45.敗北
最初は遥か先に見えた熊谷と新の背中。俺とハルは二人に追いつこうと必死に追いかけてきた。一時はその背中に手が触れた。でもその途端、二人の姿は突如として高く、険しい壁へと化した。最初は呆然としたものの落ち込んでいる暇なんてないと思い、俺たちはその壁を乗り越えるべく二人で協力して登り始めた。登り始めてみるとその岩壁ははたから見るよりも険しく、そして高い壁だった。じりじりと体力と精神を奪われていく。やっとのことで登りきったと思ったらまた同じだけの高さがある壁が現れた。心はやられそうになった。でもハルと一緒だったからがんばれると思った。しかし二つ目の壁を登りきった先にはこれまでよりも高い高い壁が待ち構えていた。その壁を見てハルは「これが最後だ」と言った。俺もそう思った。そしてまた一歩ずつ歩みを進めた。この先に頂上があると信じて。遅くても一歩ずつ、一歩ずつ進んだ。徐々に頂上も見えてきた。その瞬間、俺の鼓動は早くなり、絶対に登りきってやると思った。そして最後の力を振り絞り頂上に手をかけた。しかし向こう側に見えたまばゆい光に目が眩んでしまい、焦ってしがみつこうとした手は壁から滑ってしまった。俺たちはそのまま真っ逆さまに谷底へ落ちていった。
スマッシュした打球はベースラインをボール二つ分越えてコート外にボール痕を残し、後ろのフェンスへ激突した。主審からはデュースのコールがなされた。
俺は頭が真っ白になった。このポイントを取れば熊谷のサービスゲームをブレークできたという場面。しかもチャンスボールだったというのに……
確かに落下してくるボールが太陽と一瞬かぶって見えづらかったのはあった。でもそんなことは今まで何度もあったし、落ち着いていれば決められた。言い訳にすぎない。俺は……俺はなんてことを……
「君、早く戻りなさい」
ネットの前で突っ立たままだった俺を主審が注意する。
「瞬、まだチャンスはある。ここは切り替えだ」
この試合で一番と言っていいほど大事なポイントをミスしても、ハルはいつものように元気づけてくれる。でも、このポイントだけはなんとしても取らなければいけなかった。これまで何本エースを取られようとも、何本ストロークで押されようとも、その全ての球に食らいつき、返し続け、1ポイントずつ積み重ねてきたのは、二度と現れないかもしれないブレークポイント、そう、今のポイントを取るためだったというのに!
これで熊谷は息を吹き返し始め、連続サービスエースでゲームをキープした。完全に勢いづいた熊谷たちは続くハルのサービスゲームでも前のゲームの勢いそのままに攻め続け、二本のミスはあったものの気づけばブレーク。試合は終わっていた。
黄昏の空をぼんやりと見つめながら、心はここにあらずというようにベンチに座っている。こうしてからもう何十分と経っただろう。
「はぁ」
溜め息をしては視線を眼下のコートに下げ、また遠くの空を見上げる。その繰り返しだ。
「ほらよ」
声の元を見上げると缶ジュースを俺に差し出すハルの姿があった。その顔にはいつもの笑顔が宿っていた。
「ありがとう。……あっ、お金」
「いいって」
そう言ってハルは俺の隣に座った。
「惜しかったなぁ。ホントにあと一歩だった」
黄昏から茜色に変わりつつある空を見て言う。
「でも負けた」
プシュッ、とハルは缶の栓を開けてコーラを一気に飲み干す。
「プハー。うめぇ」
炭酸があとから来たらしく、カラスも驚いて飛び立つほどの盛大なゲップをかましている。いつもなら「汚ないよ」ってハルを怒っているところだけど、今の俺にそんな元気はなかった。
「ゴメン……俺があそこで決めていれば勝っていたかもしれないのに。俺のせいだ」
「だーかーらー」
ハルは後ろに手をついて、茜空に語りかけるように言葉を発す。
