44.リベンジ

 ベンチへ戻るとハルはタオルを首にかけ、水も飲まずにイスに座った。俺は立ちながら顔や首元の汗を拭って水分を補給する。

「アイツらがあんなにやれたとはな。ここまで俺たちを楽しませてくれるとは思わなかったぜ」

 ハルはそう言ってからやっと水を飲んだ。

「でも、ハル笑ってる」

「えっ、そうか?」

 自分で自分の頬を触って確かめる。頬をグリグリ回すも、自分では分からなかったのか首を傾げている。頬肉を顔の中心に寄せたまま困り顔を見せるもんだから俺は思わず吹き出してしまった。それにつられてハルも笑う。

「でも気が抜けているわけじゃないからな」

「分かってるよ」

 今度は真面目な表情でお互い頷いた。

「さぁ、次のゲームをキープしてタイブレークだ! そして勝ぁつ!」

「うん!」

 タッチを交わし、コートへ戻った。

 5―6で迎えた俺のサービスゲームも一進一退が続いた。俺たちからすればこのゲームを取られれば負ける。でも今はそんなことなど頭の隅にもなかった。今が楽しい。この試合が最高に楽しい。それしか考えられなかった。

「ゲーム瀬尾・桜庭ペア。ゲームスカウント6―6。タイブレーク」

 タイブレークに入ってからも均衡状況は変わらない。こういう試合で勝敗を分けるものは一体なんなのか。経験、技術、練習量……。それは分からない。でも確実に言えることは、気持ちで負けたら決して勝てないということだ。それは向こうも同じこと。「勝ちたい」という貪欲なまでの互いの意地と意地が真正面からぶつかり合い、火花を散らす。そして――

「ゲームセット、ウォンバイ瀬尾・桜庭ペア」

 最後のポイントを決め、試合終了を告げる主審のコールとともに俺たちはネットへと歩み寄る。ネットの向こう側では肩を落とす山之辺に川口が近寄り、なにか言葉をかけた思ったら互いに笑顔を浮かべていた。表情からも清々しさを感じた。そして俺たちの方へと歩いてくる。

「負けたよ。でも最後に戦えたのがお前らでよかった」

 そう言うと山之辺は俺に向かって手を差し出してきた。俺はその手を握った。

「あの時はあんなこと言ってすまなかった」

 山之辺は俺の手を握ったままそう言った。あの時とは去年の都大会団体戦のオーダー発表の時のことを言っているんだろう。確かにあの時はいろいろとあった。でも、そんな山之辺と今日はいい試合ができた。全力でぶつかれて楽しかった。全て言われずとも、この試合で受けた数々のボールから山之辺の気持ちは伝わった気がした。

「あぁ、もういいよ」

 俺はそう言って山之辺の手をギュッと握った。山之辺もそれに応えて握り返してくれた。

「次、アイツらとだろ。勝てよ」

「うん」

 ネットを挟み、俺と山之辺は笑い合った。今までのいざこざなんて忘れて、心の底から笑い合った。胸の中でつかえていたのものはいつの間にかなくなっていた。



 都大会個人戦ダブルス、本選準々決勝。

 いよいよ全国への扉も垣間見えてきた。個人戦ダブルスで全国へ行ける枠は二つ。つまり全国へ行くにはあと二回勝って決勝戦まで行く必要がある。ここまで来るのにも何個も白星を積み重ねてきたけど、それもあと二回。あと二回勝てば念願の全国だ。俺もハルも気合いが入らずにはいられない。

 今勝ち残っているのは全部で8ペア。ここからはどこと当たっても全国レベルの戦いが要求される。でもここで勝たなければ全国への扉は決して開けない。絶対に勝って、その扉をこじ開けてみせる。

「おーいたいた」

 向こうの方から太一と南が俺たちに向かって手を振りながら近づいてくる。太一たちは先日の本選二回戦で負けてしまい、今日はわざわざ俺たちの応援に来てくれた。

「遂に準々決勝か。お前ら、すげぇところまで来ちまったな」

「なに言ってんだよ太一。ここはあくまでも通過点。俺たちが目指すのは全国だって言ってるだろう」

「そうだったな。頼もしい限りだ」

 試合に向け談笑していると太一が急に俺から視線を外した。と思ったらなにかを睨むように俺の後ろを見る。

「……なんでアイツが」

 俺も後ろを振り返ると山之辺と川口の姿があった。太一が睨んでいたのは山之辺の姿が見えたからだろう。太一の睨みにもお構いなしという風に山之辺は俺たちに近づいてきた。

「なにしに来たんだよ」

 すかさず太一が威嚇せんとばかりに山之辺に噛みついた。

「俺たちに勝ったヤツらの試合を見に来ただけだよ。悪いか?」

 言い方はともかく、山之辺は素直に事実を述べただけなんだけど、それでも信じきれていない太一は山之辺に向かってガン飛ばしている。ホントにこういうところは太一はバカっていうか、誰かさんに似ているっていうか。当の本人を見たら、「なに?」と全く心当たりがないというような顔をされたもんだから自覚はないんだろうな。分かってはいたけどさ。

「太一、もういいんだ」

「なにが?」

 太一は俺に答えるも山之辺から一向に視線を外そうとしない。

「だから、もう山之辺とはそういうのじゃないんだよ」

 そう言うと太一は「え? そういうのじゃないって、どういうこと? え?」と急にオドオドし始めて困った顔を浮かべた。

「俺たちに勝ったんだから優勝してもらわないとな」

「もちろんそのつもりだよ。じゃなきゃはなから全国へ行くなんて言わないよ」

 俺が山之辺と少し話をしただけで太一は更に困惑していた。あとでちゃんと説明してあげないとな。

「そうこうしているうちにも相手さんが来たみたいだぜ」

 南が視線を促す先には久しぶりに見る大男と金髪の二人がいた。

「アイツら、スーパーシードだろ?」

「あぁ。だからアイツらにとってはこれが初戦だ」

 スーパーシードになると予選はもちろんのこと、本選でもいくらか試合が免除される。なんとも羨ましい限りだけど、もちろん実力に見合った者しか選ばれない。個人戦ダブルスではスーパーシード枠は四つあり、それぞれが準々決勝からスタートする。しかも熊谷たちはその中で最も数字が少ないシードだ。

