47.重圧再び
アラームが鳴る前に目が覚めた。寝起きは悪くなく、比較的スッキリとしていた。昨日は早くに布団へ入り、数十分は寝つけなかったものの十分な睡眠時間が取れたからだろう。でも今日から最後の大会が始まることを思い出すと、心臓の鼓動が一気に早くなる。無理やり深呼吸をして自分を騙すように落ち着こうとする。
起きてからはいつも通り顔を洗って朝飯を食ったけど、なにをするにもどこか手につかない感じがした。平らなはずの床で一度躓いた時は、「アンタ大丈夫?」と母さんに心配された。それ以外母さんはいつもとなんら変わらぬ様子だったから――そう努めてくれていたのかもしれないけど――それが俺にとってはせめてもの救いだった。
支度を終えて学校へ向かう。今日の試合会場はうちのコートだ。ホームゲームといっていい。そういった意味でも負けられない試合だ。
学校へ着くと既に一回戦の試合は終わっていた。勝って喜ぶ者、負けて涙を流す者。俺は自然と後者の方に目が引かれていた。
「おはよう」
「おはよー」
俺はみんなとのあいさつもほどほどに、学校へ到着するやいなや早速アップを開始した。ジョギングから始めて、柔軟、ステップ、ダッシュと続ける。今朝からなんとなく予感はしていたけど、実際アップをやってみて確信した。体が重い。これは昨日練習しすぎたせいでもなんでもない。原因は痛いほどよく分かっている。負けたら終わりというプレッシャーのせいだ。
「瞬、大丈夫か? 少し顔色悪いぞ」
ハルには気づかれたけど「大丈夫だよ」と突き返した。こればかりは俺の問題だ。俺自身で解決するほかない。
口の中に苦い味が広がっていく。この味に俺は覚えがある。でも今の俺はあの時とは違うと、自分に言い聞かせるように頭を振った。大丈夫だ。俺はできる。信じるんだ。
そうこうしているうちにも試合開始の時間が迫ってきた。試合前に気合いを入れるため、チーム全員で円陣を組むことにした。隣にいる太一の肩に回した自分の手が少し震えていることに気づいたけど、拳を握ってごまかした。
「今日から都大会が始まる。俺たち3年にとっては最後の大会だ」
円陣を組みながらキャプテンである俺がチームを鼓舞するために檄を飛ばす。口は動く。言葉も出てくる。でも俺自身は心ここにあらずというか、話しているのは自分自身なのに俺が一番上の空になっている。それでもキャプテンとしての責任感が嫌でも口を動かし言葉を紡いでいく。血の通っていない言葉を。
「絶対勝つぞぉー!」
『オォーー!!』
最初の試合はダブルスからだ。太一や南たちから激励の声をかけられながら、先陣を切るように俺とハルがコートへ入る。でもコートへ入ってみるといつも練習しているコートが今日は全く違う場所に感じた。まるで初めて来た他校のコートのよう――って、ダメだダメだ! 最初から気持ちで負けていてどうする! 大丈夫だ。俺はできる。もうあの時とは違うんだから。落ち着いていこう。
「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ。吹野崎、サービスプレイ」
ハルの最初のサーブはセンターに入った。熊谷からもサービスエースを奪うほどのサーブで早速チャンスボールが返ってくる。いつもなら俺がポーチに出てボレーで決める場面。でも一瞬だけ反応が遅れてしまった。そのせいでボールはラケットに上手くミートせず、フレームに当たって相手コートとはまったく別の方向へ飛んでいってしまった。
「0―15」
最初のポイントから嫌なミスをしてしまった。流れを悪くする前に早いところ取り返さないと。
「ゴメン」
「大丈夫だ。落ち着いていこう」
「うん」
ハルとタッチを交わし前衛の位置につく。
落ち着け。ミスはしょうがない。深呼吸だ、深呼吸。
続くポイント。ファーストはフォルト。セカンドはワイドいっぱいに決まった。けど――
「0―30」
