50.決戦


 東京都高等学校テニス選手権大会 準決勝


 遂に全国を賭けた大一番を迎えた。決戦の舞台である小金井公園はたくさんの人で埋め尽くされている。

 天気は文句なしの快晴。気温も少し動いたら暑く感じるくらいでちょうどいい。むしろ観衆の熱気の方が太陽よりも暑く感じるくらいだ。

「やっぱり全国がかかるとなると雰囲気も全然違うね」

 コートから離れたところで一緒にアップしているハルに言う。でも決して雰囲気に呑まれているわけじゃない。むしろこの中で試合ができることにワクワクしている。ハルはこういうのに慣れてると思うけど。 

「あぁ。でも俺たちにはそんなの関係ない」

「自分たちのプレーをすればいい」

「そういうこと」

 お互いニコッと笑った。俺もハルもいつも通りだ。

「桜庭ぁー! 瀬尾ぉー!」

 すごく聞き覚えのあって、懐かしくて、安心する声が聞こえた。声の元をたどると少し遠くの方から歩いてくる六つの人影が見えた。

「金子先輩! それに遠坂先輩、不動先輩、長野先輩、宇城さんに里中さんも!」

「久しぶりー」

 優しく、柔らかい感じに手を振ってくれている宇城さん。宇城さんたちと会うのは1年の夏合宿以来だ。

『お久しぶりです!』

「調子はどうだ?」

「バッチリです! 不動先輩」

「俺たちも精いっぱい応援するからな」

「ありがとうございます! 遠坂先輩」

 目の前に並び立つ先輩たち。先輩たちが応援に来てくれるなんて何十人、いや何百人力だ。本当に心強い。

「でもまさか、あのチンチクリンだった桜庭が全国を賭けた大一番に出ることになるとはな。俺たちもすっかり追い抜かれちまったな。若さって怖いねぇ」

「長野、俺たちだってまだまだ若いだろうが」

「そうっすね。すんません」

 里中さんに言いくるめられている長野先輩がおかしくて全員で笑った。

「しゅーん! ハルー! 集合だ!」

 太一が呼びに来てくれた。そろそろ試合開始だ。

「桜庭、瀬尾」

 最後に金子先輩が声をかけてくれた。

「俺はお前らが人の何倍も努力してきたことを知っている。お前らの粘り強さを知っている。お前らの気持ちの強さを知っている。お前らなら……全国へ行けると信じている。自信を持って戦ってこい!」

 金子先輩の言葉に他の先輩たちも力強いまなざしで俺たちに頷きかけてくれた。俺たちも先輩たち全員の目を見てから頷いた。

『はい!』

 俺たちは先輩たちからのエールを受け取り、コートへ向かった。



「集合!」

 コート脇で試合前のミーティングを始める。

「今日の相手は白鷹だ。言わずも知れた強豪校――」

 監督がいつもの低い声で話を始める。試合前のこのミーティングでは相手の情報をおさらいし、自分たちがどう戦っていくかを確認する。

「初めに、S1の相手は球速こそそんなに速くないがとにかく足が速い選手だ。粘り強くボールを返してくる。厳しくコースを突いて、左右に、前後に、揺さぶっていけ。カウンターには気をつけろ」

「はい!」

「次にS2の相手は――」

 堂上、南と監督からの指示を受けていく。「試合だ!」ってなったら何日も前から気合いが入るものだけど、試合直前の監督の言葉で「俺はやるぞ! 俺は戦うぞ!」ってその気持ちがピークに達していく。いつもは厳しい分、試合前の監督の言葉はより心強く感じるのかもしれない。それくらい俺たちにとって監督の言葉は大きい。