「まっ、スーパーシードといっても勝ち上がっていけばその中の誰かには必ず当たるんだ。今回はそれがアイツらだったってこと。それだけの話だ」

 ハルは相手が第1シードだろうが微塵も気にしていない様子だ。もちろん俺も。

「うん。それに何試合も勝ってきた俺たちの方が試合慣れしているし、なにより勢いがある」

「そうだぜ」

 ハルと顔を見合わせてニコッと笑った。

 熊谷たちも俺たちに気づいたようでこっちへ近づいてきた。

「お二人さん久しぶりやなぁ」

 最初に話しかけてきたのはやっぱり新だった。

「久しぶり」

「ドロー見た時からこの試合を楽しみにしてたでぇ。決勝戦やないのが残念やけどなぁ」

 ハハハ、と笑ったと思ったらすぐに真剣なまなざしを向けてきて俺たちを威圧してくる。

「今日はよろしゅう」

「ああ」

 新に呑まれないよう俺たちも威勢よく答えた。横の熊谷からは立ち去り際に「よろしく」と言われた。

 二人の背中を見ながらハルが話しかけてくる。

「瞬、去年の選抜戦のこと覚えているか?」

「もちろん、覚えているよ」

 忘れもしない。あの時、俺たちは初めて熊谷たちと戦い、1セットマッチのゲームスカウント4―6で負けた。でも悔しかったのはスコア以上に俺たちとアイツらとの間で大きな力の差を感じたことだ。特に熊谷のサービスゲームではなにもできずに終わった。

「リベンジだね」

「あぁ。今日は俺たちが勝つ」



「ザ・ベスト・オブ・3セットマッチ。熊谷・新ペア、サービスプレイ」

 因縁の相手との対戦が始まった。

 前回の試合と大きく異なる点は3セットマッチだということ。つまりは長期戦だ。長期戦は体力に自信のある俺たちに有利に働くはずだ。じわじわと相手を削っていこう。

 相手のサーブはもちろん熊谷からだ。前回、あの高速サーブには手も足も出なかった。でもあれを返さなければ俺たちに勝機はない。準備はしてきた。返すイメージもできている。さぁ来い。返り討ちにしてやる。

 熊谷はボールを七回地面につくと、身長の二倍近くまで高く、高く、トスを上げた。その巨体からは想像もつかないほどしなやかな反りが描かれたトロフィーポーズ。その美しさにはつい見惚れてしまう。そして地面を蹴り上げ、反りを戻す反動を全て力に変えて放たれたボールは俺に一切の反応を許さず、黄色い残像だけを残して後方のフェンスへ激突した。

「15―0」

 想像以上だった。前回の敗戦から熊谷サーブへの対策として毎日リターン練習をしてきたから対策は万全だと思っていたけど、それ以上だ。成長しているのは俺たちだけじゃないってことか。

「バケモノがまた化けやがったな。俺も返せるかどうか分からねぇぞ、アレ」

 ハルも驚いたという顔をしている。

「この試合中に慣れるしかないな。でも簡単にポイントを取られていてはダメだ。それじゃ種まき・・・はできない」

「うん。とにかく少しでも触ろう」

 しかし続くハルのリターン、そして俺のリターンと、ボールに触りはしたけどラケットを吹っ飛ばされるほどの勢いでサーブポイントを奪われ、結局最初の熊谷のサービスゲームはキープを許してしまった。ただ40―0となったハルのリターンではなんとか相手コートへ返すことに成功し、その後も熊谷と新に何度も打ち込まれたけど粘ってポイントにつなげられたことは大きかった。

「今のゲームは仕方ない。これから攻略していかなきゃいけないけど、ここは次のゲームに向けて気持ちを切り替えよう」

「そうだね」

「で、次のゲームだけど、最初は雁行陣でいこうと思う」

「並行陣は使わないってこと?」

「少なくとも次のゲームはな。長期戦は引き出しが多いほど有利だからな。それにアイツらの前で俺たちはまだ並行陣を見せていない。この状況を利用しない手はないだろ。最初から見せて慣れられるより、ここぞという場面で使った方が相手を混乱させることができる」

「分かった」

 雁行陣は元々使っていた陣形だ。それにこういう場面があることも想定して並行陣と同時に雁行陣の練習も続けてきた。ここは臨機応変に対応してみせる。

 ハルのサービスゲーム。熊谷には徹底してバックを狙い、簡単には攻めさせない。新サイドでは前衛の熊谷の長いリーチに捕まらないようラリーではサイドギリギリを攻め、タイミングを見計らって俺がポーチへ出てポイントを稼ぐ。

 新サーブを挟んで俺のサービスゲームも同様に攻めていく。やはり一番警戒すべきは熊谷だ。アイツが後衛の時は強力なフォアが待ち構えていて、前衛の時はその長いリーチを活かしたポーチが猛威を振るう。アイツに自由にやらせないためには中々の我慢のテニスを強いられる。まるで針の穴に糸を通すようなコントロールが要求される。もちろんそれで完全に熊谷の猛威を封じられるわけではない。熊谷にフォアで回り込まれた時は一撃で窮地に追いやられてポイントをかっさらわれる。

 それに新も頭のキレるヤツだ。俺たちの狙いを瞬時に察知すると、ストレートや鋭角クロスと広角に打ち分けてきて簡単には攻める隙を与えてくれない。ただそこは俺たちも想定内だ。緩急、球種、ボールの回転量、前後左右への揺さぶり、ストレートアタック、あらゆる手段を使って相手を崩していき着実にポイントを積み重ねる。

 幸い俺に関して言えば今日はサーブの調子がすこぶるいい。スピードも遅く球威もなかったゆえに今まで狙われることが多かった俺のサービスゲーム。その悔しさから練習に練習を重ねてきたけど、この都大会でやっとその成果が実り始めている気がする。といっても、それでもやっとこさキープできている状況だけど。

 ただ、なによりもダブルスは二人の連携が勝敗を分けるカギになる。後衛がつくり出したチャンスを前衛が見逃さずに決め、前衛からジワジワとプレッシャーをかけていく。

 そうしてサービスゲームが二巡した。相手は難なく、俺たちはギリギリのところで互いにキープし、ゲームスカウントは4―4。三度熊谷のサービスゲームを迎えた。

「15―0」

 熊谷の球速は衰えることなくむしろギアが上がってきており、最初のうちは

さほど厳しくなかったコースも次第にラインいっぱいに決まり始めている。俺たちも熊谷のサーブスピードに慣れ始めてきてはいるけど、ここまでコースが厳しいと触るので精いっぱいだ。でも、それでいい・・・・・

 結局このゲームもブレークは叶わず、続くハルのサービスゲームを迎えた。

「ここは絶対キープして次につなげないとな」

「うん。前からも揺さぶりをかけていくよ」

「頼んだ」

 そう言うとハルは俺にタッチしてそそくさとベースラインへ歩いていった。いつもならニコッと笑う場面な気がしたけど……まぁ考えすぎか。よし、ここは俺もガンガンポーチへ出て攻めていこう。