相手バックから歓声が上がった。それに呼応するように相手ペアの士気も一気に高まる。ストレートを抜かれた俺はその場から動くこともできずただ立ち尽くしていた。
アドサイドでハルのサーブがワイドいっぱいに決まった時は、いつもならストレート方向を閉めている。仮にストレートを打たれたとしてもブロックしている場面だ。たださっきはそんなこと頭にもなかったし、完全に体が硬直していた。
ダメだダメだダメだダメだ。こんなんじゃまるであの時と同じじゃないか――
「瞬」
ハルに声をかけられてハッとする。
「今のは仕方ない。切り替えよう」
「……うん」
しかし、その後もなにかやろうとする度にミスをしては落ち着こうと思いじっと構え、逆にじっとしているとチャンスをみすみす見逃すばかりで、どんどん泥沼にはまっていく。かろうじてハルがつないでくれてはいるけど、俺がミスしたり消極的なプレーをしている分、さすがに一人では対処しきれず相手にポイントを積み重ねられる展開が続いた。結果、最初のハルのサービスゲームはブレークされてしまい、反対に次の相手のサービスゲームはラブゲームキープを許し波に乗られてしまった。終いには俺のサービスゲームでダブルフォルトを連発する始末……
もう最悪だ。体は鉛のように重く、頭は真っ白。視界も狭くなり、周囲の音などまるで聞こえない。唯一聞こえてくるのはただただ早まるばかりの己の呼吸音だけだ。ボールを打ってもミスをするか相手に決められるイメージしか湧いてこない。ボールを打つことが怖い。ミスをして負けることが怖い。
「ゲーム西和大付属。ゲームスカウント3―0。コートチェンジ」
主審のコールに相手はベンチへ戻ろうとするけど、俺はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
チームのために戦わなくちゃいけないってことは分かっている。でも足が、手が、どうしても動かない。
鉛のように重く感じる体。なにをしてもミスをすることしか頭をよぎらないイメージ。敗北への恐怖心……。俺はこの苦い味を知っている。つい昨日までは忘却の彼方へ葬り去っていた過去の記憶。そう、三年前の〝あの試合〟だ。
三年前、中学最後の夏。俺はサッカー部の、チームのエースとして最後の大会に臨んだ。新チームが発足してからは、秋、春の大会と順調に順位を上げていき、夏の大会では本気で全国を目指していた。十分全国を狙えるだけの力のあるチームだった。
でも試合当日、俺は〝負けたら終わり〟というプレッシャーに呑まれ、チャンスをことごとく外し、終いには足が動かなくなってしまった。
俺がゴールを決めるんだ。俺がチームを勝たせてみんなを全国へ連れていくんだ。最初はそう思っていた。でもそれが次第に、これに負けたら終わりだ、ミスをしたらダメだ、という思考に変わっていった。ただただ怖かった。なにもできなかった。
あれから三年が経った。あの時とは周りの環境も異なるし、俺も大分変わった。でも結局、俺は三年前の〝あの試合〟からなにも変わっちゃいなかったんだ。最後の大会というプレッシャーや敗北への恐怖心に負けて、今日もなにもできずに終わるんだ。あぁ、なんて情けない。俺はまた同じ過ちを――
「そうやって、また一人で自滅する気か!」
チームの誰のでもない、でも確かに聞き覚えのある声がした。声のした方向を見ると、そこにはなんと赤井の姿があった。
俺は目を疑った。なぜアイツがここに? いや、それよりもアイツに言われた言葉。また一人で自滅する気か。あれは一体どういう意味だ……
「瞬」
ハルが俺に語りかける。とても優しい口調で。
「アイツの言う通りだよ。俺たちは決して、俺たちだけで戦っているわけじゃないんだぜ。見てみろよ」
ハルに促されるままコートの後方を見た。そこにはフェンスの外から口を目いっぱい開けて、喉をからして、俺たちのために必死に声援を届けてくれている仲間たちの姿があった。太一、南、山之辺、川口、堂上、そして後輩たち。……そうだ……そうじゃないか!
