してください!」
傷口にしみるのはほんの少しの間。それを過ぎればもう痛くない。暴れる彼の手が私の頬を掠める。指輪でもしていたのか、それが頬に傷を作ったが今はそれに構っている場合ではなかった。
「う、ぐぅっ…………ぁ」
何ヶ所か傷口に薬を塗り込むと、ようやくピークが過ぎたのだろう。彼は暴れるのをやめ、代わりにだらんと腕を放り投げる。私は頃合を見計らって包帯をぐるぐると巻いていくが、寝てる人間に包帯を巻くなどやったことがないのでとても苦労した。少し歪んでしまったがなんとか包帯を巻き終え、額に浮かんだ汗を拭った。
「これで大丈夫、よね」
しかし治療をしたのは素人の手によるもの。目が覚めたらお医者様に診てもらうように言わなければ。
私は大きく息を吐き出して、彼が着ていた服をどうするか考え込む。勝手に捨てていいものか、しかし手当てをするために破いてしまったので、とてもじゃないが着られない。縫えば少しまともになるかもしれないが、血で汚れているためにまずは洗濯をしないといけないだろう。
顎に手を当ててぶつぶつと呟く私の耳に、彼の寝息が聞こえてきた。先程までよりかは楽そうな呼吸に、ほっと胸を撫で下ろす。見ず知らずの人間を家に上げるなんてと思うが、怪我人を見て見ぬふりするなど私には出来なかった。だからこうして落ち着いているのを見ると酷く安心した。
「とりあえず洗濯かな」
彼が着ていた洋服を持ったまま、私は桶と洗濯板を取り出して血のついた洋服をゴシゴシと洗い始める。ある程度は落ちたものの、時間が経っていたためか綺麗には落としきれなくて。シミが残ってしまったが仕方がない。今は夜なので部屋の中に干し、そして彼の様子を窺った。
先程は性別が分かりにくかったが、今ならはっきりと男性だと分かる。お父さんと同じで、お父さんとは違う男性。少しその顔を観察した後、私はそっと彼に毛布を掛けて近くの椅子に腰を下ろした。少し肌寒いので別の毛布を引っ張り出してぐるぐると体に巻き付け、そのまま目を閉じたのだった。
日の光に意識がだんだんと浮上してくる。ゆっくりとまぶたを持ち上げて数度瞬きをし、昨夜何があったのかを思い出した。ベッドに眠る彼は静かに寝息を立てている。私は大きく伸びをし、掛けていた毛布を畳んで椅子の上に置いた。眠っている彼の様子を見ると、額にうっすらと汗が滲んでいる。傷のせいで少し熱が出てしまったのだろう。私は桶の水を汲んで清潔な布を固く絞り、その汗を拭ってやる。そして再度布を絞って額に乗せた。もしかしたら起きてしまうかもしれないと思ったがそんなことはなく。彼は眠りについたままだった。そこで自分の耳を思い出し、起きて耳を見られたら面倒なので三角巾で隠すことにした。耳が折れて違和感を感じるが仕方がない。
「まだ起きなさそう、ね」
自分の朝食の準備をしても良いのだが、なんだか食欲がわかなくて今朝は抜いてもいいか、と紅茶だけにすることにした。寝ている彼を気にしつつ、先日購入した茶葉と使い古されたポットを棚から取り出して紅茶を淹れた。カップにきれいな赤色が注がれる。鼻に抜けていく香りも素晴らしく、やはり購入してよかったと改めて思った。
「う……」
カップを傾ける私の耳に、小さな呻き声が聞こえてきた。慌ててカップを置き、彼が寝ているベッドへと近寄ってみる。先程まで目を閉じていた彼の瞳は薄く、そしてゆっくりと開かれ、きれいな翡翠色の瞳が現れた。思わず見入ってしまう。こんなにきれいな瞳を見たのは初めてだったからだ。そんな私に、ようやく意識がはっきりしたのか、彼が大きく目を見開いた。
「ここは……ぐっ!」
「お、起きてはダメです!」
上体を起こそうとした彼が痛みに顔を歪め、再びベッドへと沈む。痛そうに、そして辛そうに歪んだ顔が、私をキッと睨みつけた。
「お前は、誰だ」
「……私はティアナと申します」
息も絶え絶えの彼をひとまず落ち着かせようと名乗る。少し効果があったのか、深く刻まれた眉間のシワは薄くなり、彼は天井を見上げて息を吐き出した。
「俺は生きているのか」
「はい」
「そう、か」
絞り出すような声でそう呟いた彼が顔を背ける。生きていることに驚いているのか、それとも別の意味が含まれているのか。私は窺い知ることが出来なかった。
とりあえず目が覚めた彼に、私は昨夜何があったのかを説明することにした。ドアに寄りかかって倒れていたこと、応急処置をしたこと、そして血まみれの洋服(というかもはや布切れに近いもの)はまだ干してあること。そんな私の説明を彼は淡々と聞き、まるで他人事のように興味がなさそうだった。
「あくまで素人の手による応急処置なので、お医者様に診てもらった方がいいかと」
「いや、いい」
「だ、だめです! きちんと診てもらって下さい!」