 前衛の位置につくといつもより半歩前に出てラケットを構えた。立ち位置を変えたのは「攻めるぞ」という姿勢を相手に見せるため。少しでも相手にプレッシャーをかけられればそれでいい。

 後ろでハルがボールを地面につく音が聞こえる。1、2、3、4、5。その音がやみ、熊谷が身構える。俺も構え直す。しかしボールはパシッと白帯に音を立ててぶつかり、俺の足元に転がってきた。

 フォルトだ。時間を空けず、すぐにまた後ろからボールを地面につく音が聞こえ始める。俺は前だけを見て構え続ける。ボールの音がやみ、セカンドサーブが放たれる。が――

「ダブルフォルト。0―15」

 ボール一つ分のオーバー。セカンドだったけど入っていれば十分攻めに転じられるサーブだった。これは攻めた結果のミスだから仕方ない。

「ドンマイドンマイ! フォルトだったけどナイッサーだよ」

「ゴメン。次は決める」

 ハルとタッチを交わして再び前衛の位置につく。

 そういえばハルがダブルフォルトするって珍しいな。俺の記憶だと今まで片手で収まるくらいしかしていない。俺は両手と両足を使っても数えきれないほど犯しているけど。

 さっきは攻めた結果のダブルフォルトだったけど、それだけハルがこのゲームを重要視しているってことだし、このゲームを取るには攻撃あるのみってことだよね。俺もネットにガン詰めするくらい超攻撃的ポジションについた。

「フォルト」

 またしてもファーストはボール一つ分外れた。でもセカンドも攻める。攻めて、攻めて、攻めるんだ。

「ダブルフォルト。0―30」

 三度一つ分のフォルト。ハルが二回続けてダブルフォルトするなんて今まで一度もなかったことだ。どうかしたんだろうか。――いや、俺が意気消沈していたらダメだ。今一番気持ちが沈んでいるのはハルなんだから、なんとか俺が励まさないと。

「ドンマイ! 気にすんなハル。コースもいいし、ボールもキレてる。次は絶対決まるよ。このまま攻めていこう」

 責任を感じているのか、ハルは歯を食いしばり「ゴメン」と呟いた。こんなに元気のないハルを見たのは初めてかもしれない。体調でも悪いのか? これまでのゲームを見る限りではそうは見えなかったけど。

「ピンチだけど、ここから挽回することだけ考えよう」

「おう」

 そうは言ったものの二回のダブルフォルトで失ったポイントは大きく、結局このゲームはブレークを許してしまい、ファーストセットは奪われた。

 ベンチへ戻るとハルはすぐに頭の上からタオルをかぶった。横からだとその表情は隠されていて見ることができない。顔から滴り落ちた汗だろうか、膝の上で組んでいた両手に当たって弾けた。よく見るとその両手は震えていた。

 表情は見えないけどハルからは鬼気迫る雰囲気を感じる。さっきのゲームを落とした責任を感じているのだろうか。それとも急に体調でも崩したのだろうか。まさか、どこかケガでもしたんじゃ?

 慌ててハルの肩に触ろうとした時、ハルはかぶっていたタオルを取ると俺を見てニコッと笑った。

「ゴメン。でももう大丈夫だ」

「……へっ?」

 いきなりすぎて俺は手を伸ばしたまま固まってしまった。

「俺は今日という日を待ちに待っていた。やっとアイツらと戦える。前回のリベンジができる。そう思っていたら少し力が入っていたみたいだ。でももう大丈夫」

 そう言ったハルの手からは震えがなくなっていた。その代わりニコッと笑った顔が現れた。いつものハルに戻ったみたいだ。

「じゃあどこかケガしたわけじゃないの?」

「なに言ってんだよ。してるわけないだろ」

「よかったぁ」

 一瞬の杞憂で終わり、ホッとして空を見上げた。そこにはいくつもの雲が、ゆっくり、ゆっくり、動いていた。

「でも俺のせいでファーストセット取られちまったな」

 空から視線を戻すとハルは悔しそうに地面を向いて俯いていた。

「なんだよ。いつものハルらしくないな。取られたら取り返せばいいだろ。前だけ見ていこうぜ」

「あぁ。そうだな!」

 俺たちは互いにニコッと笑い合いタッチを交わした。



 セカンドセット。

 新サーブから始まった。スピードは熊谷ほどではないけれど――熊谷ほどではないだけでそこらの高校生と比べれば断然速い――しっかりとコースを突いてくるサーブ。俺はそれに素早く反応し、前衛の熊谷の長いリーチでも届かない範囲を見極めてそこへ返す。足も軽いし視野も広く取れている。やっぱり今日は調子がいい。少し強引だけどいってみるか。

 リターンをした後にすぐに前へ出た。同時に「出た」とハルに声をかける。新のリターンを受けての三球目、これをファーストボレーできっちりと深くに返す。不意を突かれた新は体勢を乱している。返球も浮いてきた。その浮き球をハルが見逃さずに叩きつけると、ボールはバウンドして熊谷の頭上を高く越していった。

「0―15」

『よっしゃー!』

 並行陣が決まり、互いが互いの手を力強く叩いた。

 セカンドセットが始まる際、前へ出れそうだったら迷わず出て攻めていこうとハルと決めていた。なんてったってそれが今の俺たちのスタイルだ。上手く決まってよかった。

 続くハルのリターン。新のサーブコースがよく、さっきみたいにリターン直後には前へ出られなかったけど、そこはさすがハル、ラリーから前へ出るチャンスをつくり出した。前へ出たハルに対し、新もどこへ打とうか迷っているのが見て取れる。それでもハルはグイグイボレーで押しに押して新の体勢を崩していく。――ここだ!

「0―30」

 最後に俺のポーチが決まりハルの手を叩く。

 次のポイントもラリーから組み立てては前へ出てボレーで決め、ロブを上げられてはスマッシュで決め、二人で壁となって新のストロークをはね返していった。そして新が対応に戸惑っている間にゲームをかっさらった。

「よしよしよし!」

 ハルもガッツポーズを見せるほどこのブレークは大きい。意表を突いたとはいえ、二戦目のセカンドセットにして初めてアイツらからブレークを奪った。まずはハルの言う打倒熊谷・新の第一関門・・・・を突破した。

 サーブ権が移り、次は俺のサービスゲームになる。ブレークした直後のゲームはブレークバックされやすいと言われるほど、流れがどちらに傾くか分からない混沌としている状況だ。ただここを抑えれば流れを完全に引き寄せることができる。ここはハルと決めた通り最初から前へ出て攻めるぞ。

