51.共振
目の前に立ちはだかる高く険しい壁。一度は登りかけたものの、登りきれそうだと安堵してしまったことが油断につながり、手を滑らせて谷底へ落ちてしまった。でも俺たちはめげずに再び登り始めた。一歩ずつ、一歩ずつ。しかし壁の方も簡単には登らせないぞというようにその様相を変えてきて、険しい道が更に険しくなった。俺たちは必死に耐えながら登り続けた。腕も、足も、背筋も、腹筋も、全ての力を使って登り続けた。それでも一度目より険しくなった壁に消耗は早く、手をかけた岩肌を掴みきれずにまた谷底へ――
「瞬!」
ハッと気づくと誰かに腕を掴まれていた。太一だった。横を見ると両脇から南と堂上に服を掴まれていた。下では山之辺と川口が腰と足を支えてくれていた。みんなに支えられ、俺は再度谷底へ落ちずに済んでいた。
「みんな……」
なぜみんながここにいるのか、考えなくても目の前の光景が全てだった。みんなも一緒に登っていたんだ。一緒に戦っていたんだ。
「ありがとう」
俺は壁に手を戻してからそう言った。みんなは頷き、また一緒に壁を登り始めた。
「5―6、白鷹リード」
『よーしっ!』
ポイントを取った瞬間、ハルも、バックのみんなも、監督も、もちろん俺も、全員が声を揃えて歓喜を爆発させた。まだセットを奪取したわけじゃないけど、でもそれに匹敵するくらい価値のある1ポイントだ。
「瞬! ナイスリターンだよ!」
「ハルこそナイスボレーだよ!」
迎えた相手のマッチポイントでの熊谷サーブ。必ず返すと意気込んで臨んだリターン。熊谷はまたもやワイドギリギリに高速サーブを放ってきたけど、俺の体は不思議とボールへ向かっていた。ブロックするようにラケットをボールに合わせただけだったけど、熊谷のサーブが速かった分パワーはいらなかった。コースのコントロールだけしたリターンは熊谷のサーブスピードをそのままはね返し、対角いっぱいのところに決まった。いくら熊谷といえ自分と同じサーブスピードで差し込まれたリターンをクロスに引っ張ることはできず、ストレートへ流してきた打球をハルがボレーで二人の間を切り裂いた。
このポイントで勢いに乗った俺たちは続く俺のサーブを二本キープし、次の新サーブでミニブレークすることに成功した。そして――
「ゲームアンドセット吹野崎――」
俺とハルは互いに手を取り合って喜びを爆発させた。それからベンチへ戻ると監督が手を掲げて待っていてくれた。
「ナイスプレーだ!」
俺たちは頷き、監督の手を思いっきり叩いた。
「瞬! ハル! よくやったぞ!」
バックの声援にも手を挙げて応える。みんなの応援がなかったら今のセットはきっと取れなかった。本当に一番の心の支えになった。
『テニスは決して試合に出ている一人や二人がやるものじゃない。いつでも団体戦なんだ』
いつだったか不動先輩がそう言っていたけど、その意味がやっと分かった気がした。コートの中も外も関係ない。俺たちはいつでも一緒に戦っているんだ。
「ファイナルセット。ようやくまたここまで来た。ここまで来たらあとは気持ちでねじ伏せるだけだ!」
「うん!」
しかし――
「ゲーム白鷹。ゲームスカウント1―0」
俺たちの気持ちをへし折らんとするように熊谷が一瞬でゲームをかっさらっていった。ファイナルセットに来てもこの速さ。もはや個人戦の時のような体力戦は望めないな。
「俺たちも負けずに――」
次のハルのサービスゲームの作戦を考えようとした時、ハルが手に持っていた二球を俺に差し出してきた。
「瞬、ファイナルセットはお前からいけよ」
「えっ?」
「悔しいけど、この2セットで、いや、個人戦も含めて、お前は俺より強くなったと証明した。だから俺はお前からサーブを打つべきだと思う」
セットが変わってからならサーブの順番を変えてもいいことになっている。でも、本当に俺からでいいのか?
