48.受け継ぐ意志
「ゲームセット、ウォンバイ吹野崎――」
主審のコールとともにコート上とバックの明暗がくっきりと分かれる。片方は歓喜に沸き、もう片方は悲嘆に暮れる。
俺たち3年は負けたらそこで終わりだ。それは相手も同じこと。同じ立場にいるからこそ相手の気持ちは痛いほど分かる。だから俺たちは勝つ度に、コイツらの分までこの先も最後まで全力で戦い抜くんだと心に誓う。
初戦は辛くも勝利を収めるという形に終わったけど、そこからの三、四回戦は危なげなく勝利を収め都大会の第一週目を終えた。
初戦の最中は悪いことばかりが頭に出てきて、プレーもそれにつられるようにどんどん悪い方へ傾いていった。でもハルと、そして赤井のお陰で立ち直ることができた。試合後に赤井と話せたことも気持ちの整理につながった。今まで心の奥底にずっとかかっていたどこまでも深く濃い霧がやっと晴れたような、今はそんな気分だ。それに俺には――
「瞬、ナイスゲーム!」
コートを出た俺にかざされるいくつものチームメイトの手。太一、南、山之辺、川口、堂上、そしてハル。俺は一人ひとりと笑顔でハイタッチを交わし応援の感謝を伝える。
今の俺にはこんなにも頼れる仲間が近くにいるんだから、もうなにも心配はいらない。
二週目の初戦となった五回戦も無事に勝利を収め、続く六回戦を迎えた。
全国まではあと三回勝つ必要がある。どんな相手が来ても対応できるように、頭の中では繰り返しイメトレを重ねてきた。そのせいで今週は授業に全然集中できなかったけど、本田先生からは「今週だけは許してやる。その代わり絶対勝ってこい」と言われて頭が下がる思いだった。
六回戦の開始までにはまだ時間があったから、同会場で先に開始していた女子の応援へ行くことにした。
女子も同じく五回戦を勝ち上がり、六回戦を迎えていた。でも光野曰く、今日の相手はこれまで戦ってきた中で一番強いとのこと。事実、相手の高校は今大会の第3シードに名を連ねており、男女ともに全国へ名を馳せている一条学園だ。俺たち男子も勝ち上がれば次の準々決勝で当たる。
一条は強いけど、スーパーシードの分光野たちとの試合が初戦なんだ。勢いとしてはここまで勝ち上がってきたうちの方が強い。だからチャンスは絶対にある。
「光野、がんばれよ!」
「うん! 一足先に勝ってくるね」
光野と石川のダブルスから試合が始まった。相手はさすが第3シードなだけあって、光野たちは最初のゲームからブレークされる苦しい展開となった。でも光野たちも忍耐強く返し続けて泥臭く1ポイントずつ積み重ねていくと、第6ゲームで遂にブレークバックに成功。ゲームスカウント3―3とイーブンに戻した。よし、流れはこっちに来ている。
強豪相手にも果敢に戦う二人の姿は、チームメイトに「私たちに任せて」と背中で語りかけているように見えた。後輩たちはさぞ頼もしいことだろう。そんな姿を見ていたら今までのことが思い出されてきて俺は胸が熱くなった。
「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント6―6。タイブレーク」
3―3からもブレークされては粘って追いつき、遂にはタイブレークまでもつれ込む大接戦となった。ここまで来たらあとは気持ちの勝負だ。相手の応援は人数も多く声も大きいけど、少しでも二人の背中を押せるように俺たちも負けじと声援を送る。
0―1。1―1。2―1。2―2。
誰もが手に汗握る一進一退の攻防。
「ナイスショット! いけるぞ!」
2―3。2―4。3―4。4―4。
今日の二人の粘りには凄まじい執念を感じる。特に光野とは同じキャプテンとしてともにチームを引っ張ってきた仲だ。先輩からキャプテンを引き継いだ当初は「チームメイトと上手くいっていない」とか、「どうすれば自分の想いを上手く伝えられるんだろう」とか、いろいろと悩んでいたことを知っている。何度も部員たちと衝突している場面も見てきたし、一人で隠れて泣いているところも。アイツの苦悩は嫌というほど知っている。でもアイツはめげずにチームと向き合ってきた。そして大会が始まる前には「今のチームは最高だよ」って笑って言っていた。誰よりも悩んで、苦しんで、戦ってきた光野に、勝利の女神が微笑まないはずがない!
