32.勘違い

 学園祭は無事に成功を収め、生徒たちの熱は冷めやらぬまま学校生活は日常へと戻っていく。

 俺たちテニス部は私学大会団体戦の初戦を月末に控え、今週は定例戦をやることになった。シングルスはもう終わって、今日はダブルスだ。シングルスの結果はあまりよくなかったけど、団体戦のメンバーに入るためにもダブルスでは絶対に負けられない。今回は優勝してみせる。

「今日こそシングルスペアに勝ぁつ!」

 ハルが揚々と息巻く。シングルスペアとは堂上と土門のペアのことだろう。あの二人は確かに強い。前回敗北を喫している相手だし。

「ダブルスが本職の俺たちが負けてちゃダメだもんな」

「その通りだぜ!」

 コートに向かっていると後ろから声がした。

「上ばかり見ていたら足元すくわれるぜ」

 山之辺だった。隣には川口もいる。二人は俺たちの次の対戦相手だ。山之辺は相変わらず敵意剥き出しで睨んでくるけど、川口は隣で小さく肩をすぼめている。こっちも相変わらずか。ホント対照的っていうか、山之辺を見てからだと川口が謙虚すぎな感じがするし、川口を見てからだと山之辺の態度が横柄に見える。これでペアの相性がいいっていうんだから不思議でしょうがない。

 川口に目配せしたら控えめに笑ってくれた。というか苦笑い? きっと隣に山之辺がいるから気を遣っているんだろうな。いつもは普通に笑ってくれるから。

「誰に足元すくわれるって? まさかお前らに?」

 ハルが鼻で笑うように応戦する。

「冗談も顔だけにしろよ」

 うわー。ハルったらめっちゃ挑発してる。山之辺の性格を分かってのことなんだろうけど。

「なんだと!」

 ほらやっぱり。今にも殴りかかってきそう――って思ったけど、川口がなにやら声をかけると、いかんいかんというように山之辺は首を横に振った。再び俺たちの方を見た山之辺の目にはもう冷静さが宿っていた。

「いいさ。今は高をくくっておけば」

 そう言い残すと先にコートへ入っていった。

 山之辺が感情を露わにしなかったことには正直驚いた。ハルも同じことを思ったみたいで俺たちは無言で顔を見合わせた。そして、気を引き締めてかからねば、というようにこれもまた無言で頷き合った。



 赤井と別れてからの学園祭は正直なにも感じなかった。ハルがくれたたこ焼きも味がしなかったし、吹奏楽部の演奏を聞きにいってもなにも聞こえなかった。その後の中間テストも全然頭が働かなかった。それは多分、アイツに言われたことを考えていたから。

 逃げやがって。

 そんなことはサッカーをやめると決意した時点で百も承知していたことだ。でも赤井に言われた後、アイツが去っていった背中に俺はなにかを叫びたかった。なにかが俺の中で引っかかっていた。じゃあなにが引っかかっていたんだろうって考えて、考えて、考えて、今やっと分かった気がする。

「ゲーム瀬尾・桜庭ペア。ゲームスカウント4―2」

 試合中になに考えてるんだって言われるかもしれないけど大丈夫。試合にはちゃんと集中できている。むしろ調子がいい。

 今日は山之辺と打ち合う展開が多いけど、ストローク勝負では負けていない。いつもだったらロブで逃げているような追い込まれた場面でも、今日はストロークで押していって競り勝てている。むしろ逆にこっちからストローク勝負を仕掛けにいっているくらいだ。俺も遂にストローク勝負ができるまでに力がついてきたんだ。もう今までみたいにロブで逃げる必要なんてない。

 山之辺と正面から打ち合えているのは俺の調子がいいってこともあるだろうけど、きっと練習の成果でもあるはずだって思えるから自信が持てる。苦手なポーチにも積極的に出ているからいつもよりポイントも多く取れている。もちろんストレートを抜かれる回数も多いけど、ポーチに出る回数が増えればその分抜かれる回数も増えるのは当然だ。だからそれは気にしないことにした。