「ダブルスにどっちのせいなんてない。両方の責任だって。俺だってファーストセットに二回もダブルフォルトしてセット取られたんだぜ。おあいこだ」
「でも――」
「でーもーじゃーなーいー」
俺の言葉を制止するなりハルは笑った。
「なんか前にもこういうことあったよな」
言われてみれば確かにそうかも。
「ホント瞬は変わらないよな。いつも一人で考えすぎ。そういうところは頑固なんだから」
頑固? 俺って頑固なのか? 全くもって自覚がなかった。
「その顔、自覚なしってところだな」
ハルは声に出して笑っている。
「まぁそこが瞬のいいところでもあるんだけどな。それにしても今日の俺はダメダメだったな。最後のセットも俺がブレークされて終わっちゃったわけだし。あーあ、今日俺2ブレークもされちまったのか。ショックだなぁ。完全に瞬の足引っ張ってんじゃん」
「そんなことないよ! 俺のサービスゲームはハルのお陰でキープできたところもあったし! それに俺、ハルがいなかったら――」
「分かった分かった。ありがとな」
ハルはニコッと笑った。でも見間違いだろうか、今の笑顔にはいつもみたいな屈託さが感じられなかった。
「でも、正直今日は俺より瞬の方が断然いいプレーしてたよ。ううん、俺よりもじゃない。あのコートの中で一番だった」
一番……ハルよりも、新よりも、そして熊谷よりも、俺が一番いいプレーをしていた。――いやいやいや、それはないでしょ。でも……
思い出される数々のシーン。泥臭く返し続けた熊谷のサーブ。始めてブレークを成功させた新のサービスゲーム。競り合いながらも主導権を取り続けた並行陣や相手の勢いを食い止めたロブショット。
その中で俺はどうだった?
試合中、俺に向けられていた熊谷と新のまなざし。どちらが試合を制するか先が見えない高揚感。ハルと交わしたいくつものタッチの感触。
確かに俺は戦えていた。以前は遥か遠くに見えていた熊谷たちの肩を確かに触った。触るところまではいったんだ。
「だから俺のせいだなんて言うな。もっと自信を持ってもいいんだぜ」
自信か。そんなもの、今まで考えもしなかった。持っていいものだとも思えなかった。ただひたすらに目の前のボールに食らいつく、そのことばかり考えていたから。でも、もういいのかもしれない。俺は証明した。俺はできる、俺は戦えると。
「……うん。分かった!」
「よし、いい顔になった。――となると、実際のところ負けたのは2ブレークも許した俺のせいかもな」
「ダブルスにはどっちのせいもない、でしょ?」
少し間を置いてハルの笑い声が響いた。今度はその笑顔にいつもの屈託さが宿っていた。
「言ってくれるじゃねぇか。でもそうだった」
夕日は静かに沈み始め、その顔の下半分はもう見えなくなっていた。
「こうやって負けたらいつもここに来てさ、反省会して、よし、次がんばるぞって気合い入れてたよね」
「そうだな」
「でも、それも今日で最後にしたいな」
不意に出た言葉だったけどハルも頷いてくれた。そして俺たちはおもむろに立ち上がった。
「次ここに来る時は、全国行きを決めた時だ。あの夕日に誓う!」
「俺も!」
二人で沈みゆく夕日に向かって拳を突き上げた。力いっぱい握った。それは夕日が完全に沈むまで続けた。
夕日が完全に沈むと辺りは薄明に包まれた。俺たちは突き上げていた拳を静かに下した。眼下のテニスコートにも照明が照らされ、二面あるうちの一面では黄色いボールが行き来している。それに気づいた俺たちは同じことを思い、ベンチに立てかけていたラケバを担ぎ一目散に駆け下りた。
コート空いてるし打たない?
そんなこと言わなくても互いの気持ちは同じだった。
瀬尾・桜庭ペア 東京都高等学校テニス選手権大会 個人戦ダブルスの部 ベスト8
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