4―5。5―5。5―6。――相手のマッチポイント。
「光野! まだいける! ここから挽回するぞ!」
光野は俺たちの声援に応えるように頷き、サーブのルーティンに入った。サンバイザーの位置を直してからボールを地面につき始める。1、2、3、4……
トスを上げてサーブを放った。ファーストは決まるもコースは甘くなり相手のフォア側に入った。相手は光野のバック側深くにリターンを返してくると、前衛がポーチに出てきた。でも光野は相手の裏をかきバックハンドのダウン・ザ・ラインを打ち込む――
パスンッ!
打球は無情にも白帯に阻まれ自陣のコートへと落ちた。
抱き合って喜ぶ相手ペアに対して、光野と石川は時が止まったかのように自陣コートに転がった最後のボールを見つめていた。相手ペアがネット際へ歩み寄ってくるのに気づくと、ハッと我に返ったように急いで駆け寄っていく。両チームからは互いの健闘を称える拍手が送られた。その拍手は二人がコートを去るまでやむことはなかった。
「小沢ぁー! まだいけるぞー!」
「一本挽回!」
光野と石川のダブルスに続いてS1の小沢が試合に入った。小沢も1―1で迎えた第3ゲームでブレークされ、序盤から押される苦しい展開が続いた。でもそこからは食い下がり、互いにサービスゲームをキープするシーソーゲームが続いた。そして試合は1ブレークダウンのまま4―5で相手のサービスゲームを迎えた。
このゲームをブレークできなければ敗北が決まる。小沢にかけられるチームメイトからの声援も一層増す。俺たちもそれに加わり小沢を鼓舞する。その声援に応えるかのように小沢のプレーにも力が宿る。2年生ながらS1を任される重責は計り知れない。でも彼女はそれをはね返すかのように堂々と、力強く、東京を代表する相手選手と互角に渡り合っている。その姿に感銘を受けない部員などいなかった。
「ゲームセット、ウォンバイ一条学園――」
女子の挑戦に終わりを告げるコールが主審から告げられた。最後のポイントを取られた瞬間、小沢は手で顔を覆った。隣で一生懸命小沢に声をかけ続けていた同期の後輩たちも同じように涙を流す。
悔しい気持ちは痛いほどよく分かる。惜しくもあと一歩というところなら尚更だ。でも君たちにはまだあと一年ある。今日の悔しい思いは決して忘れずに、この一年でたくさん練習して、来年のこの舞台でリベンジを果たしてほしい。俺はそんな想いを込めて精いっぱいの拍手を小沢たちに送った。
「さぁ、整列行くよ」
吹野崎の敗退に涙する石川とS2の元上の背中を支えながら、試合後の整列へ行くために光野は再びコートへ入った。団体戦のメンバーを横一列に並ばせて、ネットを挟んだ相手チームと最後の礼を交わす。その後、光野は相手チームのキャプテンとしっかり握手を交わした。その顔には笑顔が灯っていた。
コートを出ても泣き崩れる他のメンバーを光野は一人ひとり慰めている。最初は気丈に振舞っていた光野も、駆け寄ってきたチームメイトからの労いの言葉に堪えられず、次第に顔をくしゃくしゃにして涙を流す。それでもチームメイトへの感謝の気持ちは忘れない。今だけは自分のためだけに泣いたっていいだろうに。最後までキャプテンシー溢れる光野から俺は目が離せなかった。
部員たちに囲まれていた光野と不意に目が合った。光野はタオルで涙を拭うと俺の元へ来た。
「桜庭くんの声、ちゃんと届いてたよ。ありがとう」
「よかった。お疲れ様」
光野は頷くと、右手で拳をつくり俺の前に突き出してきた。
「あとは任せたからね」
「おう!」
俺も拳をつくり光野に応えた。お前の気持ち、確かに受け取ったぞ!
