ペア
@koikoi2021
プロローグ
轟く歓声。
後ろでは、これまで幾多の苦難をともに乗り越え
てきたかけがえのない仲間たちが声を大にして俺た
ちにエールを送ってくれている。
そして目の前には、これまで幾度となく俺たちの
前に立ちはだかってきた最強にして最大のライバル
が再び行く手を塞ぐ。
でも、俺の相棒はこんな時でもいつもと変わらず
その顔をくしゃくしゃに丸めてニコッと笑う。それ
につられて俺も笑う。それからともに頷き、合言葉
のように同じ言葉を発す。
『俺たちは最高のペアだ!』
勢いよくハイタッチを交わした音は、歓声にも負
けないくらいコートに響き渡った。
はぁ、はぁ、はぁ……
体が鉛のように重く、思うように動かない。
はぁ、はぁ、はぁ……
呼吸だけが乱れていく。
チームメイトが俺に向かってなにかを叫んでいるけど、乱れた呼吸音が邪魔をして全然聞こえない。チームメイトの声だけじゃない。グラウンドの土を踏む音も、ボールを蹴る音も、審判の笛の音も、なにも聞こえない。
こんなこと、今まで一度もなかったのに……
この燃えるような暑さのせいなのか? それとも、やっぱり負けたら終わりというプレッシャーのせいなのか……
これまでにチャンスは三回あった。一回目は味方からのスルーパスに抜け出してゴールキーパーと一対一になったけど、放ったシュートはキーパー正面で止められた。二回目はペナルティエリア内でディフェンダーをかわし、フリーの状態で味方からのセンタリングを受けてボレーシュートを打った。でも力んでしまいボールはクロスバーの上を通過していった。三回目は相手二人をドリブルでかわし――ゴール前に赤井がフリーでいたのは分かっていたけど――強引に自分で決めにいったボールがポストに弾かれた。しかもそこから相手のカウンターに遭い追加点を許してしまった。
それからはプレーに積極性を欠き、ゴール前までボールを運べずにいる。
いつもなら三回もチャンスがあれば一点は決めている。決められるという自信もある。でも今日はまだ一点も決められていない。それどころかゴールを奪うイメージすら見えない。逆にパスを受けてもすぐさま敵に奪われるイメージだけが頭をよぎる。
ボールをもらうのが怖い。ミスをして負けるのが怖い。こんなこと、今までなかったのに。
冷や汗が頬を伝う。もはや暑さは感じなかった。
こんな修羅場、今までいくつも乗り越えてきたじゃないか。プレッシャーなんてはね返して、勝ち続けてきたじゃないか。今日だって同じはず。中学最後の大会ということ以外は。
度重なるミスの連鎖。募る焦りと隠せない動揺、恐怖心。それらはますます俺の体を硬直させていき、思考までも縛っていく。
今はまだ後半が始まったばかりだ。スコアは0―2だけど逆転するための時間はまだ残っている。でも……もうダメなんじゃないか……
「桜庭!」
ハッと我に返る。赤井が相手のパスを高い位置でインターセプトし、そのままドリブルで駆け上がってくる。俺についているマークは一枚。これは絶好のチャンスになる。
でも、俺の足は動かなかった。
赤井のスルーパスはディフェンスラインとキーパーの間の絶妙なスペースへ放り込まれるも、それを追う者は誰もいなかった。俺はその場に立ち尽くし、転がっていくボールがキーパーにキャッチされる光景をただ見ていることしかできなかった。
そこからはあまり記憶がない。気づいたら後半のロスタイムが表示されていた。一矢報いてやると言わんばかりに赤井が強引にドリブルで中央突破し、突っ立っている俺など置き去りにして一人でゴールを決めた。
「ピッ、ピッ、ピー!」
赤井が一点を返したところで試合終了のホイッスルが鳴った。
西和大付属中 2 - 1 戸森西中
初戦負け。悔しさは込み上げてこなかった。涙も。プレッシャーに打ち克てなかった己の不甲斐なさをただただ痛感した。
放心状態のまま相手チームのベンチと応援に来てくれた親たちへあいさつを終える。トボトボと下を向きながら待機場所へ戻っていると、横から赤井が胸ぐらを掴んできた。
「お前! なんであの時ボールを追わなかった!」
罵声を浴びせられる。
