37.必勝祈願

「さすがにもう遅いし帰ろうぜ」

太一の呼びかけで練習に没頭していたところからふと我に返る。既に辺りは真っ暗だった。いつの間にこんな暗くなっていたんだろう。

冬休み中の練習は毎日あるけど、時間は朝から夕方までと決められている。今日も監督に頼み込んで練習後も個人的に残らせてもらっていた。熊谷たちに勝つには、全国に行くには、無駄な時間なんて一秒たりともない。

 明日からは年末年始で部活も数日間の休みに入る。ということで今日はいつも以上に残ってしまったけど、さすがにこうも暗くなるまでやっていたとなるとケガもするし危ないと怒られそうだ。

「お前らよくそんなに同じ練習ばっかりしてて飽きないよな」

並行陣の完成に向けて俺とハルは来る日も来る日もボレスト(ボレー&ストロークと言って、片方がボレー、もう片方がストロークを打ち続けるという練習)やボレーボレー(近距離でお互いボレーを打ち合う練習)、スマッシュなど並行陣に必要となる基本練習をずっと続けていた。練習の合間合間で時間を取っては、ああでもないこうでもない、こうしたらいいああしたらいい、とアドバイスを交わしながら並行陣の完成に向けて二人でイメージを共有していく。もちろんリターン練習も忘れずにやっている。それからサーブの練習も。

「基本がなにより大事だからな」

 ハルの言う通り、どんなに基本的な練習だろうと決しておろそかにはしない。それが一番大事なことだって分かっているから。

「変わらないヤツらだな」

 なんだかんだ言いながら、「俺たちも残って練習するか」と一緒に残ってくれている太一や南、それからたまに土門や堂上にも相手をしてもらって並行陣の完成に力を貸してもらっている。

 熊谷がダブルスへ転向したことに土門は衝撃と悲嘆の声を上げていた。それでも、「渉さんは必ずシングルスに戻ってきますから」と打倒熊谷の姿勢は変えないようだった。

 片づけを終えて着替えに部室へ向かう。

「もう年越しかぁ。早いよなぁ」

「今年もいろいろあったなぁ」

 太一と南の言葉をしみじみと感じる。思い返してみると今年も本当にいろんなことがあった。ハルの代わりに都大会に出るわ、キャプテンに選ばれるわ、ハルとペアを組むことになるわ、学園祭で赤井に遭うわ、選抜戦で熊谷、新と戦うわで想定外のことだらけだった。想定していたことがあったわけでもないんだけど。

 でもキャプテンとして部を引っ張っていく覚悟や己の過去との対峙、壁を乗り越えるための新たな挑戦など、成長できた部分も多かったんじゃないかなって思う。

「来年はいよいよ最後の年だな」

 俺たちの会話にも遂にそのワードが出てくるようになったんだなって思うとなんだか悲しい気もする。でも〝最後〟っていう実感は今のところ全然湧かない。ハルや太一、南、他の部員たちと目標に向かって毎日練習して、試合に挑んでは勝って喜んだり負けて悔しがったり、そういった時間がこれからもずっと続いていくんじゃないかって心のどこかで思っている自分がいる。

 でもその時は足音を立てて、着々と迫ってきていることに違いはない。残された時間はごくわずかだ。秘策として練習している二つのことは完璧と言える状態からは未だ程遠い。でもできることは全てやり尽くして、ハルと一緒に必ず全国へ行く。絶対、行ってみせる。

 それから五日間は部活がなかったけど、親水公園のコートを借りては朝から晩までハルと二人で特訓を重ねた。年末は今年最後の最大寒波がやってくる予報だったけど、寒さなんて一切感じないくらいお互い汗まみれになりながら何百球、何千球と打ち続けた。当然疲労感も大きかったけど、練習していないとなんだか不安でしょうがなかった。でも練習したからといってこの不安が払拭されることはなく……

 この不安がなにか悪い形で現れなければいいんだけど。



「瞬、起きなさい!」

 一瞬で飛び起きるほどのけたたましい声量が部屋中に響いた。

「お友達と初詣に行くんでしょ。遅刻するわよ」

 俺が起きたと見るや、任務完了というように母さんはそそくさと階段を下りていった。

 そうだった。今日は太一たちと一緒に初詣に行くんだった。集合は確か10時だったよな。今は……8時半。なんだ、まだ全然時間あるじゃんか。

 ぐわー、と大きなあくびが出た。もう一眠りしようかなと思い布団へダイブ。

「瞬!」

 階段の下から再び響いてくる声にビクッとして起き上がった。母さんったら部屋の中まで見通しているんじゃないのか?