吹野崎高校女子テニス部 東京都高等学校テニス選手権大会 団体の部 ベスト16
全国まであと三つ。
初夏の太陽が頂点へと登った。今日の空は雲一つなく、見上げて見えるものは太陽だけだ。光は眩しいけど、真夏のように皮膚を貫いてくる鋭さはない。清々しくちょうどいい気温。まさにテニス日和だ。
そんなことを感じながら試合前のコート上で気持ちよく空を仰いでいたら、急に目の前に大きな人影が現れた。俺の体に心地よく注がれていた陽光は有無を言わさず遮断された。すぐに目は慣れたものの何事かと顔を上げると、目の前には太陽がすっぽりと隠れてしまうほどの超巨人が立っていた。
コイツの顔には見覚えがある。それに顔だけじゃなく、一番はその細い巨躯に確かな覚えがある。開地実業のノッポだ。
忘れもしない、去年の都大会団体戦で負けた因縁の相手だ。俺たちに勝った開地実業はその勢いのまま全国への切符を手にしていた。
あの時は俺自身まだまだ未熟で、金子先輩に引っ張ってもらっているだけの存在だった。でも今は違う。この一年間で得た技術、体力、そして精神力を全て発揮して、必ず去年のリベンジを果たしてみせる。
太一曰く、対する開地実業もこのノッポ――名前は長尾という――を中心に、全国へ行った経験を糧にこの一年間で更に力をつけてきていて、今大会でも第7シードに名を連ねているとのことだ。でも成長しているのは俺たちだって一緒だ。ビビる必要なんてない。今までやってきたことを信じて、戦うだけだ。
「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ。吹野崎、サービスプレイ」
まずはハルのサーブから。ファーストがいきなりセンターT字の交点上を射抜いた。リターナーの長尾は手を伸ばしてなんとかラケットにボールを当てはしたものの、それが精いっぱいで打球はコート真横のフェンスへ激突した。
「15―0」
個人戦で熊谷たちに負けて以来、短い期間だったけどハルは毎日遅くまで居残りしてはサーブの練習を一人黙々と重ねていた。熊谷たち相手に2ブレークされたことが余程悔しかったみたいだ。かといって一朝一夕にサーブが速くなったり、変化が鋭くなったりするわけではない。でも「自分が狙うコースだけはもっと際どいところを攻めなきゃダメだ」と口々に言っていた。それを見ていた分、今のライン上を射抜いたサーブは決してまぐれなんかじゃないって分かっているし、驚きはしない。
続くサーブもファースト、セカンドともに次々と際どいコースに決め、相手に反撃の余地を与えない。第1ゲームは全く危なげなくラブゲームキープとした。
続く長尾サーブ。熊谷よりもデカいその巨躯をしなやかに使い、推定2メートル50センチの最高打点から高速サーブが繰り出される。でも――
見える。感じる。体が反応する。
「0―15」
「おぉー! ナイスリターンエース!」
最高のショットが決まったっていうのに、俺の頭は自分でも怖いくらいに冷静だ。ハルは興奮のあまりなんか変な踊りをしているけど。
リターンでは合わせにいったラケットにボールが上手く乗った感覚があった。それに――
「0―30」
ハルのリターンも深くに決まり、甘くなった返球を俺がボレーで決めた。
去年対戦した時よりも長尾のサーブスピードは確かに速くなっている。でも熊谷のサーブと比べればコースも甘いし球威もない。今の俺たちには全然怖くない!