 ベースラインから上空へ高くトスを上げたボールが今日の曇り空によく映える。

 どうせテニスでも上手くいかなかったらまた逃げるんだろう。

 赤井はそう言った。でも俺はそのことだけは否定したかったんだ。

 確かに俺はサッカーから逃げた。その後は偶然にもテニスと出会い、一生懸命練習に打ち込んできた。でも、どんなにきつくてつらいことがあっても、テニスに関してだけは決して逃げずにやってきた。それはこれまでもそうだったし、これからだってそうだ。

 テニスでは逃げない。逃げたくない。

 言葉にできなかったあの時の俺はきっとそう思っていたんだって分かった。

「ゲームセット、ウォンバイ瀬尾・桜庭ペア。ゲームスカウント6―3」

 山之辺はめちゃくちゃ悔しそうな顔をしていたけど握手はしてくれた。あの一件以来、山之辺とは全く話もしない関係になってしまった。部員の一人ともまともに話ができないなんてキャプテン失格だよな。ただあの一件の後、最初は俺から話しかけようとしたんだ。でもそれを察した山之辺は俺をますます避けるようになり、いつしか俺も話しかけようとはしなくなった。今日は負けたこともあって握手さえしてくれないんじゃないかって思ったけど、さすがにそれはなかったか。スポーツマンシップにも反するし。

「瞬、どうしたんだよ?」

 コートを出るなりハルに言われた。その顔にはいつになく緊張感が走っていた。

「どうしたんだよって、なにが? ハルこそそんな真剣な顔してどうしたんだよ?」

「いつもとプレーが違ってた。ラリー中に追い込まれても全然ロブ打たないし」

 すごいな。たった一回試合しただけでハルには分かるのか。

「あぁ。あれはやめたよ」

「やめた? なんでだよ? あれが瞬のスタイルじゃん! 俺はそれがいいと思って――」

「まぁいいじゃんか。さっきだってロブなんか使わなくても山之辺たちに押し勝てたんだし。今までみたいにロブばかり打っていてもこの先ダメだと思うんだ。ストロークで真っ向から勝負できるようにならなきゃ上には行けない。そうだろ?」

「それはそうだけど……」

 ハルは煮え切らない表情を浮かべているけど俺は間違っていないはずだ。大会で勝ち上がるにはロブばかり打っていてはダメだ。ストロークで勝負できるようにならないと。そんなの基本だ。今までは相手のストロークに押されるようならロブで一旦逃げたり、ストロークだけでは崩せないからロブで相手のペースをかき乱してやろうと思っていたけど、それじゃ相手との真っ向勝負から逃げてるもんな。それはダメだ。 俺は逃げないって決めたんだから。

 それにストロークが強化できれば、ひいてはそれが全国へ近づく一歩になるのは間違いない。そうだ、俺にはハルを全国へ連れていかなければいけない使命がある。そのためにも、俺の成長のためにも、これは必要なことなんだ。俺は間違っていない。

「さっ、次は堂上たちとの決勝だ。この調子で倒しちまおうぜ!」

 ハルは割りきれないという顔をしながらも、「おう」と答えた。

 意気揚々と――少なくとも俺は――堂上たちとの試合に臨んだけど、山之辺たちとの試合のように上手くはいかず結果は2―6と惨敗を喫した。でもこれはしょうがない結果だと思っている。なんせ堂上と土門は新人戦のシングルスでも上位に食い込む実力の持ち主だ。シングラーである彼らの一番の武器はもちろんストローク。シングルスはダブルスと違ってストローク力がものをいう世界だ。そんな彼らとストローク戦で渡り合おうなんて、それこそシングルスで勝つことと同じくらい難しいことだ。でもいずれは渡り合えるまでになってみせるけどね。