 まずは熊谷サイド。その巨体はゆっくりと静かにリターンの構えに入る。でもその体からは巨体をもってしても抑えきれないほどの強者のオーラが滲み出ており、確実にサーバーへプレッシャーを与えてくる。一度対戦していなかったらあのオーラに呑み込まれていたと言っても過言じゃない。

 熊谷に対しては徹底的にバック狙いだ。ただバックばかり狙っていると前回同様回り込まれる可能性があるから、時にはフォア側を狙うことも頭に入れておく。

 フーっと深く息を吐き、地面にボールを三回つく。センターにあるT字の少し内側に目が行った。そしてトスを上げる。

 トスを上げた指先の感覚、膝を曲げて地面から受ける反動、振り上げたラケットの軌道、その全てが〝噛み合った〟感じがした。

 俺が放ったボールはさっき目が行ったセンターT字のほんの少し内側をかすめていき、熊谷が伸ばしたラケットに当たることなく後ろのフェンスへ激突した。

「15―0」

「ナイッサー!」

 飛んで喜びながら近づいてくるハル。その声は聞こえているけど、でもなんだか遠くに聞こえている感じがする。熊谷からサービスエースを奪って心は躍っているのに、頭は驚くほど落ち着いている。不思議な感覚だ。でも、悪くない。

 続く新サイド。こっちもセンターを狙い、前へ出る。でもさすがスーパーシードの片割れと言うべきか、熊谷の手綱を握る騎手と言うべきか、スピードもコースも悪くないサーブだったのに早速リターンを足元へ沈めてきた。

 並行陣が相手となると、普通にリターンを返すだけでは高い位置からボレーを叩きこまれてそこで終了だ。だから相手に少しでも攻撃させないためには、ネットよりも低い足元の位置でボールを触らせて叩きこまれないようにする。対並行陣の最もセオリーな対策だ。俺たちからしても、速いボールより足元に沈められるボールの方が処理が難しい。並行陣はさっき見せたばかりなのにもう対応してくるなんて、さすがと言うしかない。

 でも大丈夫だ。足元へ沈めてくるボールは深くつないで一歩前へ、再び深くつないで一歩前へ、地道に少しづつ距離を詰めながら相手を追い込んでいく。

「30―0」

 前へ出たら足元を狙われるのは俺たちも分かりきっている。部内戦で堂上と土門にしつこく攻められたからな。お陰でそこは練習で克服済みだ。

「瞬、いいぞ! つなぐいいボレーだよ!」

 熊谷も新同様に足元へボールを沈めてくる。いくら熊谷の強烈なフォアでも、一度前へ出てしまえばボレーで返すのはそう難しいことじゃない。むしろ速いボールを打てばその分速くボールが返ってくることになるからストローカー側が不利になる。熊谷もそれを分かっているからこそ強打はしない。できないんだ。

 前回の敗戦から熊谷対策として俺たちがたどり着いた答え。失敗ばかりで上手くいかないことの方が多かった。試合で空回りして初戦敗退なんてこともあった。毎日ハルと残っては並行陣の練習。家でも、学校でも、寝る時に目を瞑った時でさえ、四六時中どうすればいいか、そればかり考えていた。でもそれがやっと、やっと実を結びつつある。

「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント2―0」

『よしっ!』

 ハルとともに吠えた。

「このゲームは完全に熊谷を抑えた! こんな展開今までなかったぞ!」

「うん!」

 これで流れは完全にこっちに傾いた。そう思ったけど――

「ゲーム白鷹。ゲームスカウント1―2」

 ギアが更に上がったように熊谷のサーブもスピード、キレ、コースの厳しさ、どれもが増した。ファーストセットのサーブとは比べ物にならないほど、いや、もはや全く別物のサーブな気さえする。恐ろしい。今のサービスゲームだけで一気に俺たちへ吹いていた風を断ち切られた。やはりこのサーブを攻略しない限りは俺たちに勝機はない。

 続くハルのサービスゲームでは、ファーストセット終盤のブレークを挽回すると意気込んでいたハルが熊谷に負けずとも劣らない完璧なサーブ、そしてボレーを連続で決めてキープに成功した。いつものハルに戻ったというか、むしろいつも以上の力が出ている気がする。この舞台、そして熊谷と新が俺たちの潜在的な力を引き出してくれている、そんな気がしてならない。

 俺たちに呼応するように相手の二人も時間を追うごとに力を増してくる。それにまた引っ張られるように洗練されていく俺たちのプレー。互いが互いの存在に影響し合い、ともに高みへと登っていく。自分がポイントした時には大いに喜び、相手のスーパープレーにはラケットを叩いて賛辞を贈る。あぁ、なんて痺れる試合をしているんだろう。

 試合はそこから互いに一歩も譲らぬキープ合戦へともつれ込んだ。そしてセカンドセット第10ゲーム目の俺のサービスゲーム。

「ゲームアンドセット――」

 これもキープに成功し、第1ゲームの貴重な貴重なブレークを保ったままセカンドセットを取り返した。

『よっしゃー!』

 ハルと今日一番の力強いタッチを交わした。

 これでセットカウントは1―1。熊谷たち相手にこんなにも善戦できている自分に驚きだけど、今はそんなことで満足はしない。アイツらは越えるべき壁。その壁を今日は越えに来たんだ。アイツらに勝って、必ず全国へ行く。

「これで並んだ。あとは次のセットをなんとしても取る! 俺たちならいける!」

 ハルは自信満々にそう言うと水筒の水をガブガブ飲んだ。

「うん、いけるよ! やってやろう!」

 俺もガブガブ飲んだ。

「これで第二関門・・・・も突破した。残るは最終関門・・・・のみだ」

「やっぱりカギはこれだね」

 俺たちが熊谷たちに勝つには、越えなければならない関門が三つあるとハルは言った。一つ目の関門は、新のサービスゲームをブレークすること。俺たちは前回の対戦でアイツらから一つもブレークを奪えなかった。テニスは一つでも相手のサービスゲームをブレークできないと勝てないスポーツだ。だから俺たちが勝つには熊谷か新のどちらかのサービスゲームをブレークする必要がある。じゃあどちらにターゲットを絞るべきか。答えは簡単だ。二人ともいいサーブを持ってはいるけど、ブレークのし易さでいったら圧倒的に新の方がいいに決まっている。ファーストセットは新のサービスゲームでさえブレークできるチャンスがなかった。でもセカンドセットに入って俺たちが攻めに転じたことでチャンスができ、それを結果的にブレークという形へ結びつけることができた。

 二つ目の関門は、新のサービスゲームをブレークしたセットを必ず取ること。いくら新のサービスゲームが熊谷のそれよりブレークし易いからといって、二度や三度もアイツがブレークを許すはずがない。だからこそ勝利をもぎ取るためには、たった一つのブレークをセット奪取につなげる必要があった。ただ、それは裏を返せば俺たちのサービスゲームは全てキープする前提の元に成り立っている話だ。俺のサービスゲームだって一度もブレークを許してはならない……。でもサーブが課題だった俺にとって、それはいずれ実現しなければならない理想、いや、現実でもあった。だからサーブも毎日練習した。来る日も来る日も打ち続けた。手にはいくつものマメができて、潰れて、またできた。それでも打ち続けた。そして今、俺は実際に理想を現実のものにした。――俺は戦える。俺は勝てる。もうサーブが弱いなんて言わせない!

