第3章
18.デジャヴ
パッと目が覚めた。視界の端に見えるカーテンの隙間からは新学期を祝う暖かな陽光が射している。その一閃は俺の部屋に道を拓き、ベッドから一番遠い扉の取っ手まで伸びている。この扉を開けて外へ出れば二年目の高校生活が始まる、そう示すように。……って、あれ? この展開、どこかで……
首だけ動かして枕元の目覚まし時計へ焦点を合わせる。8時16分。
なんだまだ八時か……って、八時!? 嘘だろ? なんで目覚まし鳴らなかったんだよ――あっ、スイッチ入れ忘れてる。去年電池切れで遅刻しかけたから今年こそはって電池を入れ替えたまではよかったけど、それに満足してスイッチ入れるのを忘れていた。はぁ、なにやってんだ、俺。
ハッと我に返る。まずいまずい、遅刻だ! しかもあと十四分しかない。あっ、一分進んだからあと十三分か。これは俺史上最大のピンチだ。
バッと勢いよく両手でカーテンを開ける。眩しくて一瞬たじろいだけどそんな余裕はない。急いで着替えなければ。
ベッドから飛び降りてパジャマを脱ぐ。それからハンガーにかかっているYシャツを着て、ズボンを履いてベルトを締め、最後にネクタイを結ぶ。去年は手こずっていたネクタイも今ではもう簡単に結べる。一年間も結び続けていればお手の物だ。ここをこう巻いて、最後に穴へ通して、キュッキュッキュッと。はい完成。
ブレザーを羽織り、カバンを持って部屋を飛び出した。
「母さん! なんで起こしてくれなかっ――」
リビングには誰もいなかった。そうだったぁ。幼稚園の入園式も今日だったんだ。昨日母さん言ってたな。練習で疲れていたから全然聞いてなかった。風呂から上がったら睡魔が一気に襲ってきて、なんとか目覚まし時計の電池を入れ替えるまではできたけど、スイッチは入れ忘れていたんだ。なんで今日に限って……。今年もやっちまった。去年は目覚まし時計の電池切れだったから不可抗力的なところもあったけど、今年はそうじゃない。スイッチの入れ忘れとか完全に自分のせいだ。
机の上には『朝ごはん冷蔵庫にあるよ』と書かれたメモが置いてある。当然食べている暇なんてないからそれはスルー。
リビングの時計を見る。8時20分。あと十分だ。
この時間なら今すぐ家を出て走ればギリギリ間に合うはずだ。日々部活の練習で鍛えられているだけあって足も速くなっているし、体力も大分ついたからな。――って、いかんいかん。そんな余裕ぶってなんかいられない。早く学校へ向かわなきゃ!
ガチャ、と鍵を閉めて家を飛び出した。
「おはようございます!」
走りながらでもご近所さんへのあいさつは忘れない。大事だからな。
「あら瞬くん――」
毎日すれ違うおばちゃんに声をかけられた。でも今日は話している時間がないんだ。ゴメン、おばちゃん。
「がんばれよ若者!」
おじさん、ありがとう。
親水公園に入り、朝のランニングをしているおじさんたちを四、五人ごぼう抜きしていく。中々気分がいい。
安い優越感とともに親水公園を後にする。
体力的にはまだまだ余裕だ。ペースアップだってできる。去年はここら辺でガス欠になっていたような気がする。受験勉強で全然運動していなかったからだけど、どれだけ体力なかったんだ、俺。でもそんな運動鈍りなんて軽く吹っ飛ぶくらい、この一年で山ほど走った。なんてったってラインタッチとか、ラインタッチとか、ラインタッチとか……。あれ? おかしいな。ラインタッチしか思い出せないぞ。でもあれだけ走っていればそりゃ嫌でも体力つくって。監督も目ぇギラギラさせながら見てくるもんだから手なんか抜けないし。まぁ元々抜くつもりなんてないけどね。
そんなことを考えていたら最後の曲がり角まで来ていた。確か去年はここで……ん?