「瞬先輩!」

 試合後、土門がいつものように人懐こく近寄ってきた。

「おう、土門。さっきは完敗だったよ――」

「先輩どうしちゃったんですか!?」

 食い気味に、加えて大声で詰め寄られた。

「どうしたんだよ。そんなに慌てて」

「だって先輩、前と全然プレーが違うんですもん。なんか無理に打ち返してくるっていうか、いつもなら上手くロブで逃げられて俺もどう崩していこうか困るところなのに、今日は……。なにかあったのかなって心配するじゃないですか!」

 コイツにも勘づかれていたのか。ホント上手いヤツらは変化にすぐ気づくな。

「なにもないって。ただ今まで通りのちまちましたプレーはやめたんだ。これからは漢と漢のストロークガチンコ勝負にするぞ! ってことに――」

「そんなの先輩らしくない・・・・・です! 俺は反対です!」

「は、反対って、俺はこれからのことを考えてだな――」

 俺の話なんて聞いてないというように土門は不機嫌そうに食い下がってくる。

「俺は前の先輩の方がいいと思います。正直前の先輩の方が対戦していてやりづらかったです。ポーチだって今日みたいになんでもかんでも出てくるんじゃなくて、ちゃんと見極めた上で出てきてましたし、ラリーだって俺が渾身の一撃を打ってもロブで逃げて俺たちのタイミングを上手く崩してました。でも今の先輩からはそんな脅威一切感じません! 負ける気がしません!」

「それは俺がまだ――」

 俺が言い終わる前に土門はそそくさと行ってしまいやがった。なんだよアイツ! いきなり来て「前の方がよかった」なんて好き放題言いやがって! 俺だって考えて戦い方を変えたんだ! もっともっと強くなるために変えたんだ!

 ただ土門があそこまで怒った表情みせるとは思わなかった。でも「ああそうですか」とこのまま引き下がるつもりはサラサラない。そりゃ確かに今は力及ばずともこれから必死に練習して、練習して、必ずや堂上や土門ともストロークで渡り合えるようになってみせる。絶対見返してやる!



 私学大会団体戦、一回戦当日。

 そういえば俺が初めて出た公式戦は去年のこの私学団体だったな。ハルが試合当日に福岡のアキくんのところへ行ったもんだから急遽代理として出場した。あの時は右も左も分からなくて、目の前の一球一球をただひたすら返すことしか頭になかった。でも今は違う。

 今日も天気はパッとしない。最近はずっとこんな天気だ。どんよりとした雲が上空を覆い、空を低くしている。テニスボールを思いきり上へ打ったら届くんじゃないかってくらいに。気温も低いのか少し肌寒く感じる。

 でもそんな天気とは対照的に俺の心は燃えている。低空の雲なんて吹き飛ばすくらい燃えに燃えている。なぜかって? そりゃ新しい自分を試す時が来たからだ。今までの弱腰な戦い方から卒業し、そして試合に勝つことで新たな強さを手に入れる。その意気込みを持って今日俺はここに来た。

「大会では初戦を戦うのが一番難しい。体が硬くなりがちになるからだ。でもまずはいつも通りのプレーをするように心がけろ。そうすれば自ずとペースも掴めてくるはずだ」

『はい!』

 試合前に監督の檄を受ける。

「相手は千代原商業だ。新人戦で対戦したことのあるメンバーもいると思うが、あの時勝っていても今日も同じように勝てるとは限らない。気を引き締めていくように」

『はい!』

 運がいいんだか悪いんだか、初戦から相手のレベルも高い。千代原商業は強豪とはいかないまでも大会では上位に食い込んでくる実力のあるチームだ。最近の成績だと吹野崎と同じかそれに少し劣る。先輩たちの試合も含めてこれまでに何度か対戦したことはあったけど負けたことはない。

 監督が言っていたのはおそらく俺たちのことだろう。D1で対戦する相手ペアは新人戦の時に一度顔を合わせている。その時は俺たちが6―2と快勝した。あれから相手も強くなっていることは分かっているけど、順当にいけば俺たちに軍配が上がるはずだ。これは決して奢りなんかじゃなくて冷静な分析。