 そして依然として突破できていない最終関門……

「大丈夫。チャンスは絶対にやってくる。信じるんだ」

「うん。分かった」

 俺はハルの目を見て、ハルも俺の目を見て頷いた。右手と右手の手のひらを叩き合わせ、再度気合いを入れてベンチから立ち上がった。

「セカンドセットはやられたで。でも、負けへんで」

 コートへ戻るとネット際に立っていた新に言われた。その横には熊谷もいて、高い視点から見下ろすように俺たちを見ている。

 目の前にいるのは1年の時から知っているヤツら。その強さは他の誰よりも知っている。いつかコイツらに勝ちたい、そう思ってやってきた。そして今日がその〝いつか〟だ。俺たちにとって最大の壁。最強のライバル。今日はコイツらに勝つ!

『ここからが勝負だ!』

「いいだろう。全力で叩き潰す!」



 運命のファイナルセット。

 最初のサーブは依然として猛威を振るい続けているこの男からだ。

「15―0」

 センターサービスラインをかすめる完璧なサーブ。俺も反応よくラケットに当てはしたけどボールはネットに吸い込まれた。

 今日一番のサーブが決まり吠える熊谷。このセットは絶対に取ると言わんばかりの気持ちが入ったサーブだ。疲れなど知らないとでもいうように。

 でもこのサーブを返さない限り俺たちに勝機はない。泥臭くても、みっともないプレーでもいい。とにかくボールに触って、ネットの向こう側へ返すんだ。

 続くハルのサイド、その次の俺のサイドと、なんとか熊谷のサーブに食らいついて相手コートへ返すことには成功はしたけど、熊谷を苦しめるところまではいけず、その後の強烈なフォアハンドに差し込まれては前衛の新に決められるという展開が続いた。

 でも返し始めている。ファーストセットからラケットに当てはしていたものの返せなかったリターンが、ファイナルセットに来てようやくネットを越えて相手コートへ届くようになってきた。少しずつだけど確実に前進している。前進しているぞ。

「ゲーム熊谷・新ペア。ゲームスカウント1―0」

 このゲームはキープされたけど、熊谷がボールに触る回数も増えてきている。アイツに「リターンが返ってくる」というイメージを植えつけることができたはずだ。これはきっと次へつながる。

「やっと頂上・・が見えてきたな」

「そうだね」

「このまま登りきるぞ!」

「うん!」

 0―1。1―1。1―2。2―2。

 ハルも、新も、俺も、互いに一歩も引かないキープ合戦。どちらかブレークされた方が負けると皆心の中では悟っている。だから自分のサービスゲームの時はそのプレッシャーに圧し潰されそうになる。それでも重圧に打ち克ちキープを続けられているのは、だだ「勝ちたい」という気持ちがあるからだ。

 この試合七度目の熊谷のサービスゲーム。

「15―0」

 ファイナルセットに来ても依然衰えぬ球威。と思ったら――

「ダブルフォルト。15―15」

 この試合初めてのダブルフォルト。今までファーストサーブのフォルトは数回あったけどダブルフォルトはなかった。ひょっとして……

「ここがチャンスかもしれない」

 ハルが言ったように俺もそう思った。このダブルフォルトは偶然じゃない。疲れから出たものだ。確実に熊谷の体力は削れている。

「次、絶対先行しよう」

「おう!」

 気合いを入れるためいつもより強めにタッチを交わし、リターンの位置についた。しかし――

「30―15」

 ワイドいっぱいに決まり、かつ少しスライス回転のかかった外に逃げていく完璧なサーブ。かろうじて触りはしたけど力なく返ったボールは前衛の新にボレーで決められた。

 さっきのダブルフォルトをかき消すほどのこれ以上ないサーブ。ミスに火がついたのか、冷静になったのか、どちらにせよあのサーブが入ってきたらポイントを奪うのは不可能に等しい。

 俺たちを見下ろすように静かにたたずむ熊谷。大きな体が更に巨体に見える。「全力で叩き潰す」と言われた通り、アイツは今本気で俺たちにぶつかってきている。そのことが嬉しくも怖くもあり、つい口角が上がってしまう。

 その後も二本、熊谷は一度もフォルトすることなく強烈なサーブを決めてきた。俺たちも食い下がりはしたけど、ポイントを奪うところまではいけずサービスゲームをキープされた。

 ベンチへ戻って汗を拭い、水を飲んだ。ハルは目を閉じて深く息を吐きながら呼吸を整えている。

「キープされはしたけど、熊谷は明らかに疲れ始めている。あのダブルフォルトがその証拠だ」

 向こうのベンチを見ると熊谷たちも腰かけて息を整えていた。その表情からは疲れているのかどうか判別がつかない。まぁいつも無表情だからな。でもハルの言うことには同感できる。あれはただのダブルフォルトじゃない。俺たちが熊谷を追い込んでつくり出した結果だ。

「ダブルフォルト直後のサーブは確かにすごかったけど、アイツも意地が働いたんだろう。そんな気がする」

「でもあれを見せられたら俺たちも負けてられないよね」

「あぁ」

 静かに答えるハルの表情にはうっすらと笑みがこぼれていた。きっとさっき俺が感じたことと同じことを感じているんだろう。ハルの表情につられて俺も笑った。

「意地なら俺たちにだってある。食らいついていくぞ!」

「うん!」

 タッチを交わし、ベンチから立ち上がった。

 ゲームスカウント2―3。ハルのサービスゲーム。前衛の位置につくと、後方から地面にボールをつく音が聞こえてきた。1、2、3、4、5。ハルは俺と違っていつもボールを五回地面につく。聞き慣れている俺はその音が聞こえてくると緊迫した試合でも心が安らぐようになっていて、同時に回数が進むごとに勝手に集中力が高まるようにもなっていた。

 前方の熊谷がラケットを構え直し、ハルのサーブに合わせてスプリットステップを踏んだ。するとすぐに視界の端からサーブが入り込んできてセンターを射抜いた。熊谷はバックハンドでクロスへ返球するも足元に沈めることはできず、ボールは少し浮いた状態で返ってきた。前へ出ていたハルはそれを見逃さずストレート方向へボレーを叩きつけた。

