第72話 かみさまのおはなし3
【72】かみさまのおはなし3
神の善悪。それに無償の信頼を置かなかったテオに、それでもアーニーは聞きたいことがあった。
それは、聞かなければならないと思う強制的な圧力ではなく、どこか痛ましく思う感情があったからだろう。
「テオは、神様のことは嫌いかい?」
そう問いかけるアーニーは、テオの背中へ恐々と伸ばした手を添えた。
少女の細い指先が、テオの体温をはらんだ布面を力なく掻く。
その仕草がまるで胸に抱える思いの背中を押すように感じられて、テオは引き結んだ口を開いた。
「さあ。顔も知らない相手だ、好きも嫌いもない。顔があるかも、知らないけれど」
「あったよ」
アーニーの言葉に、テオはゆっくりと背後を振り返った。
シーツの上に散らばる橙色の細い髪の上、同じ色の目がじいとテオを見つめ返す。
「神様にも顔はあったよ。僕は、……いや。“僕達”は知っている。僕らがたった一人で在った最後の時、僕達は確かに、神様に会ったから」
アーニーの言葉に、テオは沈黙で答えた。
アーニーは目を閉じ、記憶を掘り起こす。思い出すのは“元の世界”に居場所を失って初めて出会った、ひどく幼げななにかのことだ。
神様だなんて信じていなかった。
それでも、無神論者を気取れるほどにその類の信心深さと縁を切ることもなく、その国で比較的一般的な部類に属される価値観で生きてきた。
雪の深くなるころに手を合わせたり、指先で選んだつもりになったランダムな運命とやらに一喜一憂できるほどには、神様みたいななにかのことを疑ってもいなかった。
だからこそ。
テオが言った通り自分達という人間は、神様の失敗も、その万能でない手のひらも、その成功ですらも、気にすることはないのだろう。
それでも、あんまりだと思ったのだ。
元の一人が六人になったと知ったその時に、あんまりだと、こんなことってないだろうと、そう叫びたくなった。
けれど。
その慟哭すら飲み込んだベルは全権をアーニーに譲渡した。その無責任な信頼を知って、それでもベルを、もともと自分だった別人を、アーニーはやはり憎むことができなかった。
自分だったものから。神様から。
悪意無き被害を受けたからこそ、アーニーは思い、願うのだ。
「君はその善悪に信頼が寄せられないと言ったけれど。それでもきっと、あの子は悪いものではなかったよ。色んなことを間違えたり、失敗したり、それが時として人の命を奪ってしまったりもしたけれど。君はそれを悪意だと思うかい?」
失敗が怖かった。命というのは本来代わりが利かない。取り返しがつかないからこそ怖かった。
だからアーニーは種との戦いという名の舞台に立ち向かえず、六人分の命と一人分の足で逃げ出した。
悪意なんてものそこにはない。けれどその選択に、後ろ指がさされることは知っている。
だからこそ。
自らを突き刺すその指に許してほしいと思ったアーニーは、他者の選択を責めることなどできないのだろう。
そして今、目の前で無感情を装って自分を見下ろすその男に、誰かの後ろ指を指してほしくない。そう思った。
「……そういうことは、人間にもある。誰にでもあって、仕方の無いことも、どうにもできないことも、あるんだと、思う。だから、それはきっと悪意じゃない」
テオのつかえた返答は、酷くアーニーを安堵させた。
呼気に混ざって吐き出される震えを誤魔化す様に、アーニーは緩く微笑む。
「そうだね。きっとそれは悪意なんかじゃない。ただ正解じゃなかっただけだ。ただ成功しなかっただけだ。正しくないことが全て悪いことになるなんて、そんな話はないもの」
呟くように言うアーニーが顔を上げる。その橙の視線を受け止めたテオは、ゆっくりと横になっていた体を起こした。
テオにならい起き上がりベッドに座り込んだアーニーは、細い腕を伸ばして立てた膝を抱え込む。
「この世界と僕達がいた元の世界はね、とても違うようでよく似ている。空は青く、土は赤く、空気は透明だ。植物も、動物も、とても似通っていて、時として全く同じものが存在する」
テオと。レジーと。リオと。ミンディと。ルーカスと。ジャレッドと。
アーニーがこの街に来てから、それまでグレッグとしか共にしなかった食事を沢山の人たちと楽しんだ。
口にした腸詰肉は豚肉のようで、サラダの葉物野菜はレタスと大差ない。テオがよく好んで食べ、その扱いに格闘する豆も、アーニーには空豆にしか見えなかった。
「そのどちらの世界にも人という生き物がいて、言葉と文明を持っている。姿かたちも同じだ。頭がひとつ、腕がふたつ、足もふたつ。縦長の胴体に五つの出っ張りみたく繋がっていて星形に近い。おんなじだ。おんなじなんだ」
緑色の肌をした人間も。腕が四本生えた人間も。目玉が中央にひとつだけある人間も。
アーニーがこの世界に来て出会った人間の中にはいなかった。どの人も笑う時には口角を上げたり、泣くときには目から涙を流す。
例え手から火を撒き散らし、その腕で岩石を砕こうとも、彼らは疑いようもなくアーニーの知る人間と同じ姿をしていた。
「でもこの世界には、あの世界にはなかった魔法がある。魔物だっている。癒術という奇跡により人の傷はたちまちに回復だってしてしまう。それらは、あの世界では憧れのように作り話でしかなかったものだ」
火を求めるならばライターやマッチを擦る。風が欲しければ扇風機を回したり、うちわを扇ぐ。水が欲しければ蛇口を捻れば事足りる。氷は冷凍庫のなかにがらがらと詰まっているし、電気が欲しければコンセントを探すだろう。
魔物と呼ばれる生き物はいない。数多の生き物は調べられ、細分化され、あまつさえ娯楽の一環として展示された。その中には人を食える生き物だっているし、それらは決して無力な生き物ではない。