ハルは俺がハルよりも強くなったと言った。でも俺は全くそんなこと思ってもいなかった。むしろまだまだその背中は遠くにあるものだと思っていた。
ハルがテニスをしている姿を初めて見た時のことは今でも覚えている。俺と同じような背丈の子があんなに速いボールを打てるんだと驚いた。高校に入ったら同じ学校に進んでいたことが分かって、ひょんなことから仲よくなって、熱心に誘われて同じ部活に入って、それからハルがテニスをする姿をいっぱい見てきたけど、その度に遠い遠い存在だってことを痛感した。とにかく俺は追いかけるのに必死だった。無我夢中だった。
「任せたぞ!」
ハルはニコッと笑い、俺の手に二球を握らせた。それから俺の肩を叩いて前衛の守備に向かっていった。
俺は自分でも知らないうちに、あんなにも焦がれていたハルと同じところまで来ていたのだろうか。ハルはそう言ってくれたけど実感なんて全然ない。でもハルの気持ちには全力で応えたい。ハルのためなら俺はいつでも、なんだってできる気がするんだ。
俺はハルから受け取ったボールを握り締めてベースラインへ向かった。深呼吸をして、地面にボールを三回ついてから顔を上げた。前衛でラケットを構えているハルの背中が目に入った。いつもなら遠くに感じるその背中が今日はすごく近くに感じた。とても心強くて、安心してサーブを打つことができた。
「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント1―1」
「よっしゃ!」
ハルの期待に応えられたかどうかは分からないけど、俺は力の限り叫んだ。
続く新のサービスゲームも、ハルのサービスゲームも、二人ともすごい気迫でポイントを重ねていきサーブ権が一巡した。
「ゲーム白鷹。ゲームスカウント3―2」
「よぉし!」
熊谷もその闘志をむき出しにして立ち向かってくる。普段寡黙な熊谷からは想像もできない姿だ。でも、俺だって!
「15―0」
「ナイッサー!」
「いいぞ! 瞬!」
ハルと、みんなと一緒なら負ける気がしない。ファイナルセットなのに体は軽いし、疲れも全然感じない。今ならどんなにすごいショットでも打てそうな気分だ。
深呼吸をしてからボールを地面に三回つく。それから狙うコースを確認し、トスを上げた。
ボールがガットに食いつくいい感触。よし! センターのギリギリに入った。ハル!
任せろ!
「30―0」
よっしゃ! って、あれ? 今言葉にしていないのにハルと会話をしたような……
ポイントを決めたハルが俺の方を振り向いてニコッと笑った。その笑顔を見たらそんなことどうでもいいやと思えてきた。俺は気にせず次のサーブを打った。
ねぇ、ハル。
どうした、瞬?
アイツら強いね。
あぁ、強いな。
「30―15」
最初は全然歯が立たなかったのに、今日はいい試合だね。
そうだな。
でもいい試合で終わらせたくない。勝ちたいよ。
俺もそうだ。
「30―30」
みんなも応援してくれている。
すげぇ心強いよな。
うん。衝突した時もあったけど、俺、このチームが大好きだ。
俺もだ。
「40―30」
他にもこれまでいろいろあったよね。
あぁ、いろいろあった。
ハル。
なに?
……ううん、なんでもない。この試合、絶対勝とうね!
おう!