「15―0」

「ナイッサー! ナイボレー!」

 パンッといい音が出た。

 ハルのサービスゲームはファーストセットで一度だけブレークを許したけど、そこからは登り調子一方だ。コースも厳しく球威もあり、更には多彩な球種も織り交ぜて相手に狙いを絞らせない。まるで一流ピッチャーのピッチングみたいだ。

 続く新サイド。これもセンターから更に内側へキレていくスライス回転のかかったナイスサーブだ。しかし新も食らいついてきてハルの足元へ沈める好リターンを返してきた。それでもハルは新からのリターンを落ち着いてアレイの奥深くへ返す完璧なファーストボレーを見せた。新は急いで追いかけラケットにボールを当てはしたけどロブで返すのが精いっぱいになり、最後は俺がスマッシュを地面に叩きつけた。ボールは後ろへ下がった熊谷の頭上を高く越していった。

「30―0」

「ナイッスマッシュ!」

 タッチを交わしたわずかな時間で、手のひらを介してハルの勝利への意志がビシビシ伝わってきた。それに俺も呼応するように鼓動が高まっていく。

 再び熊谷サイド。今度はファーストサーブがフォルト。セカンドサーブはなんとか熊谷のバック側に入れることができたけど、熊谷はそれを読んでいたのか回りこんでフォアハンドを叩き込んできた。まずい、と思ったけどハルはなんとかボレーで返球。でも浅い。また熊谷の強烈なフォアハンドがハルを襲う。でもこれもなんとか返す。その後も熊谷の強烈なショットを耐えしのぐハル。懸命に粘りのボレーを見せる。

 ここは我慢だ。俺が下手に動くとストレートを抜かれる可能性がある。だから俺にできることはハルを信じて待つ、それだけだ。

 何往復目になったかは分からなかったけど、ハルのボレーが一度だけ深く入った。差し込まれて若干だけど体勢を崩す熊谷。――ここだ!

 一瞬だけ生まれたチャンスに俺は電光石火のごとくポーチへ出た。走りながらも焦点はしっかりとボールを捉えている。間接視野では新が俺のポーチに備えて少し後ずさっている姿が見えた。ボールの高さは? ――ほぼネットと同じだ。これでは新方向へ返したとしても決まる確率は低い。熊谷はどうだ? ――まだ体勢は整っていない。ならばここだ。

 ラケットの面を少しだけ左へ傾けて、熊谷からのボールを優しく包み込むように、柔らかなタッチで勢いを殺す。ボールは小さな弧を描きながらネットを越えてワンバウンド。それを追うように熊谷と新がラケットを目いっぱい伸ばしながら駆け寄るも、ボールには届かず2バウンド目を迎えた。

「40―0」

「うぉー!」

 ハルが大声を出しながら俺に飛びついてきた。俺はなんとかそれを受け止める。

「すげぇ! すげぇよ、瞬! ナイスドロップだよ!」

「ううん。ハルが粘ってつないでくれたからだよ」

「いや、あれは超芸術級のドロップショットだよ。いいもん見れたなぁ」

 そんなこと言いつつもハルはすぐに真剣な顔に戻った。

「よし、ゲームポイントだ」

「うん。ここで決めよう」

 俺たちは次のポイントも決めてハルのサービスゲームをラブゲームキープした。この勢いのまま新のサービスゲームもブレークするぞ、と意気込んで臨んだけど、冷静で戦略的な新がそれを許すはずもなかった。

 新のサービスゲームではポイント間やプレーの速度を巧みにスローペースへ変えられ、前のゲームを速攻でものにした俺たちの勢いやリズムは完全に崩されてしまった。そして最後は前衛の巨体に捕まり、ゲームはキープされた。

 新は熊谷の感情をコントロールしたり、並行陣に対しても瞬時に対応して俺たちの嫌がるコースへ打ち分けてくる技量があるだけでなく、状況を読み試合の流れさえも変える力を持っている。様々な面を持つ新はなんというか、妖怪みたいだ。

 キープした後にはなにかを言わんがために俺たちの方を睨む新。俺には「お前らの好きにはさせへんで」と言われたように感じた。もしかしたら本当に怖いのは熊谷じゃなくて新の方かもしれない。この二人のペアは本当に強い。

 ゲームスカウント3―4。次は俺のサービスゲームだ。

 ここまで絶好調だった俺のサーブ。でもここにきて勢いに陰りが見え始めた。体が重く感じ、呼吸も整うまで時間がかかってしまう。サーブは自分のペースで始められる唯一のショットだけど、それでも時間制限はある。極力呼吸が整ってから打つようにはしているけど全部はできず、ファーストサーブの確率も低くなり始めセカンドサーブを攻められる展開が続く。

「15―30」

 認めたくはないけど原因は疲労だ。体力には自信があったけど、この試合はやっぱり特別だ。ファイナルセットの終盤まで互いに一歩も引かない気迫のこもったシーソーゲーム。もちろんそれもある。でも一番の理由は熊谷のサーブだ。あの時だけは全神経を集中させて、ボールが飛んできた方向へいち早く体を反応させる必要がある。あのサーブには着いていくだけで相当な体力がいる。徐々に返せてきてはいるけど、まだ一つもブレークはできていない。その事実がまた精神的にも追い詰めてくる。

「30―30」

 それでもなんとか食らいつき、簡単には主導権を渡さない。

「よし、なんとか30―30まで持ち込めたな」

 今のポイントもファーストサーブが入らず防戦一方となる展開だったけど、ハルの思いきった攻めのプレーのお陰でポイントを奪うことができた。

「次……次のポイントは絶対に取りたいところだ。瞬、いけるか?」

 俺に疲労の色が見え始めているとハルは既に分かっていたようだ。でも俺を信じて、黙って、こう問いかけてくれているんだ。

「そんなの、いけるに決まってんじゃん!」

「よく言った!」

 タッチを交わし、ベースラインについた。

 ハルの言った通り、次のポイントはこの試合の結果を左右するほど重要なポイントになってくることは間違いない。相手に取られたらファイナルセット初のブレークポイントを迎えることになり、流れが一気に向こうへ傾く可能性が高い。逆に俺たちが取ればゲームポイントを迎えることになり、疲れは出てきているものの息を吹き返すチャンスになる。それは熊谷たちも分かっているはずだ。だからこそ負けたくない。このポイントを絶対に取って、流れでもなんでもひっくり返してみせる!