「0―40」
「ナイスショット! 瞬!」
後ろで声をかけ続けてくれているみんなに頷き返す。
長尾のサービスゲームは勢いそのままブレークに成功。そこからは互いにサービスキープが続いたけど、第8ゲームにも長尾のペアからブレークを奪い、初戦のダブルスは6―2で勝利を飾った。
勝敗が決まった瞬間、長尾はその場に立ちすくむと自身の背中を小さく丸め、周囲なんて気にせず泣いていた。相棒もそれにつられて悔し涙を止めることはできなかった。それでも長尾の背中をそっと支え、言葉をかけ続けていた。
「……あり、がとう……ござい、ま、した……」
嗚咽の中からも長尾が必死に絞り出してくれた言葉を俺たちはしっかりと胸に刻み、「ありがとうございました!」と差し出された手を力強く握り返した。
お前の分まで戦い抜くからな。
全国まであと二つ。
二年前、不動先輩や長野先輩たちの背中を羨望のまなざしで見つめていた頃の俺からは想像もつかない舞台まで来た。高揚感はある。でも不思議と頭は冷静だ。頭の中にあるのはただ一つ、目の前の一戦一戦をどう戦い、どう勝つか。イメージは十分にできている、あとはそれを体現するだけだ。
フェンスの外で男子部員、女子部員、監督、全員で集まって大きな円陣を組んだ。試合に向けて最後の闘魂注入だ。
「吹野崎ぃーー!! 絶対勝つぞぉーー!!」
『オォォーーー!!!』
準々決勝。相手は第2シードの一条学園。光野たちのリベンジマッチだ。ただ去年の都大会ではあの白鷹を破って全国へ行っている。紛れもない全国区の強豪校だ。俺たちも全国へ行くにはそれまでに必ず全国レベルの相手を倒していかなければならない。でも大丈夫だ。俺たちならできる。
「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ。一条学園、サービスプレイ」
試合は相手サーブから始まった。スピードは決して速くない。でもどれも際どいコースを狙ってくるいいサーブだ。ラリーもしっかりと深くにつないできて、甘くなったところを前衛が見逃さずにポーチで決めてくる。堅実なプレーをするという印象だ。
堅実なプレーははたから見れば単調で地味なプレーに見えるかもしれないけど、その中でも球種を変えられたり、タイミングを変えられたりするから相手にするとすごくやりづらい。上手いというより、強い。
でも俺たちだってやられっぱなしじゃない。こっちもいつも通り並行陣で攻めていく中で、時にはベースラインに留まってはロブを使って相手を左右に振り回す。ロブだけじゃない。ドロップや角度をつけたボレーでも相手をかき乱していく。約10メートル四方の領域をいかに広く使って相手を揺さぶっていくか。前後、左右、そして上下に。
「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント3―3」
どちらも相手のサービスゲームをブレークできないまま一進一退の攻防が繰り広げられる。どっちが勝つか分からない試合。どっちが勝ってもおかしくない試合。おもしれぇ。ワクワクする!
『一条ぉー! ファイトー! いっぽーん! ブレーク!』
あの白鷹の凄まじい応援にも引けを取らない一条の応援。仲間に勢いを与え、相手の気持ちを砕かんとするように要所要所でボリュームを増してくる。試合が拮抗していればしているほど応援の力が勝敗を左右すると言っても過言ではない。
一条バックが盛り上がりを見せると相手のプレーにも勢いが増してきた。続く第7ゲームの相手のサービスゲームをキープされると、迎えた俺のサービスゲームも完全に相手の押せ押せムードに押されるように30―40とブレークポイントを握られてしまう。
「フォルト!」
更にファーストサーブもフォルトしてしまい、絶体絶命のピンチ。どうする?
答えは決まっている。俺たちは何者だ? 俺たちはチャレンジャーだ。守りに入っている時間なんてない。ここで攻めなきゃ絶対に勝てない!