「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント3―3」
『よっしゃ!』
続く新サーブ、ハルサーブはともに疲れが見えてきたけど、お互いすんでのところで持ちこたえてキープした。その時の集中力ときたら新もハルも目を見張るものだった。執念が違った。もちろん俺も前衛として甘い球はしっかりとポイントにつなげた。相棒が窮地の時に支えてこそのペアだからな。
「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント4―4」
そして本日九度目の熊谷サーブを迎えた。
「熊谷のサービスゲーム、個人戦から数えたら何回目だ?」
「前は八回やって今日はこれまで八回あったから、次で十七回目だね」
「かー、そんなに受けてたのか」
ハルが驚くのも無理はない。俺も自分で数えていてそんなに受けていたのかと思ったくらいだ。
「それでまだ一度のブレークも許していないとか、アイツどんだけバケモノなんだよ。でもいい加減ブレークしないとな。十七回も受けて一度もブレークできないなんて、吹野崎エースペアの名が廃るってもんだぜ」
「そうだね」
俺たちは相手コートの方へ目をやった。二人も俺たちを見ていた。試合も大詰めの局面。お互い次が勝負どころだと察していた。
『絶対ブレーク(キープ)してやる!』
四人同時に言葉を発すると互いのペアとタッチを交わし、それぞれの位置についた。
もしこのゲームをキープされたら熊谷たちは間違いなく次のゲームを全力で攻めてくる。最後にブレークすればそれでゲームセットだからな。俺たちにとっては最悪の状況だ。逆に俺たちがこのゲームをブレークすれば一気に勝利を手繰り寄せることができる。文字通りこのゲームがクライマックスだ。この試合の、いや、俺たちが戦ってきたこれまで全ての試合のだ。
熊谷はその巨体を目いっぱい使って大きく深呼吸をしてからボールを地面につき始めた。未だに衰えることを知らないパワーとスピード。今日の熊谷に体力戦は期待できない。となれば、俺たちはこのサーブを返していくしかない。でも大丈夫だ。俺たちならできる。やってやる!
熊谷はボールをつき終わると俺を一瞥し、ゆっくりとトスを上げた。
「アッ!」
ゆったりとした優美なフォームから鋭くラケットが振り下ろされる。打球はセンターT字の交点上に決まり、俺が伸ばしたラケットのわずか先を嘲笑うかのように通過していった。
「15―0」
「よしっ!」
終盤に来てこのサーブかよ。悔しいけど、あれが入ってきたらさすがに触ることすらままならない。敵ながらあっぱれだ。
今日の熊谷は個人戦と違って尻上がりに調子を上げてきている。今がピークと言っても過言じゃない。
2ポイント目は幸いにもファーストサーブがフォルトになった。セカンドをハルが回り込んで叩くとコーナーいっぱいに決まり、熊谷もかろうじて反応はしたもののショットはネットに阻まれた。
「15―15」
いくら熊谷といえどファーストが全部決まってくるわけじゃない。セカンドになれば逆に俺たちにだって攻めるチャンスはある。でも高確率で決まってくるファーストを返さないと俺たちに勝機はない。その事実は変わらない。
ふー、と深く息を吐いてからリターンに立つ。大丈夫だ。今日の俺は見えている。自信を持ってラケットを振れ。
見上げるくらい高い打点から再び高速サーブが放たれた。さっきとは逆方向のワイドに、しかも外へ切れていくスライスサーブ。俺は体を投げ出し、限界まで腕を伸ばしてラケットを振った。届けぇ!