 トスを上げると同時に体全体をしならせ、最大限に溜めたパワーを一気に開放しボールへぶつける。ボールはうねりを上げながらワイドいっぱいに決まった。熊谷はセンターを意識していたのかワイドへの反応が少し遅れた。それでも強靭な体感を駆使してリターンを打ち返してきた。でも少し高い。すかさず俺は前へ出て上からボレーを叩きつけた。ボールはスライス回転がかかりながら敵陣深くへ決まる最高の形。熊谷はリターンを打ってからまだ体勢が整っていない。あの状態から差し込まれたボールをコースへ打ち分けるのはいくら熊谷といえど不可能だ。このまま前へ詰めて一気に決める。

 と思った瞬間、熊谷のラケットから放たれたボールは俺たちの頭上を遥かに高く越える放物線を描いた。俺は体を反転させ、後方のベースライン付近にバウンドしたボールを急いで追いかけた。しかしボールは儚くも伸ばしたラケットの先で再び地面へ落ちた。

「30―40」

 主審のコールとともに熊谷からは闘志が爆発したような猛々しい雄たけびが上がり、それと反比例するように俺たちの意気が消沈していく。このポイントの重要さを物語るような対照的なシーン。

 額から頬に伝う汗がコートへと滴り落ちた。呼吸は荒いままで、足にも随分と疲れが溜まってきている。加えて相手のブレ―クポイントという重圧に圧し潰されそうだ。熊谷と新はもうリターンの位置に立っている。俺たちに息つく暇を与えないつもりだろう。

 ……でも、まだだ。まだブレークはされていない。次のポイントを絶対に取ってデュースに持ち込む。ここまで来て諦められるわけがない。ここで諦めたらアイツらには絶対に勝てない。

「ハル!」

「おう!」

 ハルの手を思いきり叩くと、ハルも俺の手を思いきり叩いてきた。それからともに頷き、俺はベースラインへと向かった。

 絶対に耐えてみせる。耐えて、耐えて、耐え抜いて、そして勝つ!

 強く握ったボールに想いを込めてトスを上げる。

「フォルト」

 ファーストが入らず気持ちが焦る。スー、ハ―。深呼吸をして落ち着かせる。

 セカンドサーブはスピンをかけて入れにいく。なんとかサービスエリア内には収まったけど、威力がない分さすがに前へは出られない。それを分かってか新もボールに強烈なスピンをかけて俺をコート外に押し出してくる。一度は中ロブ気味に熊谷の手の届かないところへ返せたけど、新のショットはまたもや深く突いてきて俺に攻める隙を与えない。このままだといつかは熊谷に捕まってしまう。どうする……

「瞬、あれだ!」

 咄嗟の言葉だったけど俺にはピンときた。確かにあれなら――

 深く入ってきた新のショットにステップを合わせ、ラケットを下から上へ思いきり振り上げた。強烈なトップスピンのかかったボールは熊谷の頭上を高く越え、敵陣のベースラインめがけて落下していく。

 いっけぇ!

 落下地点は熊谷とかぶって見えなかった。主審のジャッジは――インのポーズ。よし、入った!

 熊谷たちもすぐさま左右をチェンジし、後衛の新がボールを追う。でも意表を突いたからかさすがに体勢を崩している。俺はその間にすかさず一気に前へ詰め、新からの返球を二人の間を切り裂くようにボレーで決めた。

「デュース」

『よっしゃあ!』

 ポイントが決まった瞬間、俺はハルと喜びを爆発させるようにタッチを交わした。

 咄嗟のハルの言葉から思いついた攻めるロブ。並行陣を使うようになってからは全くと言っていいほど打つ機会がなくなったかつての俺の武器。でもそのお陰で一気に攻勢へ転じることができた。

「瞬、よく決めたよ! ナイスロブ! ナイスボレー!」

「ハルの方こそナイスアイデアだよ。あの言葉がなかったら正直やられてた」

「でも結果は俺たちのポイントだ。俺たちが打ち勝ったんだ。自信を持っていいんだぜ」

「うん!」

 一度深呼吸をして高ぶっていた気持ちを落ち着かせる。

「さぁ、次はデュースだ」

 ハルとともに相手コートを見ると熊谷たちも俺たちの方を見ていた。よく見ると少し笑っている。

「アイツら、笑ってやがる」

 そういうハルも楽しそうな顔をしている。――って、俺もだった。

「痺れる試合だね。でも――」

『絶対勝とう!』

 俺たちは互いに頷いてタッチを交わした。もうここまで来たら言葉を交わさずともハルの言いたいことは分かる。それはきっとハルも同じだろう。俺たちの想いは同じだ。

 ベースライン上でもう一度深呼吸をして、ボールを三回地面につく。狙うコースに照準を合わせてトスを上げた。ファーストサーブはワイドへ深く決まり、熊谷もリターンを足元へ返してくる。それを丁寧にボレーで返すと熊谷も同じように再び足元へ沈めてきた。もう一度、更にもう一度と繰り返す。

 ここは我慢比べだ。どちらが先に打開の糸口を見つけるか、見つけるまで粘り強く返し続けられるか。

 熊谷も際どいところへ何度も打ち続けてくる。強打を捨ててまでも俺の足元へしつこくしつこく返してくる。もはやパワーだけで押しきっていた当初の姿は微塵も見られない。でも我慢比べは俺の専売特許だ。これだけは熊谷にだって負けられない!

 何球続いたか分からないボレー対ストロークのラリーの中で一瞬、ほんの少しだけ熊谷のショットが浮いた。でも攻めに転じるには十分な綻びだ。俺は一歩前へ踏み出すようにして熊谷のバックハンド側であるセンター方向へ打ち込んだ。熊谷も細かいステップを踏んでボールへ反応したけど、熊谷がバックハンドショットを打った瞬間、狙っていたとばかりにハルがポーチへ出てきてポイントを決めた。

 続く新サイドも俺の足元へ徹底して返してくるストロークに対して我慢強くボレーで返す展開になった。これも何球続いたのか分からないくらい体感では長く感じた。しかし最後は新がネットに引っかけ、俺が粘り勝った。

「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント4―4」

『よっしゃー!』

 一時はブレークポイントを握られはしたけど、それをはね返した勢いのまま粘りに粘ってサービスゲームを死守。これは間違いなく俺たちに流れが来ていると言えるんじゃないか。

「瞬、今のゲームは本当にナイスキープだよ。これで次のゲームにプレッシャーをかけていける」

 次のゲーム。ボールは向こうの巨人の手中にある。

 ここだ。熊谷のサービスゲーム。未だに一度もブレークできていないゲーム。このゲームをブレークするために俺たちはこれまで幾多の練習をこなし、この試合でも必死になって種をまいて・・・・・きた。できる限りのことはやった。あとはいつも通り食らいつくだけだ。

「勝利へのビジョンは見えた。熊谷のサービスゲームをブレークして、次の俺のサービスゲームをキープする。それでゲームセットだ!」

「うん!」

 タッチを交わし、リターンへついた。熊谷は俺が位置についたと見るやボールを地面につき始めた。

 今日、何度も目にしている光景。その度に粉砕され、絶望した。それでも徐々に希望の光が見え始め、その光を頼りにここまで食らいついてくることができた。だけど、これで最後にしてやる。

 ファーストサーブはセンターへ入ってきた。でもコースもスピードも甘い。バックハンドできっちりとクロスへ返球しポジションを整える。ただ熊谷のフォアハンドが厄介なことには変わりない。強烈なスピンのかかったショットに徐々にコート外へ押し出されていく。このまま打ち合っていても熊谷の優位に変わりはない。だったら――

 いっけぇ!