このままでは傷口からばい菌が入ってしまうかもしれない。そんなことになったら命の危険だってあるというのに、彼は面倒くさそうな表情を浮かべていた。
「どうにかしてご家族と連絡を……」
「いい」
「いいって……」
どうしたものかと困惑してしまう。彼は先程と同じように顔を背けてしまった。これ以上聞いてくれるな、という雰囲気が漂っている気がする。
「……分かりました。とりあえずお医者様を呼んできますので、ここで待っていてください!」
「だから別にいいと……」
「そういうわけにはいきません!」
万が一ここで死んでしまったら後味が悪いというもの。私は村に出かけるときに羽織っているマントを着用する。本当は嫌だけど。嫌だけど、これも自分に課せられた試験だと思うことにしてフードを被った。
「ここで大人しくしていてくださいね。くれぐれも動かないように」
「あ、あぁ」
私の異様な格好に驚いたのか、目を丸くした彼が小さく頷く。痛みや熱で動けないと思うが、念を押しておけばよっぽどのことがない限り動くことはないだろう。私は静かになった彼を見やり、ドアノブを回して村へと出掛けたのだった。
「あとはよく寝て食事もきちんととること。そうすれば直に治る」
村で唯一のお医者様であるビル先生が、私が巻いた不格好な包帯を巻き直してくれた。幸いにも命の危険に繋がるような怪我はなく、足も打撲のみだったので数日寝ていればよくなるとのことだった。
「薬はないのか」
「この村には王都のような薬はないんだよ。しかしティアナの応急処置のおかげでこれ以上酷くなることはないだろう」
「よ、よかった」
先生の柔らかい笑みに胸を撫で下ろす。先生とは初めて話したのだが、とても気さくでいい先生だと実感した。人間との距離をとっていた私だったが、そこまで気にしなくてもいいのかもしれないと考える。耳を完璧に隠していれば、もしかしたら。
「一日一回、きれいな包帯を巻き直した方がいいのだが……ティアナ、替えの包帯は持っているかね?」
「あ、それが手持ちはもうなくてですね……」
包帯自体あまり使うことがなかったため、彼に巻いたものが唯一のものだった。それに包帯を買うには当たり前だがお金がかかる。ギリギリな生活をしているような私に、包帯を買うお金の余裕などなかった。
「ふむ、それなら何か代わりの布でも……」
「買えばいいだろ」
「え?」
突然の彼の言葉に、ビル先生と私が視線を動かす。彼はそんな私達に驚いたのか、少しだけ目を見開いていた。
「なんだよ」
「いえ、あの、なんでもないです」
「チッ……おいティアナ。俺が持っていた袋知らないか」
「袋?……あ! あります!」
昨日彼の服を切った時に腰に付いていた布でできた袋。何やらとても重いと思っていたが、人様のものを勝手に見ることは出来ないのでテーブルに置いていたのだった。私は彼が言う袋を手に取って彼へと渡した。
「いくらで包帯が買えるのか知らんが、これぐらいで足りるか?」
そう言って彼が袋から適当に引っ掴んで取り出したのは金貨だった。村で主に流通しているのは銅貨。銀貨でさえなかなかお目にかかることがないというのに、彼はさも当然そうに金貨を取り出したのだ。
「あ? これじゃ足りないのか?」
「いやいやいや、足りないどころかめちゃくちゃ余ります!」
「ならこれで買えるだけの包帯を買ってきてくれ」
ほら、と放り投げられた金貨を慌てて受け取る。初めて見た金貨の重みに吐きそうにさえなった。
(これで買えるだけの包帯って……使い切る前に全快するんじゃ……)
そもそも村中の包帯を集めたところでこの金貨には到底及ばないだろう。とりあえずおつりはどうしたらいいのか、先生が帰った後にでも相談してみよう。
「医者。お前は何枚あればいい?」
「つ、釣りがない!」
「釣り? 1枚で釣りが出んのかよ。じゃあ、ほら。これを取っておけ。釣りはもちろんいらねぇ」
同じように彼は金貨を放り投げる。落とさないようにと受け取った先生は、大事そうにそれを鞄にしまったのだった。
金貨があればしばらくは暮らしていける。それだけの価値があるものを彼はあの袋に無造作にしまってある。どのような暮らしをすれば金貨があんなに……まさか悪いことをして手に入れたお金なのでは。そう考えた私は、ちらりと彼を盗み見る。その視線に気づいた彼が訝し気に私を見て『なんだ』と口パクをした。
「い、いえ、なんでも。そういえば貴方のお名前を伺っていませんでした」
あまりの衝撃の連続に、彼の名前を尋ねるのを忘れていた。それには先生も驚いたようで、目を丸くして彼と私を交互に見ていた。
「そういえば名乗ってなかったな。俺の名は……ルークだ」