 試合はD3から始まってD2、D1、S2、S1と続く。D3は南と2年の日下部のペアだ。S1に堂上、そしてS2には土門が選ばれたことで南はシングルスのメンバーから落選した。すごく悔しいだろうに、「メンバーに入れただけラッキーだったよ。ダブルスなら俺よりも上手いヤツだっていたのに。だから選ばれたからには俺はソイツらの分までがんばるよ」と悔しさは表に出さなかった。さすが頼れる副キャプテンだと感心した。

 試合も後輩の日下部を上手くリードしながら勝利へと導いた。続く山之辺と川口も勝利を収め、団体戦の勝利へ王手をかけたところで俺たちに出番が回ってきた。

 山之辺たちと替わってコートへ入り、ラケットを回してまずはサーブ権を決める。――スムース。サーブは俺たちからになった。

 サーブを打つ前にハルが俺の元へ駆け寄ってきて手を差し出してきた。

「いつも通り……な?」

 そんなこと言われなくても分かってるって。ただいつもなら試合前のハルは試合が楽しみでしょうがないっていうようなキラキラした顔を向けてくるのに、今日はいつになく神妙な顔をしている。体調でも悪いのか?

「う、うん」

 ハルの真意が掴めず、それでいてハルが本当に体調悪いのか確認する時間もなかったから中途半端な返事になってしまった。

 今朝から見た感じだとハルは特に体調が悪いそぶりなんて見せていなかったから大丈夫だと思うけど、もし試合中に急変するようなことがあったら俺が支えてみせる。いつまでもハルにばかり頼ってはいられないもんな。新しく生まれ変わった俺を見せつけてやる。

「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ。吹野崎、サービスプレイ」

 ハルのサーブ。宣言通り相手のバック側を狙いセンターへ放たれ、深くていいコースに決まった。甘く返ってきたところを俺がポーチに出て難なく決める。なんだ、全然体調なんて悪くないじゃん。

「ナイッサー!」

「おう! 瞬もナイスポーチ!」

 ハルのサービスゲームはあっという間にラブゲームキープした。続く相手のサービスゲームはデュースまで持ち込むも、サーブの優位を覆せずに死守された。

 次は俺のサービスゲーム。自陣中央でハルからボールを手渡された。

「瞬、いつも通りな」

 また言われた。だから分かってるって。ハルはなにをそんなに心配してるんだろう?

「絶対キープしよう」

 とりあえず頷いてそう言った。そしてハイタッチ。ハルは少し微笑んでから振り返って前衛の守備についた。俺もベースラインへ歩いていきながらサーブへの気持ちを高めていく。

 トン、トン、トン。ボールを地面に〝いつも通り〟三回つき、深呼吸。サーブのコースを確認してトスを上げた。

 センターに入った! よしっ、狙い通り。でも相手もバックバンドで上手く返してきた。俺はそのリターンにストロークで応戦し、ラリーの展開になる。ただ相手のストロークは思ったより重いし深い。こんな時はすかさずロブを――ってダメだ! もうロブは使わないって決めたじゃないか。これくらいのストロークに食らいついていけないようじゃ、きっとこの先もすぐ逃げ腰になる。それじゃダメなんだ! 俺は逃げないって決めたんだから。

「0―15」

 最後はストロークに押されて相手の前衛に捕まってしまった。

「ゴメンゴメン。甘く入っちまった。次は大丈夫だから」

 近づいてくるハルに対して俺は先に声をかけた。

「もしストロークで押されるようだったらいつもみたいにロブで逃げてもいいからな。そこからまた立て直していけばいいんだし――」

「いや、それは大丈夫。これくらい・・・・・の相手ならストロークで戦えるから」

 フィフティーンセカンズの主審コールでハイタッチをして別れた。

 俺の返答にハルは冴えない顔をしていた。でもゴメン、ハル。俺はもう決めたんだ。次こそは打ち勝ってみせるから!