「最後にダブルス――」

 俺たちの番が来た。鼓動が早まる。

「相手は東京、いや、全国でも三本の指に入るペアだと俺は思う」

 全国で三本の指に。監督にここまで言わせるなんて、やっぱり熊谷たちはすごい。

「でも!」

 隣でハルが監督に向かって叫んだ。その目はなんだか入部したての頃に監督に食い下がっていたあの時のことを思い出させた。変わらないな、ハルは。

「俺たちは勝ちますよ。絶対」

「勝ちます」

 ハルと目を合わせて頷き合い、俺も堂々と監督に宣言した。

「よく言った! やるべきことはお前たちが一番よく分かっているはずだ。個人戦のリベンジを果たしてこい!」

『はい!』

 監督は頷くと、俺たちから視線を外し全員を眺めるように見渡す。それからもう一度頷いて口を開いた。

「最後に、今日はお前たちに俺から言わせてほしいことがある」

 監督のいつもとは違った雰囲気にみんな少し困惑の表情を浮かべる。でも俺は真っすぐに監督を見続けた。

「いつもは引退時に言うのだが、今回ばかりは試合前に言わせてほしい。……3年生の諸君。テニス部に入部してからのこの約二年二ヶ月、誰一人欠けることなく、弱音を吐くこともなく、俺の練習に最後までよく着いてきてくれた。本当にありがとう」

 監督は俺たちに向かって深々と頭を下げた。

「お前たちは俺の誇りだ。――そして桜庭」

「はい!」

「これまでよくチームを引っ張ってきてくれた。ありがとう」

「い、いえ、全然そんなことありません。俺がチームを引っ張らなきゃいけないのに、俺がチームから支えられてばっかりでした」

 金子先輩からキャプテンの任を引き継いで以降、この一年間で色々なことがあった。でも俺が発した言葉の通り、俺がキャプテンとしてチームのためにできたことなんてなにも……

「そうか。じゃあ、周りを見てみろ」

「えっ?」

 監督に促されるまま周りを見た。そこにはハルがいて、太一や南がいて、山之辺や川口や堂上、それにたくさんの後輩たちがいて――

「今日は頼んだぞ!」

「キャプテンがんばってください!」

「なんつー顔してんだよ! そんなんじゃ勝てねぇぞ!」

「一本ずついきましょう!」

 みんなが俺を見て、笑って、声をかけてくれている。その光景に俺は胸の奥がギュッと締めつけられた。

 新チームが始動して、全国が目標だとみんなの前で言ったはいいものの、俺がキャプテンとしてチームのためにできたことなんてこれっぽっちもなかった。逆にみんなの足を引っ張ってしまったことだってあった。そんな俺なんかのために……みんなバカだ。バカで……最高のヤツらだ!

「桜庭、これがお前のつくったチームだ」

「はい、最高のチームです。ですが監督、これは俺のつくったチームではありません。俺たち・・・がつくったチームです!」

 そうだな、と頷く監督。

『これより、東京都高等学校テニス選手権大会、準決勝第一試合を始めます。選手の皆さんはコートに入ってください』

 試合開始を告げる放送が流れた。体が一気に熱くなる。

「時間だな。だが最後にこれだけは忘れるな。お前たちは誰よりも泥臭く、真摯に練習に取り組んできた。誰よりも努力を怠らなかった。誰よりも強くなった。俺はこのチームなら必ず全国へ行けると信じている。だから自信を持って戦ってこい! そして――」

 監督は俺たちの前で初めて笑った。

「目いっぱいテニスを楽しんでこい!」

『はい!』

 最後に全員で円陣を組み、気持ちを一つにしてからコートへ入った。後ろでは「今日は盛大に応援で盛り上げていくぞ!」という太一の声を皮切りに大応援が始まった。太一、南、山之辺、川口、堂上、後輩たち、光野、石川、女子部員たち、不動先輩、長野先輩、金子先輩、遠坂先輩、宇城さん、里中さん、清水先輩、他の先輩たち、高橋、堤、前島、本田先生、父さん、母さん、兄ちゃん……。みんなが俺たちの背中を後押ししてくれる。

 しかし目の前では太一たちの大応援をかき消すほどの猛烈な勢いで相手の応援も始まった。同時にコートへ姿を現した、宿敵。

 ――来た。

 沸き上がる血潮。興奮。試合が楽しみでしょうがない。

 俺たちはネットを挟んで向かい合った。

『今日はぜってぇ負けねぇ!』

『臨むところだ!』



 まだ夏が来る前、五月下旬の爽やかで気持ちのいい風がコートを吹き抜ける。天気は快晴。気温もちょうどいい。最高のテニス日和だ。こんな日に全国を懸けた大一番を迎えられるなんて、それだけで幸運なのかもしれない。

 ただコートを取り囲む大熱狂が気温以上に熱く燃え上がり、俺たちの体感温度を大きく上昇させる。それだけじゃない。今日、待ちに待ったこの試合に懸ける俺たちの想いも、熱く、大きく、燃え上がっている。