ラケットにみんなが書いてくれた寄せ書きをなぞる。『一球入魂!』『絶対全国行くぞ!』『お前は一人じゃないからな』……
「耳を澄まさなくても聞こえてくるアイツらの声。ホント力になるよな。俺だって上手くいかない時もある。でもそんな時はアイツらの声に心を委ねるんだ。そうすれば自然と答えは出てくる」
みんなの声に心を委ねる……。俺はハルの言う通りみんなの声に心を委ねてみた。……聞こえる。確かに聞こえる。二年間、幾多の苦難をともに乗り越えてきた仲間たちの声援が。たとえ自分がメンバーに選ばれなくても、一生懸命に応援してくれている声が。
「瞬」
ハルの言葉に振り返る。
「確かに俺たちは選ばれたメンバーだ。だからチームのために、選ばれなかったみんなのために戦うのは当然だ。でもその気持ちは決して一方通行なんかじゃない。俺たちがみんなのために戦うのと同時に、みんなだって俺たちのために必死になって声援を送ってくれているんだ。俺たちは決して俺たちだけで戦っているわけじゃない。つらい時は互いに支え合う。それがチームだ」
つらい時は互いに支え合う……。それがチーム……。
「誰だってミスをするのは怖いさ。試合に負けるのもね。でも、瞬は一人じゃない。みんながいる。俺もいる。だから一人で戦おうとするな。つらい時はみんなで乗り越えよう」
ハルはそう言うとニコッと笑った。
思えば〝あの試合〟の時も俺はプレッシャーからくる恐怖心に呑まれていた。そこから抜け出そうと
でも今、赤井とハルの言葉が思い出させてくれた。俺は決して一人で戦っているわけじゃない。俺にはこれだけ多くの、心から信頼できる仲間たちがいるじゃないか。
俺はみんなの方へと歩いていった。
「みんな……俺に……俺に力をください!」
俺はそう言って頭を下げた。みんなからの答えはすぐに返ってきた。
「なに言ってんだ! 当たり前だろ!」
「俺たちの応援はこんなもんじゃねぇぞ! 覚悟しておけ!」
「いつまでもウジウジしてたら代わりに俺が出るぞ!」
「瞬なら絶対勝てるよ! 自信持っていこう!」
みんな……
ガチガチだった体の緊張が徐々にほどけていくのを感じる。代わりにみんなからの精いっぱいのパワーが体の隅々まで浸透していく。力が漲ってくる。
「さぁ、反撃開始といこうぜ!」
振り返るとそこにはハルがいて、ニコッと笑いながら俺に手を差し出してくれていた。
「うん!」
俺はその手をそっと叩き、主審のコールと同時にリターンについた。俺の心からはもう恐怖心は消えていた。
「ゲームセット、ウォンバイ吹野崎――」
試合はなんとか逆転し、7―5で競り勝つことができた。相手と握手を交わしてコートを後にする。
コートを出ると応援してくれていたみんなが近寄ってきてくれて、「お疲れ!」と手を差し出してくれた。俺は心からの「ありがとう」を伝え、みんなの手にタッチしていった。――そうだ!