セカンドサーブ。これまで執拗に狙い続けていた相手のバック側ではなくフォア側へ打ち込んだ。これには相手も予想を外したのか体勢を大きく乱し、リターンが大きく浮いてきた。
「ハル!」
俺の言葉よりも先に体を反応させると、背面バックとなる難しい体勢ながらしっかりとボールを地面に叩きつけてポイントを決めた。
「デュース」
『よっしゃー!』
恐れず攻めきることができた渾身のプレーに、お互い思いきりハイタッチを交わした。
これで流れを引き戻すことに成功し、このゲームはキープ。更に次のゲーム、応援のエネルギーが切れたのか相手の勢いがほんの少しだけ衰えたところを見逃さずに追い打ちをかけ、ブレークに成功した。
「さぁ、サービング・フォー・ザ・マッチだ!」
「うん! しっかり取って、絶対勝とう!」
俺が前衛で構え、ハルが後衛でボールを地面につく。さっきまではあんなに周りの声が聞こえていたのに、なぜだろう、今はハルが地面につくボールの音だけが鼓膜を揺らす。でも周りの音が全く聞こえなくなったわけじゃない。チームメイトの心強い声援はしっかりと聞こえている。相手の応援や隣のコートの打球音のボリュームだけが下がったという感じだ。
ハルがボールをつき終わった。少しの間の後、打球音とともにサーブが放たれ、ザッザッザッとハルが前へ走ってくる音が聞こえる。そしてザザーッと止まり、相手のリターンをボレーで返す。でもボレーの音が鈍い。真に当たらなかったんだろう。きっと返球は浅い。
「浅くなった!」
分かってる。ここはストレートをケアだ。
相手はハルの方向へ強打してきた。でも大丈夫。強打に対するハルの反射スピードは桁違いに速い。これは相手の方が命取りになる。きっとハルは上手く合わせて、デッドスペース(ベースラインとサービスラインの間のスペース)へ出てきた相手の足元を狙う。――思った通り、相手のボールスピードが速かった分、ハルが返したボレーのスピードも速くなり、逆に相手の反応が遅れた。体勢も詰まっている。俺はそうなると分かっていたから――
「15―0」
「ナイスポーチ!」
今俺は不思議な感覚に包まれている。言葉を交わさずとも次にハルがどんなボールを打つか、どこを狙うのか、まるで手に取るように分かる。そして俺自身の動きも洗練されていく感覚。
これまで何試合も何十試合も二人で戦ってきた結果、いつしか互いの考えが分かるようになったのかもしれない。でもそうじゃない気もする。なんだろう。分からない。でもこれだけは言える。
「ゲームセット、ウォンバイ吹野崎――」
試合が終わった瞬間、一気に周りの音が聞こえてきて我に返る。あぁ、もう終わてしまったのか。でも、すげぇ楽しかった。
相手と握手を交わしコートを出ようとすると、次の試合の堂上とすれ違った。
「頼んだよ」
「おう」
堂上はいつも通り静かに返事をするとベンチへ歩いていった。俺たちはコートを後にした。
「お疲れ! ナイスゲーム!」
「ありがとう」
早速太一や他のチームメイトに迎えられた。
「汗めっちゃかいたから着替えてくるね。あとトイレも行ってくる」
「おう。ゆっくり行ってこいよ。瞬が戻ってきた時にはもう俺たちの勝利は決まってるさ」
「試合は最後までなにがあるか分からないよ。でもまぁ、ゆっくり着替えてくるよ。応援よろしく」
太一の笑顔を後にして俺はコートを離れた。でも次に帰ってくると信じられないことが起きていた。
「堂上が押されてる?」
太一に言われてスコアボードを見る――0―2。ちょうど今のゲームも相手にキープされたから0―3へと変わった。
嘘だろ? あの堂上が押されているなんて。しかも俺が着替えとトイレに行ってからまだ十分そこらしか経っていないはず。こんな短時間にアイツが……
コートチェンジの休憩で堂上はベンチに戻り、腰をかけてタオルで汗を拭く。監督は堂上の前で膝立ちになり、身振り手振りを交えながら堂上にアドバイスを送っている。堂上は真剣な表情でそれを聞いている。