「確かに今日、お前の調子は悪かった。でも! それでも俺は! 俺たちは! お前を信じてパスを出したんだぞ! なのに……なんで……」
赤井は胸ぐらを掴んでいた手をゆっくりと離していき俯いた。
「……そうだよ。俺は昔からお前のワンマンプレーが大嫌いだった! 今日だってそうだ。ゴール前で俺がフリーでいてもお前はパスを出さずに一人でゴールを狙いにいった。それでも! どんな逆境だろうと! 最後はお前のゴールで勝ってきたから今日も俺たちはお前を信じて……信じて……なのに……」
最後は泣きながら、赤井は俺の目の前で崩れ落ちた。俺のユニフォームの裾をグッと掴んだまま。
なにも言い返せなかった。言い返せるはずもなかった。周りを見るとほとんどのチームメイトが俺を冷たい目で見ている。俺は耐えられなくなって下を向いた。でも下からは赤井が俺を見上げていた。
「お前のせいで負けたんだ。俺はお前を絶対に許さないからな」
半分悲しみに、半分怒りに満ちた震える声で赤井は言った。同時に睨むように見上げる目は、俺の脳裏に強く焼きついた。
しばらくその場に茫然と立っているとチームメイトのよっちゃんが近寄ってきた。
「気にするな。瞬はよくやったよ」
そう慰めてくれたけど、今の俺にはなにも聞こえなかった。なにも。
新学期になってから三ヶ月が経った。夏が終わると公立の戸森西中は3年生全体が受験ムード一色になる。部活動が盛んなだけあって一気に静まり返る雰囲気は異様だ。
それまで部の中心に大きく存在し、チームを引っ張ってきた3年生が抜けたことで、どの部も活気が一段階も二段階も落ちる。後輩たちがあたふたする様子は見ていて心配にもなるけど微笑ましい面もある。これからは自分たちが新チームを引っ張っていくんだ、という決意が一人一人の顔に宿る。3年生もそんな後輩たちを見て勉強に一層の気合いを入れる。
周囲の同期が受験勉強を着々と進めているのに逆行して、俺は未だに気持ちを切り替えられずにいた。母さんの勧めもあってとりあえず学習塾には通うことにしたけど、先生の話は右から左に流れていくだけで、なにかを見ているわけでもなくただ目の前の空間をボーっと眺める日々を送っていた。
「アンタ、ちゃんと勉強してるの?」
母さんにはよく聞かれるけど、その時はとりあえず「うーん」と誰に返事をするわけでもないような力ない声で答えるだけだった。
どうしても〝あの試合〟が頭から離れない。〝あの試合〟でプレッシャーに打ち克ち、ゴールを決めていれば。そう何度も、何度も、後悔した。
それまでは順調だったんだ。全国へ行くことを目標に決めて、練習は人一倍、いや、二倍も三倍もしてきたつもりだ。新人戦や春の大会では多くのゴールを奪って得点王にも輝いた。新人戦は準々決勝で、春の大会は準決勝で敗れて全国大会こそ行けなかったけど、夏こそは手応えもあったし絶対に行けると信じていた。でも結果があの様だ。プレッシャーに圧し潰されていつものプレーができなかった。
この先どうしようかな。夏の大会前にはいくつかスカウトの声をかけてもらってはいたけど、この前の試合で全て断られてしまった。高校でもサッカーは続けたいと思ってはいるけど――
俺はお前を絶対許さないからな。
まただ。また赤井の〝あの目〟が浮かんでくる。高校でもサッカーを続けるか迷っていると必ず頭の中に出てきて俺に訴えかけてくる。その度に〝あの試合〟を思い出して……
飯を食っている時も、外を歩いている時も、なにをするにもこの三ヶ月間、俺の頭の中は専らそのことでいっぱいだった。受験期に入って最初の数ヶ月は勉強のリズムをつくっていく上で大事な時期だということは分かっている。でも俺はその大事な時期を浪費してしまい、中々勉強に手をつけられずにいた。
そんなある日曜日の午後だった。
「瞬、ちょっと買い物に行ってきてくれない? いい気分転換にもなるわよー!」
一階のキッチンから俺の部屋がある二階へ向かって母さんが叫んできた。買い物って、受験生に頼むことかね。まぁ実際のところ勉強がはかどっているわけではないんだけど。
母さんの言いなりになるのは癪だったけど、俺は部屋を出て一階へ降りていった。