『白鷹! 白鷹!』

『吹野崎ファイトー!』

 空気を震わすほどの大声援が飛び交う中、遂に試合開始のコールが発せられた。

「ザ・ベスト・オブ・3セットマッチ。白鷹、サービスプレイ」

 俺たちの最後の挑戦が始まった。

 熊谷がベースライン上にゆっくりとボールをついて自分のリズムをつくっていく。サーブはもちろんこの男からだ。これまで何本もエースを取られ、何度も俺たちの気持ちを折らんとしてきたサーブ。そして俺たちはコイツのサービスゲームをまだ一度もブレークできていない。

 熊谷はボールをつき終わると顔を上げ、俺と目を合わせてきた。対峙して三度感じる熊谷の凄まじいプレッシャー。巨体から溢れんばかりのそれに俺の心は圧し潰されそうになる。まだ一球も交えていないけど分かる。最初から全力のサーブが来ると。でも――

 コート上に舞った風が落ち着くのを見てから熊谷はトスを上げた。

 俺たちは今日、コイツのサービスゲームをブレークするために来たんだ。絶対に負けない。必ずブレークまでたどり着いてやる!

「アッ!」

 コートの対角にいる俺にまで聞こえるくらい力の入った声を漏らしながらサーブが放たれた。ボールはセンターT字の内側にバウンドすると、一瞬にして俺の視界から消えようと逃げていく。でも俺の目は高速で通り過ぎていく黄色い物体を確かに捉えていた。それも縫い目がハッキリと見えるまでに。俺はもはや脊髄反射のごとくボールの軌道にラケットを伸ばした。

「ハル、ケア!」

 重く、痺れる感触が手に残った。リターンはただ返すだけになってしまったけど、幸いにも前衛の新には捕まらない程度の高さで返ってくれた。

 個人戦から時間が経っていない分スピードに対しては目が慣れているけど、熊谷サーブの真骨頂はなんといってもその球威にある。それが厄介であり、俺たちが一番手を焼いているところだ。それに――

 熊谷は俺のリターンの軌道上に素早く回り込むと、上体を限界まで捻ってラケットを高く構え全身に力を溜め込み始めた。まるで俺たちをこの一撃で粉砕せんとばかりの形相を帯びながら。

「アッ!」

 案の定ラケットが弾き飛ばされるほどの強烈なショットが飛んできた。俺はかろうじてロブで逃げるも、その後も熊谷のしつこいまでの深くて球威のあるストロークに押され続け、最後は前衛の新にボレーで決められた。

「15―0」

 よっしゃ! とこの試合最初のハイタッチを交わす熊谷と新。俺たちも「ドンマイドンマイ」と互いの手を叩いた。

 強力だけど粘りのある熊谷のストローク。最初はこれほどまでに厄介ではなかった。力任せに打ち込んでくるだけで、決まれば大抵の確率でウィナーになるも決まらなければ癇癪を起こして自ら敗北への道を進んでいた。でも熊谷は変わった。きっと新が熊谷のことを変えたんだと思う。互いを信頼し合っているのがネットを挟んでいても伝わってくる。個人戦の時も思ったけど、いいペアだと心底思う。

 サーブと組み合わせて熊谷に粘りのラリーを続けられると太刀打ちできない。でも俺たちだって反応はできている。個人戦の時とは違って最初から食らいつけていけている。大丈夫だ。俺たちならやり遂げられる。

「ゲーム白鷹。ゲームスカウント1―0」

 とはいえエンジン全開で来た熊谷の最初のサービスゲームをブレークすることは叶わなかった。でも焦りはない。試合は始まったばかりだ。ここは我慢だとハルと頷き合った。

 続くハルのサービスゲーム。

「今日は最初から並行陣でいこう」

 個人戦の試合後、ファーストセットで並行陣を温存したことをハルは後悔していた。「せっかくそこまで並行陣を使って勢いをつけながら勝ち上がってきたのに、それを無駄にしてしまった。もったいないことした。あれだけ勢いは大事だって自分で言っていたのに」って。それもあって今日は最初から全力だ。熊谷たちものっけから全力だし、格上のアイツらが全力で来ているのに俺たちが温存なんてしていたら絶対に勝てない。それに俺たちが並行陣を使うことはもうバレてるしね。