 続くサーブのトスを上げる。よしっ、ワイドに入った! ラリーも優位に立っている。このままサーブの優位をキープして押しきるぞ。でも――

「0―30」

 クソッ! まただ! サーブでは優位に立てているのにいつの間にかラリーで形勢逆転されている。

「0―40」

 なぜだっ! なぜ今日は上手くいかない!

「瞬。やっぱりお前に力勝負は向かねぇよ。無理して相手のペースにつき合う必要なんてないんだ。だからこれまで通り――」

「ハル。俺はもう前の俺じゃない。以前のように相手の強力なショットから逃げるようにロブを打っていた弱腰の自分とは決別したんだ。だからもうロブは打たない」

「ロブを打たないって、そんなこと言ってる場合じゃないだろ! このままだとブレークされちまうぞ!」

「分かってる! でもこれからのためにも、強くなるためにも、ここで逃げるわけにはいかないんだ!」

 フィフティーンセカンズ。主審のコールがコートに響いた。

「大丈夫。ここは必ず耐えてみせるから」

 半ば強引にハルからボールを奪って背を向けた。

 ハルには申し訳ないと思っている。俺に力がないばっかりに不安にさせてしまって。でもここで逃げたら俺は殻を破れない気がするんだ。いつの日からか、ずっと俺を取り巻いているこの硬い殻を。俺はこの殻を破らなければきっと呪縛からは解き放たれない。だからたとえ押されようとも、そこに逃げる選択肢があろうとも、俺は絶対に逃げない。逃げないって決めたんだ!

 ボールを三回地面についてトスを上げた。雨粒が一つ目に入った。



「ゲームセット、ウォンバイ吹野崎。ゲームスカウント6―3」

 試合を制した土門がコート上で「よっしゃ!」とガッツポーズを掲げる。

「これで三本取ったうちが初戦突破だ」

 隣で応援していた太一は嬉しそうに俺の方を見ると、「あっ」と気まずい顔をした。別にいいよ。気遣わないで。

 その後も堂上が勝利を収め、全体の結果は4―1となった。落とした一本はD1、俺たちの試合だった。

 全ての試合が終わると、それまで小雨でもってくれていた天気が急転して本降りになってきた。部員全員で急いで屋内に避難する。でも俺は移動しながらも土砂降りの雨に打たれていたい気分だった。そっちの方がまだ気が楽になりそうだったから。

 ゲームスカウント1―1、0―40からの場面。俺はハルに「必ず耐えてみせる」と啖呵を切ったくせに1ポイントも奪えずサービスゲームをブレークされてしまった。そのことがあまりにも信じられなくて、次のゲーム、その次のゲームと俺は立て続けにストローク戦を挑んだけど、そこでも1ポイントたりとも取れなかった。流れを変えようと前衛の時にはポーチにガンガン出たりもしたけど、それも相手にストレートを抜かれるだけ。最初の頃は声をかけてくれていたハルも次第になにも言わなくなり、二人の連携はバラバラに。結果は1―6と惨敗もいいところだ。

 俺はなにも言えなくて、みんなの前で顔も上げられなくて、キャプテンなのに応援もそっちのけで隅の方で試合の音だけを聞いていた。

 なにが悪かったんだ? 俺はただもっと強くなりたいと思っていただけなのに。そのために逃げずに戦おうと思っていただけなのに。なんで――

「聞いているのか! 桜庭っ!」

「は、はいっ!」

 気づくと監督が鬼の形相で俺を睨んでいた。試合後のミーティングの最中だった。

「今日のお前のプレーはなんだと聞いているんだ!」

「それは……逃げずに、ストロークで戦おうと思って――」

「バカヤロウ!」

 目の前で監督に怒鳴られた。

「ストロークだけで勝てるほどテニスは甘いスポーツじゃねぇ! お前のその自己満足なプレーで周りのメンバーにどれだけ迷惑をかけたのか分からねぇのか! 必死になって練習して、それでも試合に出られなかったメンバーの気持ちが分からねぇのか!」