「なんで俺が買い物なんか――」
「まぁまぁ、たまにはいいじゃないの」
はい、と買ってくる食材が書かれたメモとバッグを手渡される。
「今日は久々に腕振るっちゃおうかな」
袖をまくりながら陽気に言う母さんに俺はため息をつき、観念してそれらを受け取った。
「なにかいいことでもあったの?」
「ううん、なにもないわよ。アンタが
ホントかよ、と心の中で疑うも、勉強が進んでいないと見透かされていたことは図星だったからなにも言えなかった。
「い、行ってきまーす」
ボロが出ないうちに俺はそそくさと家を出た。
スーパーまでの距離は2キロほど。住宅街を抜け、親水公園の中を通り、大通りを渡ってすぐのところだ。いつも母さんはチャリで行ってるけど、俺はなんとなく歩いて行こうと決めた。
外へ出るとすぐに寒さを感じた。「もうすぐ本格的に冬が始まります。外出する時はしっかりと防寒をしましょう」と昨日見たテレビでお天気お姉さんが言っていたことを思い出した。さすがにこれは耐えられないと自分の部屋に戻り、押し入れの奥からコートを引っ張り出して再び外へ出た。
いつの間にこんな寒くなったんだろう。でも考えてみればもう十一月だ。そりゃ寒いに決まってる。
俺がぐずぐずしているうちに秋はもう終わりを迎えていた。親水公園を歩いていても、木々にはまだ色鮮やかな紅葉が咲き乱れてはいるものの、眼下には落ち葉も溜まり始めている。頭上の景色はその色合いが今の俺には鮮やかすぎて目も向けられないけど、足元の色抜けた落ち葉なら心地よく見ることができる。枯れ葉が俺の心と同じように、ただ風に吹かれるがまま行き先もなくさまよい続けていた。そんな光景を見ながら、俺はこの三ヶ月間果たしてなにをしていたんだろうと思う。
親水公園にはテニスコートやゲートボールができる広場があり、お年寄りが集まって伸び伸びと体を動かしている。学校が休みの小学生たちも友達とサッカーをして遊んでいる。どこもかしこも楽しそうな笑い声で溢れている。
「楽しそうだな」
思わず声に出てしまった。
ゲートボールの広場を通り過ぎ、続くテニスコートの半分を通り過ぎようとした時だった。明らかに他のコートと比べてボールのスピードも打球音も異なるラリーを目にした。テニスの試合は何度かテレビのハイライトで見たことがあったけど、素人目にはそれにも劣らない試合に見えた。
打ち出されたボールのスピードはとても速いけど、スピンがかかっているのか相手コートのライン内側ギリギリにストンと落ちる。タタタタッ、と相手も素早くボールに追いついて、スパンッ、と聞いていて気持ちいい音を出しながらラケットでボールを打ち返す。二人とも中々ミスをしないからラリーの応酬が続く。テニスをあまり見たことがない俺でも、この二人がとても上手いことは直感で分かる。
しかもよく見ればプレーしている二人は子供ではないか。俺とさほど年が変わらないように見える。俺と同じような年の子でもこんなに速いボールが打てるのかと感心してしまった。いつの間にか俺はコート全体が見渡せる高台のベンチに腰かけていた。
ここからだとよく見えるな。テニスコートを縦に見ているから手前にいる子の表情は見えないけど、奥にいる子のはよく見える。とても楽しそうだ。1ポイント決まるごとにガッツポーズしたり、相手を褒めたり、ボールを打つ時も笑っているように見える。あっ、コートチェンジした。やっぱり手前の子も笑っていたんだ。
テニスなら一人でプレーする分、周りのことなんか考えないで自由に楽しくできるのかな。ふとそんなことを思った。またここでも〝あの試合〟のことで悩まされるのか。俺は頭の中からかき消すように首を振った。
コート上の二人が互いにネットまで歩いていき握手を交わす。試合、終わったんだ。
「終了時間です。コートの整備をして下さい」
ちょうど使用時間終了のアナウンスも流れた。よしっ、と立ち上がって俺は買い物に戻った。
買い物を無事に済ませて家へ帰り、食材がたくさん入った重いバッグを母さんに渡した。今日は久々によく歩いたな。