堂上は決して調子を崩しているわけではない。それはさっきのポイントを見ただけでも分かった。ただそれ以上に相手の勢いがすごい。打つショット打つショットが全部コーナーギリギリに決まり、それが更に自らの士気上昇へつながって押せ押せなプレーで攻めてくる。完全に手がつけられない状況だ。
「堂上の相手は個人戦の準々決勝で堂上に敗れて全国への切符を逃していたんだ。だから相当リベンジに燃えているみたいだったよ。さっき相手バックの近くを通った時に聞こえたんだ」
「そうだったのか」
全国を逃してリベンジに燃えている。まるで俺たちみたいだ。その執念には通じるところがあるから気持ちは分かる。でもここは堂上に勝ってもらわないと困る。俺たちの勝利がかかっているんだから。
休憩の終わりを告げるコールが主審からなされた。
「堂上ぃー! ここから挽回だぞ!」
俺たちの声援に頷くと堂上はサーブのポジションについた。
次の堂上のサービスゲームは苦しみながらもなんとかキープに成功。徐々に息も吹き返してきた。ただ最初のブレークが大きく響き、そこからは中々追いつけない。試合は両者サービスキープを続け、3―5で相手のサービスゲームを迎えた。
「ここをブレークできなければ負けだ」
「あぁ」
みんな祈るような想いで試合を見つめている。しかし終盤に入っても相手の勢いは衰えることを知らず、あっという間に堂上をマッチポイントまで追い詰めた。
「堂上せんぱーい! ファイトー!」
「一本ずつ行きましょー!」
応援に応えるように堂上も粘りを見せ、40―15から二本を取り返しデュースまで持ち込んだ。しかし――
「ゲームセット、ウォンバイ一条学園――」
今日最大の歓声が相手バックから上がった。
堂上が負けるところを初めて見た。それは俺だけじゃなくチームメイト全員がそうだろう。まさかあの堂上が負けるなんて、そう衝撃を受けているに違いない。
堂上はこれまでうちのエースとして絶対的な存在感を放っていた。それは勝利請負人という固定観念が部員全員に浸透していたから。それだけの力を堂上は確かに持っている。
でもそのプレッシャーは計り知れない。勝利を持ち帰ることがチームから当たり前のように思われ、試合に勝っても当然のことのように扱われる。みんなの期待に常に応えようとすることがどれだけ精神面に大きな負担を与えるか、俺にも似たような経験があるから少しは分かる。
ただいつも同じように期待に応えられるわけではない。誰にでも敗北を喫する時は必ずある。でも奇しくも堂上のその強さがみんなの期待を必要以上に大きくしてしまっていたのもまた事実だ。
堂上は静かにフェンスの扉を開けて出てくると、その場で下を向いて固まってしまった。表情には落胆の色を隠せないでいる。慰めてやりたいけど誰も声をかけられない雰囲気だ。ここはキャプテンの俺が、と思った時だった。
「堂上、俺に任せろ。絶対に勝つ」
南はそう言うと、「お疲れ」と言うように堂上の肩に手をやり、フェンスの扉を開けてコートへ入っていった。その姿を目で追う堂上の肩に俺は腕を回した。
「大丈夫だ。俺たちのS2を信じよう」
「……あぁ」
堂上は南の背中から目を離さずに頷いた。
「南のヤツ、大丈夫かなぁ」
隣の太一が心配そうに呟く。
「アイツ、この大会中1―1で回ってくる試合は初めてだろう? 俺、心配で心配で」
下を向く太一。今にも泣き出しそうな顔をしている。
この大会、いや今までも、いつも俺たち選手に一番大きな声をかけ続けてくれたのは太一だった。つらい時もきつい時も、太一の声にはいつも助けられていた。太一に「大丈夫だ!」って言われれば本当に大丈夫な気がしていた。でもきっと、今みたいに心の中ではいつも心配してくれていたんだろうな。俺と同じくらい、いや俺以上にチーム想いの太一だから。……ありがとな。