ラケットの先端にボールが当たった鈍い衝撃が腕を伝った。打球は――ストレート方向へ飛んでいったけど新はアウトになると思ったのか出していたラケットを引っ込めた。主審の判定は――
「15―30」
インのポーズ! 俺がコートの外側から打ったボールがサイドラインの外側ギリギリをかすったんだ。ラッキーとしかいいようがない。
熊谷のファーストをポイントにできた今のリターンは大きいぞ。これで少しはアイツにプレッシャーを――
「30―30」
そうだった。アイツにはプレッシャーなんて効かなかったんだ。むしろアイツの闘志に火をつける種になる。
「熊谷のヤロウ、ホント最後まで崩れなくなったな。これじゃただの強いヤツじゃねぇか……って、なに弱気になっているんだ、俺は」
ハルは己を戒めるように自分の頬を一発叩いた。
「次、先行しよう」
「うん。絶対返すよ!」
「任せた!」
1セットオールのゲームスカウント4―4、30―30。次のポイントがどれだけ大事か、俺もハルも言葉にせずとも分かっている。100ポイント以上あるうちの一本。たかが一本かもしれないけど、喉から手が出るほど欲しい一本だ。
熊谷がボールをつき始め、それと同時に俺も呼吸を整え体の力を抜いていく。そして熊谷がトスを上げるのと同時にスプリットステップを踏み、サーブの瞬間にステップインしてボールに飛びついた。熊谷のサーブはさっきよりも更にワイドの際どいコースに入ってきた。俺は再度手を伸ばすも今度は触るだけで精いっぱいで、弱々しく返ったリターンは前衛の新に決められてしまった。
「40―30」
くそっ! ここであのコースに決めてくるのか。憎たらしいくらいさすがとしか言えない。
「ゴメン、ハル。絶対先行したかったポイントだったのに」
「気にすんな。あれは俺でも取れねぇよ」
先にゲームポイントを握られてしまった。熊谷の勢いに呼応するように白鷹バックも盛り上がりを見せる。
「次、絶対返すから。このゲーム、死んでもブレークするぞ!」
ハルの目は本気だ。とても真っすぐな目をしている。俺はその目を見た瞬間、ハルなら絶対に返してくれると確信した。なら俺にできることはハルを信じて前だけを見る、それだけだ。
「うん。任せた!」
俺たちはタッチを交わして守備についた。
後ろは振り返るな。前だけを見ろ。チャンスは絶対に逃すな。
熊谷のサーブが放たれる。ボールは一度視界から消え、しっかりとまた戻ってきた。でも新が待っていたというようにポーチに出てきた。さぁ、どっちに打ってくる? 右か? 左か? ――ドロップ! 新のヤツ、打つ瞬間にラケットの面の向きを変えやがったのか。ボレーを叩き込まれると思って身構えていた俺は重心が後ろに下がりきっていて足が前に出なかった。
ほんの2メートル先でスローモーションに落ちていくボール。こんなにも目の前にあるっていうのに足が出ないなんて。
ボールは1バウンドし、2バウンド目も迎えようとしている。くそっ、動け俺の足! 動けぇぇ!
「オッケー!」
そう言って視界の端からハルが現れると、2バウンド目スレスレのところでボールを返した。しかし相手も即座に反応し、サイドをチェンジして熊谷がボールを拾った。
「瞬!」
本当にナイスだよ、ハル。お陰で俺の方は準備万端だ。ハルがつないでくれたこのボールは絶対無駄にしない。
熊谷のストロークがクロス側の俺に放たれ、俺は丁寧かつ攻撃的に熊谷へ返す。熊谷とのストローク・ボレー対決もこれでもう何度目だろう。決めて、決められ、幾度となく繰り広げた戦いもあと数回できるかどうか。……なんだろう。並行陣はこのストロークを攻略するために考え出した戦法なのに、いつの間にか俺たちの武器になっていることが不思議でしょうがない。それにあと少ししかアイツのストロークを受けられないって考えると少し寂しいな。って、憂いている場合じゃないか。ハルがつないでくれたこのボールだけは絶対に俺たちのポイントにするんだ!
「デュース」
よし! よしよしよし! 熊谷の執念もすごかったけど、なんとか粘り勝つことができた。
「瞬! 今のはよく粘り勝った!」
「ハルこそあそこで拾ってくれなかったら……本当にナイスキャッチだったよ!」
「新のヤツがなにかしら仕掛けてくるだろうって思ってたからな」
テニスになるとホントに冷静で勘が鋭いんだから。
「さぁ、追いついたぞ」
「うん」
再び熊谷たちと目が合った。アイツら、笑ってやがる。
「次は追い越すぞ!」
「うん!」
俺は思いきりハルの手を叩いてリターンの位置へ向かった。
「瞬! お前なら返せるぞ!」
「絶対ブレークするぞ!」
「自信持っていけ!」
後ろからもみんなの声がハッキリと聞こえる。心強い。
――ここだ。勝つためにはここで俺が先行しないと始まらない。根性見せろ! 魂を燃やせ! 桜庭瞬!