一瞬言葉を詰まらせたのが引っかかるが、ようやく名前を知れたのでそれ以上追及することはせず、私は先生に頭を下げた。
「先生、今日はありがとうございました」
「いやいや。ルーク、くれぐれも安静にな。痛みは少し長引くかもしれんが、熱はすぐに下がるだろうから」
「あぁ、分かった」
「あ、先生、ちょっと待ってください」
帰り支度をする先生を呼び止め、キッチンに引っ込んだ私は昨夜作っておいたアップルパイを切ってバスケットに入れる。
「これ、アップルパイなんですけど、余らせるのも勿体ないのでよければ召し上がってください」
「おや、ありがたくいただくとするかな」
先生はにっこりと微笑んでバスケットを受け取り、再度ルークに『安静にな』と念を押して家を出て行った。
「おい、ティアナ」
先生が出て行った後、ルークに呼び掛けられた私が振り向くと、彼は言われたそばから上体を起こしていた。
「え、ちょっと! 安静にしてと言われたばかりじゃないですか!」
「これぐらい別に平気だ。それよりも話がある」
至極真剣なその表情に、何を言われるのか検討もつかない私は首を捻る。もしかして金貨の話だろうか。それならば助かる。自分から話を振るよりもルークから振ってくれた方が色々と聞きやすい……。
「しばらくここに俺を置け」
「はい?」
予想していた言葉とはだいぶ違うそれに、理解するまで若干の時間を要した。
「え、あの、今なんて……?」
「俺をここに置けと言ったんだが、理解できないか?」
「いえ、あの、言葉は分かるんですけど、言葉の意味がちょっと」
「何も難しいことは言っていない。まぁ、なんだ。よろしくな」
「勝手に決めないでください!」
名前しか知らない男性、それも人間をここに置くだなんてそんなの出来るわけがない。昨日は怪我をして意識も朦朧としていたから大丈夫だろうということで泊まってもらっただけであって。私が獣人だとバレても平気だという保証はどこにもないのだ。
「怪我人を放り出すというのか」
「うっ、それはそうなんですけど……」
「あぁ、なるほど、心配するな」
「え?」
「お前は俺の趣味ではない」
一瞬、何のことか分からなかった。しかしその意味を理解した瞬間、私は顔に熱が集まったのを感じた。
「な、な、な……っ!」
「お前は多少、いやかなり平べったいからな。もう少し凹凸のある女がいい」
「……っ!」
思わず彼の頬を叩こうと手を振り上げた時だった。指が三角巾に引っ掛かり、そのまま頭からすっぽりと抜けてしまった。宙を舞った三角巾がパサリと床に落ちる。ルークの視線が三角巾を、そして次は私の耳を捉えた。
「お前、獣人だったのか」
にやりと、ルークが口角を上げる。私は事の重大さに気付き、ピコピコと動く耳を両手で隠したが後の祭り。彼はさも楽しそうに私の耳を見つめていた。
「どうりでおかしいと思っていたんだよ。掃除をしてるわけでもないのに三角巾を被っているし、村に医者を呼びに行くのもマントを羽織ってフードも被っていた。極度の恥ずかしがり屋かとも思ったが、そんな感じもしない」
まるでおもちゃを見つけた子供のようにルークは笑っている。このままだと村中にバレる、そう思った私はぎゅっと固く目を瞑った。
「おい、ティアナ。村の人間にバラされたくなかったら大人しく俺をここに置け」
「……え?」
予想外の言葉に、私はルークを見つめる。それを不思議そうに見つめ返すルークが首を捻った。
「あ? なんだよ」
「いえ、あの、売られるって思った、から」
「は?」
獣人族だとバレたら売られる。そう教え込まれていた私は、ルークの言葉が未だに信じられずにいた。
「獣人族、と言っても私はハーフなんですけど、子供の頃から両親にそう教えられてきたので……」
「……確かに、そんな話を聞いたことがある」
急に真面目な表情になったルークに、私は思考が追い付かなかった。目の前の彼は人間で、獣人族を奴隷にすると教わっていたのに、そんな真面目な顔をされるとそんなことないのではないかとさえ思ってしまう。
「獣人は売れる、から。だから人間はすぐに私達を奴隷として売っちゃうって」
「生憎俺は金には困らないんでな」
先程とは違って、ルークが少し柔らかく微笑んだ、ような気がした。
「まぁ、俺はお前を売ることはないにしろ、村の奴らはどうだろうな」
しかしすぐに先程のような笑みに代わって、にっこりと意地悪な笑みを浮かべたのだった。
「しばらく置いてくれるよな?」
「…………はい」
有無を言わせぬその口調に、私は大人しく従うしかなかったのだった。
そしてこの日から、ルークと私の同居生活が始まったのである。
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