俺は太一の肩に腕を回した。
「南は絶対に勝つ。信じるんだ」
大丈夫だ。一目見ただけで感じた。さっきコートへ入っていった南の背中には凄まじい気迫がこもっていた。気持ちでは十二分に勝っている。それはプレーにも現われるはずだ。
「ゲーム吹野崎――」
「よっしゃーー!!」
自身のサービスゲームをキープし、南は力強くガッツポーズを決めた。
「そうだよな。応援隊長の俺が信じてやらなきゃ誰が信じるんだって話だよな!」
太一は自分の顔を二回パンパンと叩くと、はち切れんばかりの声で南に声援を送り始めた。俺も太一に続いて力の限り声援を送る。
試合は一進一退の攻防が続き、文字通り手に汗握る試合となった。南にも相手にもスーパーショットが飛び出し、互いに互いを称え合う好ゲーム。この試合でチームの勝敗が決する。誰が出てもそのプレッシャーは大きいものだというのに、南のヤツ、すげぇ楽しそうにプレーしてやがる。そうだよな。楽しいよな。楽しいんだよ、テニスは。勝ちたい気持ちとか、チームのためとか、今まで何度も倒れそうになったきつい練習とか、目の前のライバルとか、全部全部全部ひっくるめてテニスは楽しい。楽しくてしょうがないんだ!
最後の最後まで互いに一歩も譲らず、遂にはタイブレークへと突入した。どっちも打って、走って、拾って、また走って、決まったら吠える。どっちが勝ってもおかしくない、本当にギリギリの戦い。そして最後のポイントが決まり雄たけびを上げたのは――
「ゲームセット、ウォンバイ吹野崎――」
チームから大歓声が上がった。コート上で互いにガッチリと握手を交わす二人に両チームから盛大な拍手が送られる。
なにが勝因となったのかは誰にも分からない。でも南は最後の最後までボールにしつこく食らいついていた。二年間あれだけつらくきつい練習を乗り越えてきたんだ。少なくとも体力や気持ちでは負けないよな。
コートを出てきた南に一番最初に駆け寄っていったのは太一だった。それに続いて称賛の言葉とともにみんなで迎え入れる。
「みんな応援ありがとう! 本当に心強かったよ!」
意外にも冷静、というか疲れているんだな、きっと。
「南」
俺の隣にいた堂上が静かに歩み寄り、南の前に立った。
「南、ナイスゲームだった。本当に。……勝ってくれて、ありがとう」
いつも無口で誰かに話しかけることなんてなかった堂上の言葉に驚く一同。それでも南だけは落ち着いていた。
「だから試合前に言ったろ。『絶対に勝つ』って。俺だって選ばれたメンバーの一員なんだ。お前らにおんぶに抱っこじゃ全国なんて行けやしないからな」
そう言って南は堂上に拳を突きつけた。
「頼もしいな」
堂上も南の拳に己の拳を合わせた。
「でも、次は絶対負けんなよ」
「分かっている。俺はもう負けない」
互いに笑みを浮かべる二人。大接戦を制してよりチーム一丸になった感じがした。
全国まであと一勝。何度もつまづいて、壁にぶち当たって、その度にくじけそうになった。でも必死に耐えて、そこから這い上がって、その繰り返しでやっとここまで来た。遥か遠い先にあった全国という舞台も、仲間とともにつらくきつい練習を毎日乗り越えて、やっと目の前に見えるところまでたどり着いた。俺たちなら、このチームなら、きっと行ける。
そして次の相手は……
同会場で行われていたもう一つの準々決勝が終わり、白鷹のメンバーが前から歩いてきてすれ違う。その堂々とした風格から勝利を収めたのだと悟る。
偶然か、必然か、次の相手は白鷹だ。やはりこの宿敵を倒さない限り全国へは行けないということか。……上等じゃねぇか。燃えてきた。むしろこの再戦は願ったり叶ったりだ。
俺の口元には不思議と笑みがこぼれていた。
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