「出かけるまで時間あるなら自分の部屋くらい掃除してから行きなさいよ」

「掃除? 朝っぱらから勘弁してくれよ」

「アンタ、昨日軽くでもいいから掃除してから寝なさいよって言ったのに、そのまま寝ちゃってたんだから。少しでも整理しておかないと福が入ってこなくなるわよ」

 少し整理したくらいで本当に福なんて入ってくるのかよ、と思いながらも重たい体を起こして部屋の整理を始める。まずは床に散らかっているマンガを棚に戻してと。あれ、このマンガどんな内容だったっけ? ページをパラパラ……ってダメだ。今読み始めたら夢中になって掃除どころじゃなくなる。えーと、他には……去年の試験問題は一応取っておいたけどもういらないな。机の上も学校から配られたプリントだらけだ。ほとんどがいらないものだから捨ててしまおう。

 あまり散らかっているものもなかったことが幸いで、ものの十数分で片づけは終わった。本当にこれで福なんて来るのかよ。

 階段を下りてリビングに行くと、父さんと兄ちゃんがおせちの重箱をつついていた。母さんがキッチンから俺のお雑煮をよそってきてくれて、「新年のご挨拶は?」と言う。

「あけおめー」

 そう言って席に着くと、「あけましておめでとうでしょ」と正された。いつも通り母さんは口うるさいけど、別に怒っているわけじゃないことは口調からも分かる。兄ちゃんもそれは承知の上で、「あけおめ!」と新年早々元気に返してくれた。父さんは「おはよう」とだけ。寡黙な人だ。

「兄ちゃん久しぶりだね」

「そうだな。家族なのに正月くらいしか顔合わせられないなんて、なんか変な感じだな」

「ホントよ。二人とも最近遅いんだから。お父さんが一番早いわよ」

 ゴメンゴメン、と兄ちゃんは笑いながら母さんに許しを乞う。

 兄ちゃんは帰ってこない日の方が最近多くなっている気がする。帰ってきたとしてもその日は俺の方が遅くまで練習していたりで、中々顔を合わせていなかった。

「研究忙しいの?」

「まぁな。先月から本腰入れて卒論の題材にする研究に取り組み始めてさ。結構大変なんだけど、上手くいけば学長表彰も狙えるって教授に言われたから張りきってるんだ」

 兄ちゃんは今大学3年生だ。なのにもう卒論に取り組まないといけないなんて、大学も大変なんだな。そういう俺は今年受験生になる。全然実感ないけど。

「学長表彰か。俺には分からないけど、きっとすごい難しいんだろうね。でもさ、兄ちゃんって結局なんの研究してるの?」

「生物有機化学だよ」

「セイブツユウ……なにそれ?」

 ハハハ、っと笑われた。

「そうだったな。瞬は化学が苦手なんだよな」

「うん。まだぼんやりとしか考えてないけど、大学も文系に進もうと思ってる」

 ホントにぼんやりとしか考えてないけど。受験勉強なんてさらさら手をつけていない。

「悠太ほど徹夜はしないまでも、アンタもそろそろ受験勉強始めなさいよ」

 ギクッ。さすが母さん、痛いところを突いてくる。

「まぁそう言うなよ母さん。俺の経験上、部活をやりきってからでも遅くはないし」

「アンタと瞬は頭のできが違うんだから。一緒にしないでちょうだい」

 よく自分の息子にそんなことが言えたもんだ。まぁ実際その通りなんだけど。

「でも運動神経は完全に瞬に持っていかれたよ。最近テニスもよりがんばってるらしいな」

 兄ちゃん、それ母さんの言ったこと認めてるよ。フォローになってないってば。故意で言ってるわけじゃないっていうのは分かるけどさ。

「まぁね。いい仲間たちに恵まれて毎日楽しくやってるよ。あと、今年は本気で全国目指してるから」

 〝全国〟という単語を発した瞬間、兄ちゃんと母さんが驚いた顔で同時に俺を見た。父さんは変わらず黒豆を口に運んでは新聞を眺めている。

 きっと中学の時と同じ結末にならないかって心配してくれているんだろう。あの時は、特に母さんには心配をかけてしまっていたからな。でもどんな結果であれ、あの時と同じ結末には決してならないと確信している。それくらい信頼できる仲間たちに出会えたって心から思っているから。