 試合に出られなかったメンバーの気持ち……。太一をはじめ、ベンチメンバーの顔を順々に見た。そこで俺は初めて自分が恥ずべきことをしたんだと自覚した。

 これは団体戦だ。俺は選ばれてあの舞台に立っていたんだ。選ばれた者は選ばれなかった者の分まで一生懸命戦う。形はどうであれ、勝利のためにどんなボールにも食らいつき、全力でポイントを取りにいく。いつも監督が言っていることだ。俺はそんな当たり前のことも忘れていた。

「俺がお前を買ったのはあんな打ち合いをさせるためじゃねぇ! 少し力がついてきたからって自惚れるな! それから瀬尾! お前もお前だ! 桜庭を止めようともせず――」

 俺のせいでハルまで……。ハルはなにも悪くないっていうのに、ゴメン……

「そんなんじゃお前らが目指す全国なんか到底行けるわけがねぇ! なめるな! 今後もお前らが変わらない限り試合には出さん! なにが悪かったのか、頭を冷やして出直してこい!」

 監督からそう告げられた後のことはあまり覚えていない。傘なんて持ってきてなかったから冷たい雨の中を行き先もなく彷徨い、時には人とぶつかったり、時には自動車に水たまりの水をかけられたりした。そして気づいた時には全身ずぶ濡れになって、親水公園のコートが見える高台のベンチに座っていた。

 俺はなにをやっているんだ……

 秋の豪雨は俺に追い打ちをかけるように容赦なく襲いかかってくる。次第に風も出てきた。寒い。でも今の俺にはちょうどいいのかもしれない。監督にも頭を冷やせって言われたし、今はもう少しこのままでいたい。あぁ、いっそこのモヤモヤした気持ちも雨と一緒に流れていってはくれないだろうか……

「やっと見つけた!」

 頭上から声がした。声の方向を見上げるとハルが俺の頭上に傘を差して立っていた。

「ったくなにしてんだよ。風邪引くぞ。あーあ、全身ビショビショじゃんか。タオルと着替え持ってきて正解だったぜ」

 ほら、とハルからバッグともう一本の傘を手渡された。

「コートの更衣室でも借りて着替えてこいよ」

「ハル……」

「なに泣きそうな顔してんだよ。いいから早く着替えてこいって」

「……うん」

 俺はハルから手渡されたバッグとともにコートの更衣室へ向かった。バッグを開けると中にはタオルとハルがいつも来ているジャージが入っていた。俺はタオルで体を拭いた後、ジャージに着替えた。

 着替えてから戻ると、ハルが傘を差しながらベンチに座っていたから俺もその隣に座った。

「監督にこっぴどく怒られちまったな」

 ハルはニコッと笑う。でも俺には笑い返す元気はない。

「これで瞬も監督の本当の恐ろしさが分かっただろ? 俺も去年試合サボって福岡行った時、帰ってきてから監督にめっちゃ怒られたからさ。これで俺たち仲間だな」

 確かに監督に怒られて怖かったは怖かったけど、それ以上に自分に対して失望したことの方が大きかったから監督がどうこうっていうのは正直なかった。

「ハル、ゴメン」

「もういいって」

「でも!」

 ハルの顔を見るとまたニコッて笑われた。

「だからもういいって」

 ハルには一番迷惑をかけてしまったっていうのに、こうもあっさり許してくれるんだもんな。器の大きさじゃ敵わないや。

 雨の勢いはとどまるところを知らず、二つの傘に尚も降りかかってくる。眼下に広がるコートには水溜まりがいっぱいできていて、とても使えるような状態じゃない。いつもは人が行き交う公園の道も、この雨の中では誰一人として通る人はいない。

