私と小説家と読者と
時津彼方
本編
―――ねぇ、よんでくれた? わたしのマンガ
―――うん。めっちゃおもしろかった。え、じょうずだね
こんな会話が、このノートから聞こえてきそうだ。
私は黒く汚れたそれを閉じ、貼られたシールが剥げてきた引き出しの中に閉まった。息を大きく吐いて、万年筆にインクを補充する。行き詰った時には、いつもあのノートが私を救ってくれる。
今日から文化祭パンフレット用の、読み切り作品のペン入れが始まる。
私がその仕事を引き受けたのは、今から二週間前。教室の隅で椅子を机に乗せようとした時、うっかり机の中にある、プライベートの作品を書いているノートを床に落としてしまった。
その時、隣の席の
―――ノート……『MG』? 何のノート?
―――あ、えっと……マンガだよ。みんなには内緒で、お願い……。
―――わかった。あ、じゃあさ、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど。
その時に持ちかけられたのが、文化祭のパンフレットに、小坂くんが書いた小説をマンガ化して載せるという、仕事だった。文化祭実行委員会の広告統括をしていた小坂くんは、文化祭の情報以外にも、読みごたえがあるパンフレットを作りたかったらしく、それもマンガの方が読みやすいだろう、とのこと。
暇だったからあっさり承諾したものの、クラスの中で全く目立たない私が、こんな大役を任されていいのだろうか。
ふと、隣を見ると、スマートフォンの画面が光った。開くと小坂くんからメッセージが届いていた。
『夜中にごめん』
『進行度が知りたくて』
私は、二週間たって、まだ下書きまでしかできていないことを伝えた。
『別に謝ることはないよ』
『締め切りはまだまだ先だし』
ありがとう、と牛が手を振るスタンプを見て、私はため息をついた。
私は小鳥がお辞儀をするスタンプを送った。
インクのない紙と、乾ききった万年筆を尻目に、私はデスクの電気を消した。
*****
事件が起こったのは、翌日の放課後だった。
「ねぇ、これ何?」
「このマンガ、全然面白くないんだけど」
小坂くんの作品の、私が描いたラフのページを、彼女は隣にいる別の女子生徒に見せていた。私が清書をする前に描いていた、下書き段階のマンガだ。
「そうだねー。特にここ。この女の子の目、キラキラしすぎじゃない?」
「……」
唇を噛む。
「あと、ここの植木。小学生でも描けるよ」
「やめて……」
裾を握る私の声は、私のほんの手前で転がってしまった。私は涙を流すしかなかった。わかっていた。私が良く思われていないのは。出しゃばったら杭は打たれるけど、全く出ない杭は引っこ抜かれて、さらしものにされる。
それに、私の力不足のせいで、小坂くんの作品が酷評されて……。
「それにこのセリフ。気持ち悪すぎて話が入って……」
「どうしたの?」
私が懸命に目を擦り、前を向くと、取り巻きの女子生徒の隙間から、小坂くんの顔が見えた。
「あ、小坂じゃん。見てよこれ。浜名さんが描いたマンガなんだけど」
小坂くんはノートを受け取り、中身を見ることなくそれを閉じた。
「これ、俺が浜名さんに頼んだ作品なんだけど」
明らかに教室が揺れた。
「え、小坂が……?」
「浜名さん。ちょっと来てくれない? カバン持って」
私は震える手でカバンをつかみ、颯爽と教室を去る小坂くんの背中を追いかけた。カバンに付けた鈴の音が、今は心を焦燥させるだけだった。
***
「あの、ごめん。私のせいで、小坂くんが、悪く言われちゃって」
私が呼びかける言葉は彼に届かず、すれ違っていく人々を怪訝そうな顔にするばかりだった。
「本当にごめん。絵、へたくそで」
「着いたよ。中に入って」
「え?」
私は戸惑いながらも、促されるままに教室に入った。
「ここは空き教室で、うちの部署が使わせてもらってるんだ。他の人はほとんど広告の許可取りで出払ってる」
そう話す彼の顔は見えない。
後ろで気配を感じ、振り向くと、長髪の背の高い男の人がいた。少し怖い。
「お、小坂じゃん。その子は?」
「ああ、浜名さんだよ。言ってた……」
「って、お前」
私は小坂くんの方を振り向く。
彼の顔には、一筋の光るものがあった。
「いや、これは……」
「とりあえず、座ろうか。皆」
私は促されるままに、椅子に座った。小坂くんは廊下に顔を洗いに行ったようだ。