「そっか」

 兄ちゃんは笑って頷いてくれた。俺の気持ちが通じたのかもしれない。

「そんながんばっている瞬にはこれをあげよう」

 そう言って兄ちゃんは懐から名刺大の袋を取り出し俺に手渡した。表には『お年玉』と書かれている。

「お年玉っ! いいの?」

「あぁ、いいぞ。忙しくてあまりバイトもできなかったけど、研究で使う暇もなかったからな」

 兄ちゃんからお年玉をもらったのは初めてだ。これは大事に使わないと罰が当たるな。

「ありがとう」

「時間があれば試合も見に行くからな。がんばれよ」

「うん!」

 俺は大きく頷いた。



 駅前は参拝に行く人の群れで溢れ返っていた。群衆は絶えず神社の方へと流れていっている。気を抜いていても人波に流されていれば目的地にはたどり着けそうだけど、みんなとは駅前で落ち合う約束をしているから押し寄せる荒波をかき分けつつ辺りを見回す。

 改札を出たちょうど正面、地図が書いてある案内板の前で白いコートを羽織った女の子がたたずんでいるのを目に留めた。

「あけましておめでとう。早いね」

 俺が声をかけると女の子はびっくりしたというように目を見開いた。落ち着いて話しかけたつもりだったんだけど、そんなに驚かれるとは思わなかった。でもさすがは光野。すぐにいつもの冷静な顔、というよりも少し砕けた表情に変わった。

「あけましておめでとう。横から来たものだから少しびっくりしちゃった」

「ゴメンゴメン」

 ううん、と光野は首を横に振った。

 今年は女子の何人かとも一緒に初詣へ行く約束をしていた。でもまだ他の人は来ていないようだ。

「桜庭くんこそ早いね」

「母さんに叩き起こされちゃってね」

 ふふふ、とモコモコの手袋をした手で口元を抑えながら小さく笑う。

 こうして光野と会話をするのはなんだか久しぶりに感じる。去年は同じクラスということもあって話す機会も多かったけど今年は別のクラスだし、練習も基本的には男女別々でやるから同じ部なのに接することはほとんどない。最近は並行陣の練習に夢中で俺は遅くまで練習漬けだし、それに夏のあの一件以来周りにもなんだか気を遣われている感じがして、話しづらさを感じているのが正直なところだ。

「最近男子の方はどう? 調子いい?」

「そうだなぁ。みんな練習に気合いが入ってる感じがするし、声出しとか会話の数も増えてきて団結力が高まってきている気がするよ。女子の方はどう?」

「私たちも半年前に比べたらずっといいチームになってきていると思うんだ。でも、もっともっとレベルを上げていかなきゃだけど」

「それは俺たちも一緒だな。お互いがんばろう」

「うん!」

 光野の顔に満面の笑みが弾けた。夏合宿の時にはチームのことで悩んでいたことを俺に話してくれたけど、今は上手くいっているみたいだな。よかった。

 改札から出てくる人波は途絶えることを知らない。ただ太一や南の姿は一向に見えないままだ。遅いなぁ。

 光野との会話はそこで途切れてしまった。でもこのままみんなが来るまで黙っているのもなんだか申し訳ない気がする。

 二人の静寂とは裏腹に辺りは改札音や雑踏の音が輻輳している。時には目の前をカップルが腕を組みながら、「なにお祈りするー?」と横切っていく。なんだか気まずくて光野の顔は見れなかった。