「分かった!」

 俺たちはタッチを交わしてそれぞれの位置についた。

 いつも通り後ろからボールをつく音が聞こえてくる。1、2、3、4、5……。目の前の熊谷がステップインしてくるのと同時に、「アッ!」とハルの声が聞こえてきた。すぐに視界の外からボールが現れると熊谷も素早く反応する。横ではザザーッとハルが前に出てきている音が聞こえる。ファーストボレーがきれいに深く決まると、甘くなった熊谷の返球を俺がすかさずポーチに出て決める。

「15―0」

「ナイッサー!」

「ナイスポーチ!」

 パンッ! と乾いたいい音が鳴った。

 ハルはキレッキレのサーブをラインギリギリに連発していく。でも熊谷たちもエースは決めさせないとばかりに果敢に食らいついてくる。逆にハルのサーブやボレーが少しでも甘く入ると途端に攻守が入れ替わる。一瞬たりとも気が抜けない緊張感。互いのストロングポイントもウィークポイントも全て知り尽くしている。隠しているものも、今更さらけ出すものもなにもない。ただ全力でぶつかるだけ。

「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント1―1」

 最初から両者火花をまき散らす全力全開勝負。ナイスショットの応酬。新サーブでも高い集中力と相手の連携――サーブで際どいコースを突いて前衛の熊谷が決める――が光る。個人戦では1ブレークを許したことから、この試合では一度もブレークさせないと気迫のこもったプレーだ。

「ゲーム白鷹。ゲームスカウント2―1」

「よっしゃー!」

 吠える新。熊谷と力強くタッチを交わす。俺も負けてられないな。

「瞬」

 ハルに呼び止められ、ボールを二球手渡された。

「ナイッサー」

「うん」

 俺はハルからボールを受け取り、力強く視線を送り返した。

 熊谷、ハル、新。序盤から三人がここまで熱いプレーを見せているんだ。燃えないはずがない。俺だってやってやる!

 スー、ハー。大きく深呼吸をして一旦気持ちを落ち着かせる。いつも通りボールを三回地面について狙いのコースを確認。それからもう一度深呼吸をしてトスを上げた。

「アッ!」

 スライス回転をかけたサーブは狙い通り熊谷のフォア・・・側に鋭く決まり、バウンドしてからコートの外側へ逃げるように切れていく。熊谷はかろうじて伸ばしたラケットのフレームに当てるも、力なく返ってきたボールをハルがボレーで二人の間を切り裂いた。

「ナイッサー! よく怖がらずに熊谷のフォア側へ打ち込んだな」

「うん。『俺ならできる』って自信を持って振り抜くことができたよ。それにハルやみんなもいる」

「そうだな」

 俺たちはニコッと笑ってタッチを交わした。

 その後も熊谷と新は俺の会心の一撃にも食らいついてきて簡単にはポイントを決めさせてくれなかったけど、俺たちも並行陣できっちりとボレーを深くに返し続け、時には後衛に留まってラリーからの攻めるロブで相手を崩しにかかり、サービスゲームをキープすることに成功した。最初から持てる手札は全て使いきってしまったけど、これでいい。出し惜しみなんてしている余裕はないんだから。

 サービスゲームが二巡目に入っても均衡は崩れず、一進一退のキープ合戦が続いた。三巡目にはハルのサービスゲームでブレークされそうになるもなんとか切り抜け、逆に熊谷たちを追い込む場面も出てきた。でも当然相手も耐えてくる。1ブレークが命取りになる試合だ。各々のサービスゲームになった時の集中力は凄まじい。特にポイントで相手に先行を許している時は。

『白鷹! 白鷹!』

『吹野崎! 吹野崎!』

 両校の応援も第一試合のファーストセットからせめぎ合いを繰り広げる。白鷹の応援の方が圧倒的に人数が多いけど、その中でもハッキリと仲間の声が聞こえてくるのはこの上なく心強い。みんな目いっぱい口を開けて俺たちに声を届けようとしてくれているんだ。みんなのためにもこの試合に必ず勝って全国へ行く!