「ありがとう。わぁいっぱいね。やっぱり瞬に行ってもらって正解だったわ」
「ホント重かったんだから。こんなに買ってなにつくるの?」
「んー、内緒よ」
母さんは嬉しそうに笑う。俺は料理にめっぽう疎いから、この食材ならこの料理がつくれるなんて想像もつかない。
「それより少し遅かったわね。なにかあったの?」
「途中親水公園でテニスの試合を見ててさ。すごかったから」
「ふーん、テニスねぇ。まぁいいわ。ご飯できるまで時間かかるから、アンタは
そう言うと母さんは鼻歌を歌いながら台所へ行ってしまった。母さんたら釘を刺すことだけは忘れないんだよな、ホント。仕方ない、部屋に戻るか。
階段を上がって自分の部屋に入ると疲れがどっと押し寄せてきた。久しぶりに長い距離を歩いたからなのか、重い荷物を持っていたからなのか、それとも今まで進路のことを悩み続けてきた反動からなのかは分からない。
正直、俺の頭の中で答えは固まりつつあった。でも一度決めてしまったら後には戻れない。俺が進もうとしている道はサッカーから〝逃げた〟ことになるのではないか。そのことが決断を遅らせていた。
机の上に立てかけてある写真に目が行った。写真の中の俺は応援しているチームのタオルを楽しそうに振り回している。
初めてJリーグの試合を見に行った時からちょうど十年くらい経つな。あの時のスタジアム、超でかかったよなぁ。ゴールを決めた選手が俺の席の近くまで来て、叫びながら拳を振り上げる姿がかっこよくて俺もサッカーやりたいって思ったんだよな。その日からは毎日練習、練習、練習ばかりしていたな。いつも全身泥だらけになって帰ってくるもんだから母さんには何度も叱られた。中学も強いところを選んで、練習はつらかったけど、でもやっぱり楽しかった。
フッ、と昔のことが懐かしくなってつい笑ってしまった。
そんな回想に耽っていたら、気づけば二時間以上も経っていた。外ももう暗い。最近はなにかと時間が経つのが早いな。
「瞬、ご飯できたわよー」
母さんの声で椅子から立ち上がった。覚悟はできた。
「うん。これが俺の答えだ」
そう呟いて部屋を出た。
食卓には大好物のおかずがずらりと並んでいた。どれもつややかに光っていておいしそうだ。揚げ出し豆腐にまぐろの刺身、鶏のから揚げ、極めつけは煮込みハンバーグ! 母さんの料理の中で俺が一番好きなメニューだ。他のおかずも豪華だけど、やっぱり煮込みハンバーグだけは特別光って見える。
「突っ立てないで、冷めないうちに早く食べちゃうわよ」
あまりの豪華さについつい見入ってしまった。よだれを吸い込んで慌てて席に座る。
「父さんと兄ちゃんは?」
「二人とも遅くなるって。さっき連絡来たのよ。せっかく今日はおいしいものがいっぱいあるのにね」
母さんは少し悲しそうに言った。
「じゃあ全部食べちゃおうぜ」
「そうね」
よかった、母さんの表情に笑顔が戻った。
「いただきまーす!」
「召し上がれ」
早速煮込みハンバーグを一口。んん、やっぱりおいしい。
「うめぇ」
つい声が出てしまった。いつもならおいしいと思っても声に出すことはないんだけど。
「あら、瞬の口から『おいしい』なんて聞くの何年ぶりかしら。母さん嬉しいわ。がんばったかいがあった」
俺は照れ隠しで俯いた。
「行きたい高校は決まったの? アンタ、最近元気ないけど」
唐突に聞かれてドキッとした。なんて答えようか……。慎重に言葉を選ぶ。
「……うん。大体ね。無難にはるみ台あたりかな。家からも近いし」
「へぇ、はるみ台か。あそこは公立だし、母さんとしても助かるわ」
自分のことは自分で決めろ、と日々父さんから口うるさく言われているだけあってそれが我が家の家訓となっている。息子の進路のことも母さんは今初めて知った。
「部活は? やっぱりサッカー部?」
俺は唐揚げに伸ばしていた箸を止めた。なんて答えたらいいのかすぐには言葉が見つからず、沈黙が流れる。
覚悟はしただろ。いずれ言わなきゃいけない時は来る。それが今だっただけのことだ。
俺は重い口を開けた。
「……サッカーは、やめようと思うんだ」
分かっていた。分かってはいたけど、いざ口に出したらそれまで保ってきた気持ちが一気に崩れる感じがした。