「俺は
庄木くんは髪を後ろで結んだ。私の髪と同じぐらいじゃないかとさえ思ってしまう。話を聞く限り、彼は小坂くんの補佐をしていて、私にマンガを任せているのは庄木くんにだけ知らせているらしい。彼はパンフレットの編集担当であるため、いずれ知るだろうから、とのこと。
「お、小坂。もう大丈夫か?」
「ああ、ごめん。で、改めて。この人が浜名さん」
「もう互いの自己紹介は済んだよ。で、今日は何だったんだ。お前が泣いているところ初めて見たし」
「あのっ」
私は懸命に弁明しようとした。でも言葉が出ず、ただ注目を集めただけだった。
「大丈夫。なんとなく俺にはわかった。でもそれ、まだ下書きだろ? だとしたらそんなに思い悩むこともないんじゃないか」
「いや、俺の力不足だ。文章を、人に読ませる文章を書けていない」
「なるほどな。そっちの涙はそれが原因か。どーせ照美の辺りに色々言われたんだろ?」
「図星。本当に庄木には敵わないな」
庄木くんは得意げに鼻を鳴らしたのと同時に、放送で彼の名前が呼ばれた。
「あ、すまん。ちょっと席外す。カギ閉めといたほうがいいか?」
「あ、ああ。念のため頼む。入るときはノックしてくれ」
彼が出て行って、小坂くんと二人きりになった。
「俺がつまらない作品を書いたから、あんな酷評されちゃって、ごめん」
小坂くんは頭を下げた。
「え、いや。私のせいであんなことになっちゃって」
私も彼以上に頭を下げた。
そのまま、少し沈黙が続いた。
「あのさ、ちょっとだけ文章変えていい?」
「うん。まだ吹き出しの中は書いてないから」
「よかった。じゃあさっそく今から書き始める」
「私もここで描いていい?」
「いいよ。最終下校まで、多分誰も来ないから」
彼は大きく息を吐いて、タイピングを始めた。
率直な感想は、速い、だ。彼は書き始めたら止まらないタイプなのだと思った。
「私もやらなきゃ」
私は万年筆を持った。
でも、持っただけだった。
やっぱり、描けない。
*****
翌日、私は寝込んでしまった。体がだるく、熱はないけど体が熱い。
学校も休んでしまった。昨日の放課後の一件が
カバンの中の、バイブの音が聞こえた。私は何とかそれを取り出した。
そこには、一つのリンクが貼られていた。それを開くと、そこには一つの散文詩が載っていた。
『私が両手を広げても
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のように
地べたを早くは走れない
私が体をゆすっても
きれいな音は出ないけれど
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな歌は知らないよ
鈴と小鳥と それから私
みんな違って みんないい』
『一読者のあの子たちの意見も、決して無視できないものだけど、作者にしかわからないものもある。全部を受け入れる必要はないし、自分が納得できるところだけ受け入れたらいいから。そんなに気負いせずに、がんばってほしい。もし無理だったら、断ってくれてもいいから』
私は、最後の文章を見て、枕を濡らした。
体の熱さが高揚に変わり、だるい体を無理やり持ち上げた。
呼吸を整えて起き上がり、万年筆を紙に押し当てた。
『君の絵は、とても好きだ』
*****
私が次に登校したのは、文化祭の一週間前だった。かれこれ三週間も休んでしまったものの、授業の板書は数人の優しいクラスメイトが送ってくれた。あれから照美たちは謹慎処分になり、偶然にも私が登校した日が、彼女たちの謹慎解除日だった。でも、教室に入ると、その日の主役は彼女たちではなかった。
男女問わず囲まれて少し戸惑ったけど、優しさに囲まれて悪い思いはしなかった。
「おはよう。浜名さん」
小坂くんは、得意気に、完成した文化祭パンフレットの表紙を見せてきた。
そこには私が休んでいる間に頼まれた、新しい仕事の成果が載っていた。
「おはよう。小坂くん」
私はそれを受け取り、精一杯笑った。
流れる涙を抑えられなかったけど、私は気にしなかった。
私が両手を広げたら、こんなに自由な空が広がってました。
私と小説家と読者と 時津彼方 @g2-kurupan
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