 その後も両者ブレークを許さず、ファーストセットはタイブレークへもつれ込んだ。

「1―0、白鷹リード」

 早速、熊谷のサーブで崩され前衛の新に決められた。でも俺たちもすぐさまやり返す。

「2―1、吹野崎リード」

 新サーブ。今日のアイツのサーブはボールのキレもコースも個人戦の時とは比べ物にならないほどいい。ファーストサーブを高い確率で決めてきて、守備範囲の広い前衛の熊谷に無理なく決めさせる。俺たちが一番嫌がることを徹底して繰り返してくる。そう何度もできるプレーじゃないけど、今日の新の高い集中力と、なにより新からビシビシ感じる「絶対ブレークはさせへん!」という気迫からすれば十分納得できる。正直熊谷サーブよりブレークするのが難しいかもしれない。

「3―2、白鷹リード」

「よっしゃー!」

 新の次のサーブは正直やりづらい。でもアイツの気迫に呑み込まれていてはダメだ。逆に俺自身のペースをつくってこっちが呑み込んでやる勢いでかからないと。

「4―3、吹野崎リード」

「よぉしっ!」

 サーブが一巡し再び熊谷に戻る。

「5―4、白鷹リード」

 高速サーブと強烈なストロークであっという間に二本ともキープされた。両者ミニブレークも許さない状況、になるかと思いきや――

「瞬、ケア!」

 一本キープした後の5―5。ほんの僅か、ハルのファーストボレーが浮いてしまった。普段のそれと比べれば紙一重の差と言っていいほどだけど、これくらいの綻びがあれば十分だと言わんばかりに熊谷が攻め込んできた。俺たちも一本、二本と左右に揺さぶってくる熊谷のアタックを返すも、三本目に間をぶち抜かれてしまい遂にミニブレークを許してしまった。

 そのまま次の新サーブをしっかりとキープされ、ファーストセットは先取された。

「くっそぉ、やっちまったぜ」

 ベンチへ戻るなりハルは悔しそうな声を上げる。でもその顔はどこか嬉しそうでもあった。

「少しのミスも許してくれないね」

「あぁ。ホント憎たらしいぜ、アイツら」

「でもハル楽しそう」

「そういう瞬だって」

 ファーストセットを取られたっていうのに俺たちは笑ってしまった。ホントは笑っている場合じゃないってことは分かっているんだけど、試合が楽しすぎて笑わずになんていられないや。

「でもセカンドセットは絶対に取るぞ! そしてファイナルも!」

「うん!」

「で、熊谷のサーブだけど、見えてるか?」

「大丈夫、見えてるよ。ファーストセットでも全部に反応できていたし、セカンドではもっと返せると思う。いや、絶対返すよ」

「その意気だ。俺もがんばるよ。とにかく返し続けよう」

「俺もそれでいいと思うぞ」

 俺たちの前で膝立ちになっていた監督が口を開いた。

「とにかく今は返し続けろ。新のサーブも今は完璧に抑えられているがファーストセットで配球の傾向も見えてきた。それを逆手に取ってやれ。それに後半になればセカンドサーブも増えてくるはずだ。チャンスが来たら必ず仕留めろ」

『はい!』

「だがそれはこっちも同じことだ。体力勝負で負けるなよ」

「監督。俺たち今まで誰に鍛えられてきたと思ってるんですか。体力勝負なら絶対に負けませんよ」

 監督はフッと少し口元を緩めるようにして笑った。

「まったく、調子のいいヤツめ。よし! まずはセカンドセット取ってこい!」

『はい!』

 ハル、そして監督とタッチを交わしてベンチを立った。



 ハルのサーブでセカンドセットが始まった。

 このセットを取らないと俺たちは負けだ。確かにそのことは頭にある。でも今はそれより……

「瞬!」

「おう!」

 ハルのボレーがセンター深くに決まり、熊谷が体勢を崩したところを俺がポーチで決める。

「15―0」

『よっしゃ!』

 次のポイントも同じような展開から最後は俺が前で決め、ハルとタッチを交わす。

 前衛でボールを捉えるのは極めて一瞬だ。最初の頃はポーチに出ることは愚か、ボールを目で追うことさえ叶わなかった。でも今は〝見える〟。ちゃんと〝感じる〟。それはボールもだけど、相手の目線や立ち位置、次への動作、それらが全てスローモーションに感じる時さえある。そして、一瞬を制す。前にハルが俺に説明してくれた言葉だ。今ならハルの言っていたことが分かる。