熊谷が自分のペースでボールを地面にゆっくりと七回つき終わる。体はフラットに保ちながら、トスが上がると同時に俺は縫い目が見えるほどにボールに目を凝らした。フォア側に来たらどう動くだとか、バック側に来たらどこへ打ち返すだとか、そういった考えは頭になかった。脊髄反射のごとく思考を伴わない反応。熊谷のサーブに慣れてしまったのか、嫌でも体が勝手に動いていた。それもそうだ。もう何十球と受けているんだ。慣れないわけがない。
それでもボールの重さに押される。衰えぬパワーにラケットが弾き飛ばされそうになる。なんとか返ったリターンも次の瞬間には強烈なストロークとして返ってくる。これも重い。
このストロークもこれまで幾度となく受けてきた。その度に耐えて、返して、決められて、終始押されっぱなしだった。でも、それももうここで終わらせる。
押されていたラリーも徐々に押し返していき、遂には五分にまで戻した。そこから攻めに転じるため、俺から力いっぱいのショットを放った。
「アッ!」
打球はうねりを上げながらコーナーいっぱいに決まった。それでも熊谷は押し返してくるけど、徐々に徐々にその返球は浅くなっていく。そして十何球目かのラリーで俺は一度センターを狙って熊谷をコートの真ん中におびき寄せ、次のショットをワイドギリギリへ叩き込んだ。打球はサービスラインの延長線上にあるサイドラインに決まると、熊谷が伸ばしたラケットの先を通り過ぎていき後ろのフェンスへ激突した。
「アドバンテージ・レシーバー」
遂に、遂に打ち勝った熊谷とのストローク勝負。そして再度迎えたブレークチャンス。
「瞬、お前ってヤツは本当に……必ずブレークしよう!」
「うん!」
パンッ! とコート上に俺たちのタッチした音が響いた。言葉を交わさずとも俺たちにはこれで十分だ。タッチを交わした時のハルの手がいつも以上に力強かった。気合いが入っている証拠だ。
「ブレークポイントー!」
「いけー! 瞬! ハル! 吹野崎ぃー!」
『白鷹! 白鷹!』
両校の応援が渦巻く中、熊谷は泰然としていつも通りボールを地面につき始める。1、2、3、4、5、6、7。辺りは静まり返り、コート上に緊張が走る。
熊谷が渾身の力を込めてサーブを放ち、ハルがリターンを返す。新は今度は動かず、ストレートを閉めている。再び熊谷が打ち、ハルが返す。ザザーッとハルが前に出てくる音が聞こえた。三度熊谷が打ち、ハルがボレーで返す。ファーストボレーはしっかりと深くに決まった。熊谷はすかさずハルの足元へ沈めてくる。でもハルは一歩前へ踏み出し、また深くにつなげる。熊谷は再びハルの足元へ沈めてくるが、ハルは更にもう一歩踏み出し三度深く返す。それに熊谷はたまらずロブを上げた。打球は少し深い。でもこれなら射程範囲内だ。俺はバックステップを刻み落下地点へ素早く入った。
「いけぇー!」
「決めろぉー!」
雲一つない青空に浮かぶ黄色い球体。頂点まで行くと重力に従い落下を始め、徐々に近づいてくる。あの時と同じ光景。あの時は決め損ねたけど、今度は決める。
落ちてくるボールめがけて俺はラケットを振り下ろした。
目の前に立ちはだかる高く険しい壁。一度は落とされたその壁を今度は仲間たちとともに登っている。手を替え足を替え、一歩ずつ、一歩ずつ。でも、それももう頂上が近い。
「瞬、あと少しだ」
「うん」
頂上からは壁の向こう側から照らされている光が微かに漏れている。俺たちがずっと追い求めてきた光だ。でも今度は焦らない。一歩ずつ、着実に、目の前の歩みを進めていく。
「瞬、ハル、行ってこい」
最後の力を振り絞るように太一たちが俺たちの背中を押してくれた。みんなに押し上げられながら俺たちは頂上に手をかけ、壁の上に立った。
俺たちは遂に壁を登りきった。
俺が打ち下ろしたスマッシュは熊谷と新の間に決まると後ろのフェンスへ激突した。