T字路の反対側からも誰か走ってくる。同じ制服に身を包んだ馴染みのある顔。俺を見て笑っているようだ。まさかここでまた相まみえることになるとはね。去年はその笑顔に油断してしまったけど今年はそうはいかないからな。
徐々に距離が近づいていく。近づくにつれてソイツの顔もよく見えてくる。やっぱり笑ってんな。
二人同時にT字路に差しかかり、俺は左に、ソイツは右に体を傾けて曲がった。そんなに広い道じゃないからお互い膨らみすぎて腕と腕がぶつかった。でもお互い一歩も引くことはなく、満開の桜の下を二人で駆け抜けていく。
そこからは前だけを見て必死に走った。腕を振り、足を回し、少しでも速く走った。呼吸はしてなかったかもしれない。
角を曲がってからソイツは一向に俺の視界に現れない。振りきったかと思って横目で見るも……いる。確かに俺の真横に並んで走っている。向こうも俺のことを見ていたのか、目が合うとニコッと笑ってきた。そう易々とペースに乗せられてたまるかと俺は視線を前方へ戻した。けどなんか嬉しくて、楽しくて、つい口元が緩んでしまう。ダメだな。完全にコイツのペースに乗せられちまってる。
緩んだ口元から空気が入ってきて口の中を乾かしていく。負けじと唾を飲み込んで最後の力を振り絞った。
残り20メートル、……15、……10、……5――
「よっしゃー! はぁ、はぁ……俺の勝ちぃ!」
膝に手を置いて呼吸を整える。カバンはゴールの勢い余って3メートル先まで転がっていた。ハルのカバンも近くにある。
「はぁ、はぁ……今のは俺の勝ちだろぉ」
ハルも前かがみになりながら肩を上下させている。顔にも苦悶の表情を浮かべている。ホントにきつそうな顔してんな。
「プッ、ハハハ」
「ハハハ」
「なんつー顔してんだよ、ハル」
「瞬だって、ひっでぇ顔してるぜ。あと――」
ハルはなにかを言いかけてやめた。「なんだよ?」って聞いても、「やっぱりなんでもなーい」と答えてくれない。代わりに俺のことを見て笑ってないか?
気になったけど今は問い詰めるだけの元気が残ってなかったから、まぁいいやとスルーした。さっきの勝負もぶっちゃけどっちが勝ったかなんて分からないけど、ハルの笑っている顔を見ていたらそんなのどっちだっていいやって思えてきた。
ハルと一緒に走っていたこの数秒間はなにがあったのか自分でも分からないくらい一瞬だった。突然目の前にハルが現れたと思ったら次の瞬間には俺の隣で走っているし、気づいたらもうここにいた。でも楽しかったってことだけは体が覚えている。ワクワクするようなこの胸の高鳴りがそう言っている。ハルといるといつもそう感じる。
「そろそろ行こうぜ」
「えー、もう行くのかよ。だってまだチャイム――」
キーンコーンカーンコーン。
「やべっ、鳴っちまった! 急ごうぜ!」
下駄箱に向かって走っていこうとしたら玄関の方から大柄な男が現れた。
「またお前たちか」
「げっ、本田先生」
「『げっ』じゃないぞ桜庭。瀬尾もだ。お前ら、二人揃ってまた始業式の日に遅刻しやがって。去年と同じじゃないか」
本田先生はあまり怒鳴ったりはしない人だけど――今も怒鳴っているわけではない――こうやって面と向かって近くにいるとその巨体だけで圧倒されてしまう。さすがバレー部の顧問だ。
「でも先生、去年俺たちが遅刻したのは始業式じゃなくて入学式の日ですよ」
「そんなのはどっちでもいい」
ハルの頭上にゲンコツが下った。
「いてぇよ先生」
バカだなぁと思いながらも少し笑ってしまった。
「笑っているが桜庭、お前のあた――」
「あー! 先生シーッ!」
ハルが先生に向かって人差し指を口に当てる。先生は驚いて黙ってしまったけど、俺の方をじっと見つめてくる。俺の顔になんかついてるのか?