 それにハルが打とうとしているコースとか、ハルが熊谷たちをどう崩していこうとしているかとか、ハルが考えていることが俺の思考にまで流れ込んでくる。個人戦の時も同じようなことがあったけど、今日はあの時よりも強いイメージとして頭の中に入ってくる。言葉を交わさずとも、後ろを振り返らずとも、ハルの抱いているイメージが鮮明に俺の頭の中に映し出される。だから俺も自信を持って攻めていける。

「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント1―0」

 ただ依然として熊谷の高速サーブが俺たちを襲う。その球威は1セットが終わったくらいでは衰えることを知らないようだ。

「ゲーム白鷹。ゲームスカウント1―1」

 落ち着け。熊谷のサーブは決められて当然。でも我慢だ、我慢。その先に必ずブレークへの道が見えてくる。

 ハルと目を合わせてともに頷いた。

 大事なのは次の俺のサービスゲームだ。熊谷サーブの後はいつもブレークが許されないプレッシャーを感じる。でもそれらをはね返してこそだ。むしろチャレンジャーの俺たちに攻める以外の選択肢はない!

「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント2―1」

「よしっ!」

「ナイスキープ、瞬!」

 俺たちは一度壁の頂上に手をかけるところまで行った。けどその高くて険しい壁を登りきることはできず、谷底へ落された。でも俺たちは諦めない。滑り落ちた壁に再び手をかけ、一歩一歩着実に登っていく。今度は最後まで気を抜かない。絶対に。

『白鷹! 白鷹!』

「吹野崎ぃー!」

「瞬せんぱぁーい! ハルせんぱぁーい!」

「さぁブレークしよーぜ!」

 全国を懸けた大舞台。俺たちの勝敗がチームの勝敗を左右する大事な試合。しかも1セットダウンの状況。こんな状況で楽しいなんて思っちゃいけないんだろうけど、でもやっぱり無理だ。俺は今、最高に楽しい。めっちゃ、めっちゃ楽しい。この試合が延々に続いてほしいとさえ願ってしまう。アイツらも俺たちを見ながら笑ってやがる。でもこんなに楽しい試合はこの先もう二度とできないんだろうなって思う。だから楽しみ尽くしたい。そして勝利もいただく!

「30―30」

「よしよしよし。チャンスだ!」

 監督の指示通り、この新のゲームではファーストセットの傾向と対策が功を奏している。依然ファーストサーブの確率は高くコースも際どいところにバンバン決められているけど、基本的には俺たちのバック側――俺たちが熊谷にしていることと同じように――を狙ってきている。コースが分かれば反撃できない俺たちじゃない。前衛の熊谷に捕まることもあったけど、30―30まで持ち込むことができた。次のポイントを取ればブレークポイントだ。新にプレッシャーをかけることができる。

 それに新は配球を上手く使ってサービスゲームを組み立てるヤツだ。これは過去に二試合もやった俺たちにしか分からないことかもしれないけど、アイツは大事なポイントでいつもとは違うコース、つまりフォア側を狙ってくるはずだ。そこを必ず仕留める。

 トスが上がった。新の視線がボールへ移ったことを確認してからポジションを右側へずらす。ボールがラケットに当たる瞬間にスプリットステップを踏み、フォアハンドでテイクバックを構えた。しかしサーブは反対方向のセンターへ打ち込まれてきた。急いでグリップチェンジをするも俺は触るのが精いっぱいで、高く上がったボールは熊谷にスマッシュで叩きつけられた。

「40―30」

 新は熊谷とタッチを交わした後、俺に向かって舌を出してきた。あのヤロウ……

「ハハッ。完全に出し抜かれたな」

「ホント。悔しいけどアイツの方が一枚上手だったよ」

 このゲームは新にキープされ、その後もファーストセット同様両者サービスキープが続く、かに思われたけど――

「30―40」

 二巡目の新のサービスゲームでようやくブレークポイントまでこぎ着けた。というよりも新が少し崩れたと言った方が正しい。さすがに3セット通して集中力をキープし続けるのは、いくら好調の新といえど至難の業だったということだ。熊谷ほどのスピードやパワーがない分、一球一球の配球を考えて正確にプレーへ移さなければキープし続けるのは難しい。俺たちも環境としては同じだから気持ちはすげぇ分かる。