「学園祭で話してたアイツのことを気にしてるんだろ?」

「なんで分かるの?」

「分かるに決まってんじゃん! だって瞬、あれからずっと変だったもん。それに――」

 ハルが少し間を置いた。でも目は真っすぐに俺を見たままだ。

「俺はお前の相棒だぜ? まぁダブルスのペアとして正式に相棒になったのはここ最近だけど……って、そんなこと今はいいんだよ!」

 自分で自分にツッコミを入れている。

「少なくともこの一年半は他の誰よりも一緒にいた。他のヤツらが瞬の異変に気づけなくても俺だけは気づける自信があるね」

 またそんなドヤ顔して。鼻がヒクヒク動いてるって。

「プッ」

 我慢しきれずに吹いてしまった。ホントこんな時でもハルはお構いなしにハルっていうか。でもそんなしょうもないことで笑ってしまうようないつもの空間に戻ったみたいで気持ちも落ち着いてきた。

「『どうせテニスでも逃げるんだろう』って、あの時そう言われたんだ」

「うん、知ってる」

 そうだった。その場にハルもいたもんね。赤井に言われっぱなしで黙りこくっていた俺とは対照的にハルは言い返してくれていた。

「確かに俺は一度サッカーから逃げた。でもテニスからは逃げたくなかったんだ。赤井に言われた瞬間は頭が真っ白になってなにも言えなかったけど、その後ずっと考えてそう思った」

 ハルの方を見ると変わらず真剣なまなざしで俺を見ながら話を聞いてくれていた。腹を割って話すのは少し恥ずかしかったけど、俺は真剣に話を続けた。

「そう思ったら、今までの自分のプレーがなんだか逃げているように思えてきて……」

「ロブを多用することか?」

「……うん。俺はテニスの経験が浅い分、パワーや技術で劣る部分は頭を使おうと思ってああいう戦い方を思いついたけど、それってただ単に経験が浅いことを言い訳にして逃げているだけなんじゃないかって。それじゃアイツの言った通り俺はテニスからも逃げていることになる。それにロブばかり打つことに慣れて満足してしまったら、これ以上強くもなれないんじゃないかとも思ったんだ。でも逃げずに勝負を挑んだら今日みたいに散々な結果になる。……俺、どうすればよかったんだろう」

 気持ちが空回りしていたことは分かっている。それでみんなに迷惑をかけてしまったことも。でも俺にはそうする以外に考えられる選択肢がなかった。俺はどうすればよかったんだろう……

「逃げることってそんなにいけないことかな?」

 ハルは首を傾げながら言った。

「えっ?」

「瞬は逃げたくない、逃げたくない、って言うけどさ、逃げないことだけがホントにいいことなのかなって」

 俺も首を傾げた。ハルの言っていることがよく分からなかったから。だって〝逃げる〟っていう選択肢と〝逃げない〟っていう選択肢があるなら、〝逃げない〟道を選んだ方がいいに決まっている。〝逃げる〟道を選んだ時点でその先の勝利はないからだ。俺がサッカーから逃げたように。

「俺だって一度テニスから逃げたことがあった。アキが福岡に行っちまうって聞いた時な。『もうテニスなんてやんねぇ! やめてやるっ!』って思ったね」

 その時のことを思い出しているのか、ハルは拳をつくってもう片方の手のひらにパンチするような仕草をしつつ笑いながら話してくれた。

「でも一度テニスから離れてみて分かったんだ。やっぱり俺にはテニスしかないんだって。テニスが大好きなんだって。俺はそのことが分かったから、今テニスができていることにすげぇ楽しさを感じてる」

 ハルは握り締めていた拳を膝の上でゆっくりと開き、もう一度強く握った。そして改めて俺の方を向いた。

「確かに瞬の言う通り、もっと上に行くためにはロブだけじゃなくてストロークもサーブもリターンもボレーもスマッシュも、もっともっと強化していかないといけない。でも強くなることに固執しすぎて、瞬自身の強さを自ら消してしまうのはもっといけないことだよ」

「俺の強さ……?」

「ああ。試合中、相手に追い込まれて追い込まれて、もうダメかと思っても瞬は必死に食らいついてくれて、首の皮一枚つなぐロブを上げてくれる。その後二人で体勢を立て直して、逆境からポイントを奪い返した場面なんてこれまで何度もあった。この形は俺たちの勝利の方程式だと思うんだ!」