「じゃ先生、俺たち教室に向かわないと」
「そうだな。明日は気をつけるんだぞ」
「はーい」
ハルが俺の後ろに回って背中を押してくる。仕方ないから押されるがままに下駄箱へ歩いていく。
「二人とも、そこに新しいクラス割り掲示してあるから、ちゃんと確認してから行けよ」
そうだった。今日から新しいクラスに変わるんだ。誰と一緒になるんだろう。ハルとは一緒になれるかな。
すぐに靴を履き替えて掲示板に貼ってあるクラス割りに飛びついた。二人して肩を寄せ合い、A3の紙に書いてある無数の名前の中から自分のものを探す。
「……あった。俺はA組か」
今年も本田先生のクラスだ。よかった。先生は見た目こそ迫力あるけど優しい人だからな。
「ハルは?」
「……見つからねぇんだけど、俺の名前。まさか、成績悪すぎたから除名されたとかじゃないよな? もしそうだったらどうしよう! 瞬、助けてくれぇ!」
膝を折って子供が泣きつくように俺の足にしがみついてくる。ホントしょうがないヤツだな。
「ちゃんと探してないだけだろ。……ほら見つけた」
「え! どこどこ?」
今度はおもちゃを買ってもらった子供のように嬉しそうな目を宿して掲示板に食いついてきた。
「ほら、ここ。D組」
「ホントだ! よかったぁ。一瞬マジで除名されたのかと思って焦ったぜ」
「そんなわけないじゃん」
「うわっ! 最悪。またあのおばちゃん先生のクラスじゃん。今日の遅刻もガミガミ言われんだろうな」
「それはご愁傷様だね。それより早く教室行こうぜ」
「そうだな」
一応遅刻している身だから走っていくことにした。廊下は走っちゃダメだけど今日は仕方ないよな。早く新しいクラスに行きたいっていう気持ちも俺たちを急かしてくるし。
さっきはハルのせいで同じクラスの他のメンバーの名前を見る余裕なんてなかったからな。誰がいるんだろう。
「俺たちまた別々のクラスだな」
階段を駆け上がりながらハルが言った。
「そうだね。ちょっと残念」
「でも部活で一緒だし、別にいいか」
「うん」
ハルにそう言われると確かにそうだなって思えるんだよな、不思議と。
「じゃあ俺こっちだから」
「うん。また部活でね」
階段を上がって一番近くにあるのがA組だ。D組は一番奥にあるからハルとはここで別れた。
ハルに別れを告げた後、俺は教室の扉の前に立った。まだ先生が来ていないからか中が騒がしいな。一つ深呼吸をしてから恐る恐る扉を開けてみる。
ガラガラガラ。
「あっ、来た来た。初日から遅刻するなんて肝座ってんな」
「おはよう、瞬」
扉を開けると太一と南が俺に向かって手を振ってきた。
「太一! 南! 同じクラスだったんだ」
知っているヤツらがいて安心した。しかもこの二人はテニス部でもいつも一緒にいるメンツだ。純粋に嬉しい。
「よろしくな」
「よろしく」
他はというと……あっ、高橋だ。目が合って手を振ってくれている。石川も一緒か。女子たちとなにやら楽しそうに話しているな。奥で突っ伏して寝ているヤツは……堂上か?
教室をキョロキョロ見回している俺が変だったのか、太一と南がなにやらクスクス笑っている。俺のこと指まで差して。
「なに笑ってんだよ?」
「気づいてないのかよ。俺もうダメだ。我慢できねぇ」
「だからなにが?」
太一は笑い転げてしまって会話できる状態じゃないから代わりに南に問う。
「頭だよ、頭」
「頭?」
なにかついてるのか? 確認するように手のひらであちこち触ってみる。前、上、右、左、後ろ。なんかいつもより結構ふわふわしているような……
「ひょっとして、寝癖立ってる?」
「気づいた気づいた」
焦っている俺の顔を見て太一は腹を抱えながら更に笑い転げる。南も太一ほど大笑いはしていないけど、手で口を覆っているのが意味ないくらいフフフって笑い声が漏れている。
「鏡とか見なかったの? あっ、そっか。遅刻してそれどころじゃなかったのか」
「う、うん」
その通りです。それにはなにも反論できません。寝坊した俺が悪いっていうか、電池の交換に満足して目覚まし時計のスイッチを入れ忘れた昨日の俺が悪いっていうか。クソッ、昨日の俺め。恨んでやる。
「そんなにひどいのか?」
確かに触ってみると結構ふわふわしているけど、実際に自分の目でまだ見ていないからどれだけひどいのか俺自身が一番分からない。
「ひどいってもんじゃねぇよ。爆発だよ爆発。それじゃあ実験に失敗した人か宇宙人だぜ」
そう言うと太一は今度笑いながら机を叩き出した。
爆発って。そんなに――ほら、太一が机まで叩き出すもんだからみんなこっち見てきたじゃん。恥ずかしいだろ。
とりあえず手のひらを目いっぱい広げて全力で頭を隠す。ふと視線を上げたら石川と目が合ってしまった。どうすればいいか分からず、恥ずかしさを紛らわすために笑ったら石川も笑ってくれた。よかった。
そういえばハルもさっき俺のこと見て笑ったり、本田先生に「シーッ」てやっていたような……。さてはアイツ気づいてたな! 気づいていたのにおもしろがって黙ってやがったんだ。もう、ハルのバカヤロー!
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