人を治すために発展したのは医療だ。腹を切り開き、患部を取り除き、時としてボルトを打ち込むことだってある。時間をかけて傷を治し、薬品を用いて悪化を防ぐ。
似通ったものはあった。それらはすべて元の世界でも再現不能な奇跡ではなかった。
それでも、同じではない。それらはまるで神秘や不可思議と呼べるほど、この世界では手順が簡略化され、一足飛びの結果だけが手に入る。
「ねえ、テオ。こことあそこは違うのに。違う世界だって言うのに。どうしてこうも似ているのか、不思議には思わないかい」
その問いかけは詮無いだとアーニーも分かっていた。
アーニーが語るのは転生者が知る異世界との比較だ。テオが生まれ育った世界はこちらだけで、あちらのことなど聞いた話以上には知ることはできない。
それは聖骸の記録によってこの世界のことを知るよりもずっと曖昧なものだろう。
「この世界を作ったあの神様は、僕たちの世界の真似をした。神様自身がそう言っていた」
それを偽物というにはあまりに温度がないとアーニーは思う。
この世界の人間たちは、確かにこの土の上で、この空気を吸い込み、この空を見上げて生きていた。
この世界の神様は、確かに本物になった世界を作ったのだ。
そこに愛情はあれど、憎悪などなかったはずだ。そうでなけば、聖教による妄信的な信仰すら、かの神は得られなかっただろう。
似せられた世界だから、似ていることがある。
この世界に来たばかりのアーニーは、通じる言葉と通じない言葉があることを知った。
それはそうだろう。テオに首を傾げられた乾電池という名前もバグという言葉も、どちらもこの世界にはない概念なのだろうから。
しかし、それだけだろうか。
初めは、自分が思った言葉が聖骸の知識を通して適切なものへと置換されて吐き出されているために、存在しない概念の説明が出来ていないのだと思っていた。
ならば、単位はどうだろうか。
ジルの診療所へと行った後に立ち寄った食堂で、テオはメートルを使用して距離を表した。アーニーにとって、その単位は親しみが深く暫くは疑問には思わなかったものだ。
しかし、記録を読み返すその最中に、果たしてそれは世界を超えても自然と使われるものなのだろうかとアーニーは気が付いた。
はたと、それが模倣なのだろうと理解した。
出来るだけ同じになるように揃えて、思うように素晴らしくなるように手を加えて。そうして出来た魔法と奇跡の世界だ。
乾電池やバグが言葉として通じなかったのは、それらの概念がまだ存在していないからだと思ったアーニーのその考えは確かに間違いではないのだろう。
神様がそれらに憧れを抱かなかったのか。
憧れを抱いたからこそ、それらが存在しない時代すら元の世界と同じように歩んで欲しかったのか。
神様ではないアーニーには分からない。今ここでどんなものになっていたとしても、自分は人間であると、アーニーはそう自認する。
ただ、ひとつ思うことがある。
元の世界と同じように通じる言葉が存在するのは、そうあれと神様がこの世界を作ったからなのだろう。そう発展しろと、神様が願ったからなのだろう。
憧れと否定が入り交じり、いいところ取りのように輝いたこの世界は、それ故に歪んでいる。
あのようになりたいという願いと、こうなって欲しいと欲張った希望が、純粋な世界のバランスを崩した。
「でもね。隣国の御伽噺のどれだけを知っている? どれだけの正確性を持ってして、その作品を語れるだろうか? 概要は知れどもその詳細は曖昧でないと、そう言い切れる物事はどれだけあるのかな? 憧れと再現に対し、必要な知識とは一体どれほどだろう」
目を伏せたアーニーが続ける。
自分たちが持つ権能にモデルがあることは、なんとなく想像がついていた。自分一人であればその予想に確信が持てなくとも、六人分もあれば予測するには事足りる。
空を飛べない世界で、空を飛ぶことに憧れて参考にするならば何だろう。
例えばそれが、ぼろの箒と絨毯ならば、元の世界の人間たちは何を思い浮かべるだろうか。そして同時に、その中途半端な再現に何を思うのだろうか。
「足りなかったんだ。あの神様は、足りなくて歪んでしまった世界を直したかっただけなんだ。そうして思いついた対処法は、まるで悪役みたいに空回って、沢山のものを壊したけれど、それでも」
主張したい考えは、無神経極まりない。
それでも目の前に座り込むこの世界で生まれた人間の、その灰色の目を見上げたアーニーは続ける。
「どうか、その過失を悪意と言わないで欲しい。この世界で生まれ、生きてきた君に、酷いことを求めているのは分かるよ。でも、それでも。あの神様の空回ってしまったその思いやりを、自分たちに向けられた悪意だなんて切り捨てないでほしい。お願いだ、テオ」
そう言って向けられたアーニーの眼差しに、テオは瞑目した。微かに眉を寄せて、引き結んだ口を開く。
「分からないよ、アーニー。君の話は、俺には難しすぎる」
「……うん。そうだね。ごめんよ、ごめんよ、テオ」
テオの返答に、アーニーは長い髪を垂らして俯いた。弱弱しく吐き出される言葉は、艶のある髪を伝ってシーツの上に転がるようだ。
その様子を見つめたテオは、毛布を広げて少女の華奢な体を覆い、ゆっくりと口を開いた。
「今日の君は謝ってばかりだ」
「……そうだね。僕は我儘だから、許して欲しくて仕方がないんだ」
「俺は、怒っていないよ、アーニー」
「うん。ごめん、テオ。ごめん」
毛布越しに小さな頭を撫でるテオの手の体温は、その厚い布地に遮られ、内側の少女に届くことはなかった。
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