 ハルは言葉に力を込めるようにその場で立ち上がった。そして腕を広げるようにして俺に語りかける。放られた傘は風に乗ってゆっくりと地面に落ちていった。

「でもそれが実現できているのは瞬のお陰なんだよ。相手がどんなに強くても、諦めず、粘って、耐えて、チャンスを手繰り寄せる。それが瞬の強さであって、〝瞬のテニス〟だろ? 俺は好きだぜ、瞬のテニス」

「ハル……」

 さっきまでの豪雨はいつの間にか止んでいた。雲間からこぼれ落ちる光が四方八方に伸びていき、湿ったアスファルトを照らしていく。そのうちの一筋が傘を放ったハルの顔に当たって、明るい笑顔を更に輝かせる。

「確かに言われてみればロブって追い込まれている時によく使うから、逃げてるように感じるのかもな。実際『ロブで逃げろ』って言うしな。でも俺は瞬が試合中に打つロブはすげぇいいなって、ずっと前から思ってたんだぜ。俺は瞬のロブに何本助けられたか分からない。確かにロブを打ったその瞬間は一時的にそのラリーから〝逃げた〟ことになるのかもしれないけど、それは体勢を立て直す時間をつくって次につなげるためだろう? そしてそのポイントを取るためであって、最終的に試合に勝つためでもある。だから、逃げることは勝利を諦めることにはならない」

 ハルを暖かく包んでいた光は次第に俺の方へも広がってきた。その光に包まれていくつれて、胸の内にあったモヤモヤした気持ちもスーっと晴れていく。

「逃げないで挑み続けていれば強くなれる。確かにそれも正しい。でも俺は逃げないことが全て正しいなんて思わない。時には逃げたっていいじゃないか。一度逃げないと見えない景色だってある。それを見てからまたがんばったって、遅くはないんじゃないかな」

 ハルはまたニコッと笑った。雨上がりに舞った空気中の水分や塵に光が反射して、いつも以上にハルの笑顔がキラキラして見えた。

 時には逃げたっていいじゃないか。ハルのその言葉で、俺が今までやってきたことは無駄じゃなかったんだって報われた気がした。それと同時に、ハルの笑った顔を見ていたら俺はなんてバカなことをしたんだとも思った。

 俺は大きな勘違いをしていた。赤井の挑発にまんまと乗ってしまい、なんでもかんでも逃げないでいれば赤井の言ったことを否定できると思い込んでいた。強くなるためだから、ってみんなにも自分にも言い訳して、ただ赤井の言ったことを否定できればいいやって思っていた。それで自己満足なプレーに走ってしまって……。幸いチームが勝ったからよかったものの、キャプテンともあろう者が部全体に迷惑をかけてしまった。特に試合に出られなかった仲間の想いを踏みにじってしまったことは本当に申し訳ない。一番大事なことは、どんな形であれ仲間の分まで全力で戦うことなのに。そんな簡単なことも見失っていた。

「俺、間違ってた」

 俯く俺の肩にハルの手が乗せられる。

「気にするな。次、強くなればいいんだから。また一からのスタートだな」

「……うん、そうだね」

 二人で顔を見合わせて静かに笑った。

「よっしゃ! そうと決まれば早速練習だ」

「練習って、どこで?」

「んー、分かんないけど……とにかく行こうぜ!」

 ハルに手を引かれるがまま俺は走り出した。水溜まりに足が浸かることなんか気にせず、パシャパシャと音を立てながら走った。

 ハルの背中を思いきり追いかける。気持ちいい。雨上がりのじとっとした空気で肌が覆われそうになるけど、走っているとその膜から一気に解放される感覚だ。全てが吹っ切れる気がする。

 ハルの言う通りまた一からのスタートだな。俺は決心を新たにして走るスピードを上げた。雨上がりの太陽はとびきり眩しく感じたけど、優しく、柔らかな光で俺たちに微笑みかけてくれている気がした。

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