「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント5―3」

 俺たちはこの機をしっかりとものにし、セカンドセット奪取に王手をかけた。しかし――

「ゲーム白鷹。ゲームスカウント4―5」

「よっしゃー!」

 一瞬のうちにブレークバックを許してしまった。どうやらブレークしたことで眠れる獅子どもを起こしてしまったようだ。今のハルのサービスゲームはそれまでとは比べものにならないくらいリターンに力が入っていた。死に物狂いで獲物を狩りに来た獅子の如く、二人の目には鋭い眼光が帯びていた。

 それからの3ゲームはともにサービスゲームをキープし、セカンドセットもタイブレークへもつれ込むことになった。

「絶対取るぞ。タイブレーク!」

「うん!」

 力の入ったハルの目に俺も力強く頷いた。

 こういう時のハルはさすがで、最初のポイントはしっかりと熊谷のバック側に鋭いサーブを叩き込んだ。熊谷も押されながらハルの足元へボールを沈めてはきたものの、ハルが次々と深いボレーで熊谷を追い詰めていく。最後はもうダメだと言わんばかりのロブを熊谷が上げてきたところで、ハルがそのまま前に出てスマッシュを叩き込んだ。

「1―0、吹野崎リード」

「よっしゃー!」

 すごい。一人でポイント取っちゃったよ。しかも熊谷相手に。俺も負けてられないな。

 でも続く熊谷サーブではさっきのポイントの記憶を一瞬でかき消すほどの強烈なサーブがハルを襲い、かろうじて返したリターンも前衛の新に楽々と決められてしまった。そして次の俺のリターンも――

 ――重っ!

 セカンドセット終盤に来てもこの重さ。個人戦の時もそうだったけど、熊谷のヤツ、ボールスピードやパワーだけじゃなく体力も相当のものだ。いや、でも確かに疲れは見える。アイツも俺たちと同じ人間だ。じゃあアイツをここまで動かしているものはなんだ? そんなの簡単だ。〝意地〟しか考えられない。

「2―1、白鷹リード」

 本当は壁なんて登りきれないんじゃないかと俺たちに絶望を与えてくるサーブ。去年の選抜戦、この前の個人戦、そして今日も、何本も受けてきて未だにブレーク一つすら奪えていない。苦手意識は確かにある。でも返せると、俺たちならやれると信じるんだ。

 2―2。3―2。3―3。3―4。

 両者己のサーブに全身全霊を注ぎ、死に物狂いでキープを奪いにいく。ここまで来たら意地と意地のぶつかり合いだ。

 一つのブレークが命取りにつながる場面だからか、ポイントが進むごとに感覚も研ぎ澄まされていく。ラケットでボールを掴んだ時の感触、スプリットステップで地面から受ける反動の力。それだけじゃない。相手が次にどこへ打ってくるのか。俺はどこへ返すのが最適か。相手の立ち位置はどこか。目線は。体の向きは。俺たちはどうか。五感が常に働き俺に情報を送ってくれる。……いい。すごくいい感じだ。

「4―4」

「よっしゃー!」

 サーブからのボレーを決めたハルが吠えた。このままいける。俺たちが攻めて、アイツらのどちらかのサーブをミニブレークしてセットを奪取する。ハルの声は俺にそう思わせるほど力強かった。

 でもそう簡単にいかせてくれないのが今日の相手だ。続くポイントは長くなった。ハルのファーストサーブがフォルトし、セカンドサーブになったことでリターンの熊谷が一気にギアを上げてきた。ここが崩しどころと思ったのだろう。リターンをフォアで回り込まれて強襲してきた。でもハルもそれを分かっていたからいつも以上に準備を早くして熊谷のリターンに備えた。丁寧に、かつ攻める気持ちは忘れずにハルは熊谷のショットを返し続けた。最初は押されていたけど、徐々に攻守が逆転するほどハルのボレーは冴えていた。熊谷もストレートに打球の方向を変えてきたりロブで逃げたりと、あらゆる手を尽くして粘ってくる。俺たちも攻め続けた。ダブルスでは珍しく何十ラリーと続いた。そして――