「サッカーやめちゃうの? あれだけ毎日がんばって練習してきたじゃないの。そんな簡単にやめちゃっていい――」
「いいわけないだろ!」
自分でも意図せずに怒鳴ってしまった。でも溢れ出る気持ちを抑えることはできなかった。
「俺だってまだサッカーやりたいよ! まだまだまだまだやりたいよ!」
あれ……おかしいな……視界が揺れている。泣いているのか、俺。でも言葉も溢れるように出てくる。
「でも怖いんだ。サッカーすることが。母さんも見てたよね? この前の試合。俺がボロボロだった〝あの試合〟。試合の後、チームメイトに言われたんだ。お前のせいで負けた。お前のせいで負けたんだって! ……プレッシャーで体はガチガチだった。いつものプレーなんて到底できなかった。でもチャンスはあった。相手のゴール前まで俺が切り込んで、横では赤井がフリーで俺を呼んでいた。実際パスはできたよ。でも俺は仲間よりも自分を信じてしまった。自信があったから! でもその結果シュートを外した。その後も、その後も、その後も外した。どんどんダメになっていった。終いにはパスを受けるのも怖くなって、俺はただ突っ立っていることしかできなかった。俺はチームのみんなにとんでもない迷惑をかけた。いや、今までもかけていたんだ。俺の独りよがりなプレーで。俺は全っ然気づかなかった。みんなは嫌だったと思うけど、それでも俺のことを信じてボールを……ボールを預けてくれたのに……俺は不甲斐ないプレーでみんなが必死になってつないでくれたそのボールを無駄にしてしまった。みんなの信頼を裏切ったんだ!」
泣きながら誰にでもなく訴える。今まで己の奥に抑えていた気持ちを全部吐き出すように。
「高校でもサッカーを続けるのか、この三ヶ月間ずっと、ずっと考えていた。でもその度にアイツの、赤井の目と言葉を思い出すんだ。そして〝あの試合〟を何度も思い出して怖くなる。そのせいで勉強には手がつかないし、なにをやっても楽しくない。たとえ無理にサッカーを続けたとしても、きっともう楽しくボールは蹴れない。ならもうやめてしまおうかって思うと、気持ちが軽くなる自分もいるんだ」
頭では分かっていたけど、心が中々賛成しなかった。でも心ももう限界だ。
「……疲れちゃったんだ、考えることに。この先ずっと苦しくなるなら、もうサッカーはやりたくない。〝逃げた〟ことになるのかもしれないけど、十分考えた結果なんだよ」
全てを言い終えたら少しだけ気持ちが楽になった。でも心身はともにぐったりとしている。
「そう……そう……」
母さんは何度も頷いて、俺の話を受け止めてくれた。
「瞬がそんなに苦しんでいたなんて、母さん全然知らなかった。ゴメンね。もっと早くに気づいてあげられなくて」
少し声が震えている。
「いや、いいんだ。最後は自分で決めないといけない問題だったから。俺の方こそゴメンね。いきなり怒鳴ったりして」
「なに言ってんの! 母親が息子の気持ちを聞いてあげなかったら誰が聞いてあげられるのよ。……私は瞬がどんな道に進んだとしても、応援しているからね。なにがあっても、あなたの味方でいるからね」
ぽっかりと空いていた心の隙間に母さんのあったかい言葉が染み込んでくる。それは徐々に全体を覆うように広がっていき、心がギューっと絞めつけられる。嬉しくて、また涙を流す。でも今の涙につらさや悲しみはなかった。
「うん……うん……ありがとう」
「ほら、食べちゃおう」
「うん」
箸を取って煮込みハンバーグにかぶりついた。
「おいしい?」
「うん……おいしい……おいしいよ」
〝あの試合〟から三ヶ月。暗闇を彷徨っていた俺の元に、やっと進むべき道の光が差した気がした。それまではなにを食べても味が感じられなかったけど、母さんの煮込みハンバーグが俺においしさの味を思い出させてくれた。一口噛むごとに溢れ出す肉汁は生気を失っていた俺の心の奥底まで染み渡っていき、ずっと溜まっていた負の感情が洗い流されるように涙となって溢れてくる。
「そっか! よかったよかった」
「でもちょっとしょっぱい」
「そうね」
ふふふ、と二人して笑った。