俺は思い出したようにその場を離れ赤井の姿を探す。でも近くには見当たらなかった。
「あの人ならさっき出ていきましたよ。急げばまだ間に合うと思います。――あっ、荷物預かりますね」
「分かった。ありがとう」
そう言ってくれた土門に荷物を預けて追いかける。校門を出たところで青葉並木の先を行く一つの人影を捉えた。
「赤井!」
俺の声に人影は立ち止まって振り返る。俺は走って赤井の元へ急いだ。
木々の間から優しく漏れてくる陽光が赤井の顔を照らしている。その表情は今までになく穏やかに見えた。
俺は赤井の目の前まで行き、膝に手をついて息を整える。
「あのさ……ありが――」
「勘違いするな。俺も過去を清算しに来ただけだ」
言葉はぶっきらぼうだけど、その口調はいたって穏やかだった。
「あぁ、分かってる。でもさっきはお前のお陰で助かった。礼を言わせてくれ。ありがとう」
赤井は黙ったまま俺を見た後、視線を上方の木々へと移した。
こうして赤井と真剣に面と向かい合うのはいつぶりだろうか。中学の頃はしょっちゅう言い争いをしていた仲だったからこういう場面は何度もあった。結局いつも折り合いがつかずに終わっていたけど。
「……俺はお前が許せなかった」
静かな声で赤井は話し始めた。俺は黙って赤井の言葉を受け止めようと思った。
「〝あの試合〟、お前が明らかに調子を崩しているのは分かっていた。最後の大会だし、力も入る。それにお前のことだ。どうせ『俺がゴールを決めて勝つんだ』って気負いすぎて、自らプレッシャーを大きくしていたんだろう」
赤井の言う通り、俺は自分で自分の首を絞めていたのかもしれない。今日の試合のように。
「もちろん俺たちも緊張はしていたけど、なんとかしなくてはと思っていた。お前へのマークはきつかったし、サポートにも入ろうとしていた。そして一瞬だけ、お前がボールを持った時に俺がゴール前でフリーになった瞬間があった。でも!」
次第に荒ぶる赤井の語気。そして目が、あの時のそれへと化していた。思い出されるあの日の苦汁。早まる鼓動。俺は必死でそれらを抑える。
「お前はあの場面でさえも俺にパスはせず、自分で決めにいく選択をした! いつもより動きが悪くても、マークがきつくても、そっちの方が勝てると思ったからだ! そしてその結果負けた! ……俺はそれに抑えられない怒りを覚えて、お前にぶつけた」
コートでは俺たちの次の試合が始まったのか、校舎の奥から歓声が響いてくる。
「でもお前に怒りをぶつけても、俺に残ったのは悔しさと虚しさだけだった。お前に信頼されていなかった悔しさと、それを心のどこかで悟っていたのにお前に当たってしまった虚しさだ。そして気づいた。俺が腹を立てる相手はお前じゃなく自分自身だったんだと」
「それは違う!」
咄嗟に言葉が出たことには自分でも驚いた。でも今まで言えなかった想いを今なら全部吐き出せる気がした。
「〝あの試合〟に負けたのは全部俺のせいだ。全部俺一人で勝とうとして、勝手に突っ走って、結局最後はプレッシャーに打ち克てずなにもできなかった。俺の独りよがりなプレーのせいで負けたんだ」
赤井は表情を一切変えず、ただ静かに俺の話を聞いていた。時折風に流されてきた青葉が俺たちの間を通り過ぎていく。
「最初からこうやってお互い素直に話していれば、なにか変わっていたのかもしれないな」
赤井はそう言うと苦笑しながら再び空を見上げた。その顔には清々しささえ感じた。
今更過去は変えられない。〝あの試合〟の後、俺は心の苦痛に耐えきれずサッカーをやめる選択肢を取った。その選択には全く後悔なんてしていない。そのお陰でハルやテニス部のみんなと出会えたし、今の俺がある。でも赤井の言うように、もっとお互い素直に話していればまた違う道もあり得たのかもしれない。あの時はそんなこと思いもしなかったけど。
赤井は静かに視線を俺に戻し、俺も赤井の目を見た。その目にはもうあの日の憎しみや怒りといった感情はなかった。澄んだ、とても清々しい目をしていた。
「今のお前の周りには頼れる仲間があれほどいるんだ。もう迷うなよ」
そう言うと赤井は背を向けて去っていった。俺は赤井の姿が見えなくなるまでじっと、なにも言わずにその背中を見続けた。
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