「5―4、白鷹リード」

 最後はアウトだと思ってハルが見送った熊谷のショットがサイドラインの外側にかかり、痛恨のミニブレークを許してしまった。見送ったボールがラインにかかったと分かった瞬間、ハルはやってしまったというように目を大きく見開いていた。

「ハル、今のは仕方ないよ。熊谷を褒めるべきだ」

「くっ……ごめん」

 ハルは歯が欠けてしまうんじゃないかっていうくらい強く、強く食いしばっている。その表情を見ればこの状況でミニブレークされることがどれほど重いことか、誰にだって伝わるはずだ。

「これじゃファーストセットと同じじゃねぇか……」

 悲嘆に暮れる表情を浮かべるハル。確かにファーストセットもハルのミニブレークからセット奪取までつなげられてしまった。今もそれと同じ状況だ。でも――

「大丈夫だよ」

「えっ?」

「大丈夫だよ、ハル」

 俺はハルを見てニコッと笑った。

 なぜかは分からない。これまでにないくらいピンチだってことも理解している。でもきっと大丈夫だと、俺の心がそう言っている。それはきっと――

「気にすんなよ、ハル!」

「次だ次!」

「先輩、切り替えですよ!」

 みんながついているから。絶えず俺たちの勝利を信じて声を送り続けてくれているから。だから大丈夫だって思えるし、その声援に負けてられないなって思う。

「そうだな。ここで折れるわけにはいかねぇよな!」

「うん!」

 でも次のサーバーは……

『白鷹! 白鷹!』

 ボールは巨人の手中に握られている。このタイミングで熊谷とか、ホントできすぎっていうかなんていうか。でもコイツの二本のサーブのうちどちらかをブレークしなければ負ける。勝利を目前にした白鷹バックは今日最大の盛り上がりを見せている。

「とにかく返さねぇとなにも始まらねぇ。絶対返すから、一本挽回だ!」

「うん!」

 俺たちはタッチを交わして守備位置についた。熊谷たちもタッチを交わし、それぞれの位置につく。

 ボールを地面につき始める熊谷。小刻みにジャンプをして体の力を抜いていくハル。固唾を飲んで見守る周囲。汗が顔から滴り落ちる。

 トスが上がった。ゆったりとしたフォームから一気にラケットを加速させてボールを捉える。ハルもサーブが放たれる瞬間にステップインする。ボールはワイド線上をかすめるかかすめないかくらいの微妙なところにバウンドした。ハルのラケットは……

 ガシャン!

 辺りは静寂に包まれた。主審は……インのポーズ。今日初めてのサービスエースに渾身のガッツポーズを見せる熊谷。それに呼応するように沸き上がる白鷹バック。

『あと一点! あと一点!』

 絶体絶命とは正にこのことだろう。相手のマッチポイントで迎えるサーバーは熊谷。アイツのサーブを返し、かつポイントにつなげなければ負ける。

 スー、ハー。スー、ハー。

 プレッシャーは凄まじいものだけど、深呼吸して気持ちを落ち着かせる。

「すまん、瞬」

「ううん、あれは俺でも取れないよ。熊谷のヤツ、ここであんなの決めてくるなんてホントバケモノだな」

 少しの沈黙の後、下を向いていたハルは顔を上げ、俺の両肩を強く握ってきた。その手と目から伝わってくるハルの想い。

「瞬、大丈夫だ。今日のお前は見え――」

「見えてるぞ! 桜庭!」

 腹の奥にまで響いてくる低い声。驚いて二人して声のした方向を振り向くと、監督がベンチから立ち上がっていた。いつもは怒号として飛んでくる声。でもさっきのは違った。たった一言だけだったけど、俺に勇気と力を与えてくれる声だった。

「瞬、お前なら返せるぞ!」

「見えてる見えてる!」

「自信持って振り抜け!」

「俺たちはファイナルセットまで応援するつもりだからな!」

「絶対勝とうね!」

 太一、南、堂上、山之辺、川口。監督に続いてみんなも俺に精いっぱいの声援を送ってくれる。力がどんどんどんどん湧いてくる。

 俺はラケットにみんなが書いてくれたメッセージをなぞり、みんなと、そして監督に頷いた。それからハルとタッチを交わし、リターンの位置についた。

 熊谷はボールを地面につき終わるとゆっくりとトスを上げた。俺はそれに合わせてステップを踏んだ。

 この一球は、必ず返す!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る