久しぶりに母さんと二人きりで食べた夕飯は涙の味が強かったけど、今まで食べた母さんのどの料理よりも最高においしかった。
はあ、と吐く息が空気中を白く漂い、透明になって消える。制服のポケットに両手を突っ込みながらマフラーに顔の下半分をうずめて歩く。
「アンタもっとシャキッと歩きなさいよ」
隣を歩く母さんに背中をバシッと叩かれた。
「いてっ! だって寒いんだもん」
「そんなこと言ってると落ちるわよ」
「え、縁起でもないこと言うなよ」
俺は慌てて背筋を伸ばした。
「といっても、合否はもう決まってるけどね」
「屁理屈はいいから」
今度は頭を軽く叩かれた。
今日は私立吹野崎高校の合格発表日だ。俺は母さんと一緒にそれを見に来ている。
「まさかアンタが吹野崎を受けることになるとはね」
「俺もびっくりだよ」
母さんにサッカーをやめると告げたあの日から、俺はそれまでの日々が嘘のように勉強に集中することができた。それも睡眠と食事以外、全ての時間を勉強に注ぎ込むほど。出遅れていた分はあったもののそれを遥かに上回るスピードで学力をつけていき、遂には志望校よりも上の学校を狙えると塾の先生から勧められた。
あの日、母さんに打ち明けていなかったら今頃どうなっていただろう。改めて感謝しなきゃと思う。……心の中で。
「なにジロジロ見てんのよ」
「いやいや! なんでもないよ。それよりそろそろ見えてくるはずだけど……」
最後の角を曲がると50メートルくらいある長い道に出た。道の両脇には裸の木々たちが短い間隔で植えられている。春には桜が満開になり、学校へ向かうこの道がピンク一色になるらしい。今は枝の間から晴れ渡る寒空しか見えないけど。
歩みを進めていくと道の突き当たりに立派な校門が見えてきた。門の奥には最近改装されたばかりのきれいな校舎も見える。校門からは道が右、左、真ん中と三本伸びていて、三方から合格発表を見に来た学生や保護者が続々と歩いてくる。同時に既に合否を見終わったであろう人たちともすれ違う。喜んでいる者、泣いている者、同じくらいすれ違う。俺にも次第に緊張感が出てきた。
「記念受験だからっていっても落ちるのは嫌だな」
ブツブツ言いながら学校の敷地へ入ると、右の方の広場に人だかりができていた。その奥には合格者の番号が記されているボードがでかでかとそびえ立っている。俺は一回、二回、三回と深呼吸をしてからボードの方へと歩き出した。
「俺の番号は2217か。えっと……2210、12、13、15、16、18……」
あれっ、ないぞ。見逃したのか? もう一回見てみる。でもやっぱりない。不合格だ。さすがにレベルが高すぎたか。悔しいけど、まぁ仕方ない。
「母さん、俺落ち――」
「アンタの番号、補欠のところにあるわよ。2217よね? ほら」
母さんが指差す先には確かに俺の番号があった。補欠の三番目。補欠でも自分の番号が輝いて見えた。
「アンタのことだから補欠になるんじゃないかなって思ってたのよ。母さんの読みが当たったわね」
母さんはドヤ顔を決めているけど、最初から息子が補欠になるかもしれないって思うのはどうなのよ。まぁお陰で見逃さずには済んだけど。
それから三週間後、公立高校の合格発表日にしっかりと繰り上がり合格の電話が来た。電話を取った母さんは大喜びで、受話器に向かって何度も頭を下げていた。それじゃ電話の声聞こえないでしょ、と俺はクスクス笑った。
でもひとまずホッとした。一時はどうなることかと思ったけど、これで俺も晴れて高校生だ。
高校生になったらなにをしよう。そう考えるだけでワクワクする。頭のいい学校だから授業に着いていけるか心配だ。でも友達はいっぱいつくりたいな。できたら彼女なんかもつくって毎日青春な学校生活を送れたら最高だな。あっ、でも俺今までそういう経験ないから無理かも……
一人で盛り上がって一人で意気消沈する。
それと、なにかサッカーに代わるものは見つけたいな。なんでもいい。とにかく夢中になれるもの。大丈夫、きっと見つかるはずだ。
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