 どうしよう。なにか話のネタになるものはないだろうか。ここはがんばって話をつなげないと……

『あのさ――』

「おーい!」

 群衆の向こう側から手を振って近づいてくる人影が複数。太一、南、ハル、石川、それから他の女子部員たちも一緒だ。

「参ったよ。この大混雑で電車も遅れててさ――あれっ、光野もいたの? ていうか新年早々お二人ともお熱いですなぁ」

「なにもしてないわよ」

 ビシッ! と太一の左頬に一発入った。それまで陽気に笑っていた太一はその場に倒れ込み、KОのゴングが鳴った。

「バカだなぁ。こうなるって分かってるのに」

 南が支えながら起こしてあげる。

 見事な一発を食らわした当の本人は表情をさらりと変え、「あけましておめでとう!」と女子部員たちと新年のあいさつを交わしている。この光景に男子たちは苦笑するしかなかった。

 俺たちも一通りのあいさつを終え――といっても「あけおめ」くらいだけど――群衆の流れに乗って参道を目指す。

「アイツ、相変わらず凶暴だな」

 赤く腫れ上がった左頬を抑えながら太一がぼそっと呟いた。その姿がか弱い小鹿にしか見えなかったから俺はもう吹き出す寸前。放っておいたら今にも群衆の荒波に呑み込まれそうだったから、笑いを堪えながらも一緒に隣を歩いてあげた。

 参道に向かう途中、道の両側にずらーっと並んだ屋台からいい匂いが漂ってきた。朝飯を食べたばかりだというのにお腹が食い物を欲している。

「私学の調子はどうなの?」

 食欲をごまかすために太一に聞いた。

「俺たちは順調に勝ち進んでるぜ」

 これまでとは打って変わって急にご機嫌になる太一。南を見つけては肩を組む。「急になんだよ」と戸惑う南もなんだか嬉しそうだ。きっと互いにいいペアなんだろうなっていうのは見ていて分かった。

「瞬たちはどうなんだよ?」

「それがさ……」

 声のトーンを少し下げて話すと太一は心配そうな表情を浮かべる。

「俺たちも絶好調なんだよね!」

「なんだよ!」

 拍子抜けしたというように太一は大きく仰け反った。

「紛らわしい言い方しやがって。一瞬変な間があったから心配したじゃねぇか」

「ゴメンゴメン。太一があまりにも真剣な表情を浮かべていたからついからかいたくなっちゃって」

「コノヤロォ」

 ヘッドロックを決められる。降参したというように手を叩いたらすぐに離してくれた。

「そっかぁ。じゃあ上手くいってんだな。新戦術のヘイコウ……」

「並行陣ね」

「そう、それ」

 太一は喉の奥に刺さっていた魚の小骨が取れたようなスッキリとした表情を見せた。

「自分でも上手くハマっている実感はあるんだ。私学の初戦も並行陣で相手を圧倒できたから。ただ、上手くハマりすぎて逆に不安があるというか……」

 今は二人とも調子がいいからそれで勝てているのかもしれないけど、いつもそうとは限らない。でももし自分が、ハルが、調子を崩した時でも同じように戦えるのか。そして勝てるのか。常に一抹の不安は感じている。

「ハマってんなら別にそれでいいじゃんか」

 あっこれください、と店員とのほんの数秒のやり取りで太一はベビーカステラを買うと、二、三個口に放り込んで頬張っている。「瞬も食べるか?」と差し出され、「じゃあ」ともらった。

「どうせ瞬のことだから、『今は調子いいけどもし崩れた時は勝てないんじゃないか』とか思っているんだろう?」

 ズキッ、図星だ。

「考えすぎなんだよ。調子いいとか悪いとか、そんなの考え出したらキリがないだろ。調子よくても勝つ。悪くてもなんとか勝つ。強気にいこうぜ」

 そう言うと太一は「他のヤツらにも配りに行くわ」と人混みに消えていった。

 太一にはああ言われたけど、でもその通りかもしれない。どんな調子であろうと試合に勝つ。そうでもできなきゃ全国へなんて行けない。俺が目指す世界っていうのはそういう次元にあるものなんだ。こんなくだらないことで悩んでいる暇があるなら、少しでも自信をつけるためにもっと練習しないとだな。

 神社に着くと早速お参りをすることにした。神前で部員一同一列に横並びして俺の合図でお賽銭を投げる。

 二礼、二拍手、一礼。

 全国へ行けますように。

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