 新の頭上を越えるロブショットを放ち前へ出た。熊谷はボールに追いつくとバックハンドで返してきたけど、俺たちは既に並行陣を完成させていた。ランニングショットになった熊谷のバックハンドは格好のエサだ。

「0―15」

 続くポイントはファーストサーブがフォルトになり、入れにきたセカンドをハルがフォアで回り込んで叩いた。ボールはサイドラインギリギリをかすめ、熊谷が伸ばしたラケットの先を通過していった。

「0―30」

 リターンエースだ。大事なゲームで先行を許し、かつセカンドを入れにいかなければならないサーバーの心理を読んだハルの大胆なプレー。でも分かっていても中々できるものじゃない。やっぱりハルはすごい。目を見れば分かるけど、ここにきて集中力も極限まで上がってきている。

「……やっとだ」

 最高の場面でリターンエースを決めたというのに落ち着いているハル。

「やっと、俺たちのまいてきたが実り始めたぜ」

「そうだね」

 試合開始から俺たちがずっとしてきた種まき・・・。それは熊谷の体力と精神を消耗させること。そうすれば自然とサーブの威力や制球力が落ち、俺たちにも攻め入るチャンスができる。

 前回の敗戦から、この試合に勝つためのカギは熊谷のサーブを攻略することだということは明白だった。あのサーブの絶対的なキープ力があるからこそ、アイツらは他の場面でも自信を持ってプレーすることができる。熊谷サーブはアイツらペアの根幹を成すものだ。ただあのサーブを対等の条件下で攻略するのはまず不可能だ。

 だから俺たちは試合の序盤からをまいた。熊谷サーブの時には返せなくてもいいからとにかく触ること、これを徹底した。サーブというのは不思議なもので、何本、何十本と受けているとそのスピードには次第に慣れてくる。3セットマッチという長期戦なら尚更だ。でもそれは熊谷も分かっている。分かっているから試合が進むにつれ徐々にサーブのコースも厳しく突いてきた。あのサーブスピードでコースギリギリを突かれたら触るのだって精いっぱいだ。でも同時に、それはサーバー側にも体力と精神への負担を要する。最初のうちはスピード、コースともに維持できたとしても、試合終了までずっと維持し続けるのは難しい。いつかは必ず綻びが出る。俺たちはそれを待っていた。そして今、やっとその時が来た。

「絶対にこのチャンス、ブレークへつなげるぞ」

 俺は頷き、タッチを交わしてからリターンへついた。

 しかし熊谷も第1シードの意地を見せ、サーブがダメならストロークで押してくる。俺はまたロブを使ってプレーに変化をつけようと試みたけど、今度はロブが浅く入り新にスマッシュを決められた。

 続くハルのサイドでも熊谷がラリーで脅威の粘りを見せ、俺たちのミスを誘ってくる。明らかに疲れているはずなのに、強者のプライドなのか、勝利への執念なのか、間違いなくあの巨体をなにかが動かしている。

 30―30。先行していた状況から2ポイント連取はされたけど、次のポイントを先に取ればブレークポイントだ。アイツらへも相当のプレッシャーをかけられる。極限まで体力と精神を削った今の熊谷からですらブレークポイントを握るのは難しいけど、ここは絶対に先行したいところだ。

 そう覚悟して臨んだリターンだったけど――

「ダブルフォルト。30―40」

 白帯に当たったボールは前衛の新の足元へと転がっていった。ネットを越えて俺たちのコートへ入ってくると思っていたボールが相手コートの中で転がっている。集中して待ち構えていただけに想定外のことで体が固まってしまった。

「……ん、瞬!」

 ハルに話しかけられるまでなにが起きたのか分からなかった。

「瞬、遂に来たぞ! ブレークポイントだ!」

 ブレークポイント……。そうか……そうか、そうか。遂に、やっと、来たんだ!

「……うん。ここを取れば、ブレークだ!」

「おう! 絶対に取ろう!」

 互いに互いの手を思いきり叩いた。

 ここを取ればブレーク。ここを取ればブレーク。……落ち着け、深呼吸だ。

 高鳴る鼓動。掴んだ最初で最後のチャンス。手放したくない。絶対に掴み取ってみせる。……勝ちたい。勝ちたい!


 熊谷のファーストサーブが入ってくる。この逆境の中でファーストから決めてくるのは敵ながらあっぱれとしか言いようがない。でもハルもそれを分かっていたのか素早く反応しリターンを返す。

 

 半年前、俺たちはお前のサーブやストロークに手も足も出なかった。それが悔しかった。同じ高校生だっていうのにこんなにも差があるのかと、惨めに思った。

 

 熊谷とハルのストローク対決から始まったラリーだったけど、ハルが勝負をかけて前に出た。熊谷もそれをいち早く察知し、強烈なスピンをかけてハルの足元へボールを沈めてくる。でもハルはそれをも捌き、更に一打返すごとに一歩ずつネットとの距離を縮めていく。いつの間にか熊谷を押していた。

 

 だから俺たちは必死で練習した。でも練習すればするほど力の差を感じずにはいられなかった。本当にお前のサーブやストロークを返せるのか、想像すらできなかった。それでも、そんな中でも対抗策はあった。一つは並行陣を駆使してお前の強力なストロークを封じること。そしてもう一つは――


 たまらず熊谷は逃げるようにロブを上げた。でも、浅い。


 俺たちはこの試合で種をまき、お前の体力と精神を削ってきた。それは簡単にできるものではなく、俺たちも同じだけのダメージを受けた。でも全てはお前のサービスゲームをブレークするため。最終関門を突破するため。そのためだけに俺たちは!


 雲一つない青一色の空に黄色いボールが打ち上がる。俺はボールの軌道に合わせてステップを踏み、落下地点へ入った。次第に大きさを増してくるボール。力む右手。早まる鼓動。

「いけっ! 瞬!」

 この一球は絶対に決める。勝つのは、俺たちだ!

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