「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント5―4」
吹野崎バックから大歓声が上がった。俺はハルとハイタッチを交わしてからみんなの歓声に手を挙げて応えた。
ベンチへ戻ると監督が手を掲げて待っていてくれた。
「よく……よくブレークしたぞ! 桜庭、瀬尾!」
『はい!』
俺たちは監督の言葉に元気よく答えると、その手をこれでもかっていうくらい強く叩いた。パンッ! といい音が鳴った。
「やっとここまで来たな、瞬」
「うん。でも最後まで油断はできないよ」
白鷹ベンチの方へ目をやると、熊谷と新が監督と真剣に話をしていた。その目はまだ死んじゃいない。
「そうだな。しっかり次のゲームを取りきって試合を終わらそう」
「うん」
それから水分補給をして、汗を拭きとってからベンチを立った。
「瞬」
ハルに声をかけられ振り向くと、ボールを二つ差し出されていた。
「サービング・フォー・ザ・マッチだ!」
俺は頷き、ハルからボールを受け取った。
「タイム」
『よしっ!』
主審のコールとともに気合いを入れてからコートへ入った。それは熊谷たちも同じだった。
ベースラインへ向かうと変わらずみんなの声が聞こえてくる。
「瞬! 最後かっこよく決めちまえ!」
「あと1ゲーム集中だよ!」
つらい時も苦しい時も、どんな時だって一緒に乗り越えてきた仲間たち。今も、これまでだって、こんなにも俺たちのために声を張り上げてエールを送ってくれている。俺はいつもみんなに助けられてばっかりだった。だからコイツらのためにもこの試合には絶対に勝ちたい。こんなにも誰かのために戦いたいと思ったのは初めてだ。そしてその中でも――
「15―0」
俺のサーブで崩してハルが前で決めた。流れるようなポイントだ。
その中でも俺はハル、誰よりも君のために戦いたい。そう思うだけで今がなによりも楽しいんだ。
ラケットにハルが書いてくれた〝楽しむ!〟の文字をなぞる。
テニスは個人競技だし、自分一人で自由にできるスポーツだと思っていた。最初は自分一人のために始めたテニスだったけど、今では誰かのために勝ちたいと思っている。不思議な変化だ。でもそっちの方がテニスを心底楽しめているし、そう思うようになってから強くなれた気がする。勝ちたいとか、チームのためとか、全国へ行きたいとか、全部全部全部全部全部含めて、俺はハルと一緒に戦いたい。
「15―15」
こうしてハルの隣に並んでいると、高校最初の入学式の朝に遅刻して学校前の道を並んで走ったあの日のことを思い出す。そうか、全てはあの日から始まっていたんだ。それからハルに誘われてテニスを始めて、俺はずっとハルに憧れてその背中を追いかけてきた。
地面にボールを三回ついてから視線を上げると、前衛でラケットを構えているハルの背中が目に入った。
俺はハル、君に憧れ、君に追いつこうと必死だった。でも、やっと君と同じ目線で戦うことができる。君に並ぶことができた。そして君に追いついた今、俺の目標は変わった。俺は君を追い越す。憧れを、越える。
サーブからボレーで熊谷を崩していき、最後はネット際まで詰めて――ハルより前に一歩踏み出して――ポイントを決めた。
「30―15」
ハル、俺にテニスを教えてくれてありがとう。どんな時も、なにがあっても、俺を見捨てないで、信じてくれてありがとう。俺とペアを組んでくれてありがとう。
「40―15」
歓声が轟いた。
ポイントを決めた俺の元にハルが近寄ってきて、いつものようにニコッと笑った。それにつられて俺も笑った。
「マッチポイントだ」
「うん」
俺たちはその場で深呼吸をしてから再び笑い合った。
「瞬」
「ハル」
『俺たちは最高のペアだ!』
勢いよくハイタッチを交わした音は、歓声にも負けないくらいコートに響き渡った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます