掌の紡物語

楪 一志

終煙の螺旋

 明日も朝早いから、先に寝るね。

 紗羅さらが最後の晩だけそう言わなかったのは、サヨナラの代わりだったのだろう。


 当たり前のことが、当たり前ではなくなる時。

 今こうして思い返せば、それは比較対象が生まれた時に初めて気付くことで、人の優しさに気付けるのは人の怖さを知っているからということと、同じだ。

 こうして何も考えずに過ごす退屈な毎日も、楽しみながら育ててきた日々があったから。


 何も考えずに、と言うのはやや語弊があるが、今考えていることは何の役にも立たない、ただの後悔でしかない。

「ふう」と、乾燥した唇から着色された溜め息。黒いローソファに横になったまま、寝る前にだらしのない格好で天井へ向かって紫煙しえんくゆらす。


 ――何で別れる前に、言いたいこと言えなかったんだろうな。


 考えても、もう遅いのは分かっていた。

 グレーのカーペットに置かれた白い灰皿に煙草の火を消し込むと、またすぐに箱から煙草を一本取り出し、咥えてはジッポで火をつける。

 一人きりの夜、別れ際のことを思い出すと、オイルの匂いが鼻についた。


 初めて煙草を吸ったのはもう何年も前のことだが、あの時、甘味や酸味や辛味を知らなければ煙草を苦いと思うことはなかったのだろうか。

 そんな詩的な表現を思い浮かべてしまうのは、誰のせいだろう。

「紗羅」

 二年付き合った彼女の名前をわざとらしく口に出してみても、この部屋にはもう居ない。チェーンスモークに失恋の苦味が相俟あいまったせいか、やけに不味く感じる。


 俺はそんな螺旋な日々を、ただ繰り返しながら、彼女を思い出していた。

 

        *

 

 テレビの音で目を覚ますと、眠っていただけなのに身体は既に汗ばんでいた。それもそのはず、今年の夏は文字通り暑夏だと、テレビの中で天気予報士が言っている。

 ベッドに気怠さの残滓ざんしを残し、ローソファに移動する。朝一番の煙草に火をつけてみれば、遮光性の低いカーテンから滲む陽の光のせいで煙の白さが鮮明に拡がっていく。

「おはよう」

 ベッドで身体を横にしたままの彼女が、まだ眠たそうな声で挨拶をしてくる火曜日の朝。

「おはよ」

「まーた朝から吸って。煙すごい」

「一緒に吸うか?」

 意地悪く笑う俺に、冗談はやめて、という呆れた笑い声を返す彼女。

「なんか、その言い方ちょっとやだ」

 彼女はそう言うと身体を起こしてカーテンを開け、ストレッチをするように両腕を上へ伸ばす。

「ね、天気良いからさ、どっか行こうよ」

 晴天の似合う声は、インドアな俺を外へ連れ出すほどの心地良さだった。


 自分とは違う、声色で感情を上手く表すことが出来る一つ年下の彼女。

 最初は前の彼女のことを考えなくて済むのなら、という軽い気持ちで始めた交際だったが、気付けば惹かれていた。

 付き合ってから、本当によく出掛けるようになったと思う。今でも喜怒哀楽の表現は苦手だが楽しいと思えるし、一緒に居ると心が落ち着いて、良い影響ばかりだ。

 それだけで俺は満たされて、燃えていく煙草を見つめていた。


「見て、可愛い!」

 ペットショップに行くと目を輝かせていて、あどけない子どものように映った。

 そして「あっちのコーギーも!」と通路を挟んで指呼しこの間にいるコーギーの方へ小走りする。

「めっちゃ可愛いな」

「こんな子が家に居たら、絶対明るい家になるよね」

「……飼うか?」

「えー……あの家じゃ、ちょっと無理だよ」

 物欲しそうな目は、ガラスを隔てて目の前にいるコーギーを見つめながら。

「……まあ、狭いし、育てるの大変だよな」

 犬は好きだが、あの部屋で飼うのは少し窮屈かもしれないと、乱雑に散らかった家を浮かべる。

 童心に帰っていた彼女は何か言いたげな表情に変え、口の端を少し上げて「うん」と言う。

「いつか、飼える日がきたら、いいなあ」

 今はその『いつか』を想像して甘んじたのか、俺の手を引いて店を出た。


 半年経って彼女はペアリングを強請ねだった。こういう物はもっと若い者が着けるのだと勝手にイメージしていた俺にとっては、もうじき三十歳になる彼女の要望を不思議に思った。

「これでやっと、お揃い出来たね」

「……なんか、やっぱり気恥ずかしいな、これ」

 彼女は一度俺を見た後、切なそうに指輪を見つめる。どうやら純粋にお揃いの物が欲しかったらしい。

 結婚もしたいけど今はまだ仕事。付き合った当初、そんなことも言っていた気がする。


 隙間風が冷えている暮れの秋。一年経っても二人の関係は恋人止まりだった。

 この家に一緒に棲むようになって、俺の食生活は自然と改善した。ローテーブルに並べられた手料理、今日は焼き魚の匂いが部屋に充満している。

「……はあ」

 ぼうっとした目で彼女は溜め息を零す。

「どうした?」

「ううん」

 彼女の視線の先は俺が食べ終えた皿で、小骨に付いた魚の身、血合い、皮の乗ったそれを虚ろな目に映している。

「……明日からまた仕事だなあって」

「だな、だるいよな。またお盆休み欲しいわ」

「ね……あっ、またすぐ煙草吸って」

 俺が無意識に手を伸ばした白くて苦いデザートを見て、彼女はまた色の無い溜め息を吐く。俺が喫する煙草について今更あげつらうことはないが、おそらくは嫌気が差しているのだろう。

「これでも、前よりは減ったんだけどな」

 以前付き合っていた彼女と別れた時は、今みたいに一日一箱などでは済まなかった。

「そう? 吸ったことないから、私には分かんないのかもね」

 皮肉めいた口調で食器を重ねると、それを怠そうに狭いキッチンへと持って行く。

「疲れたし、明日も朝早いから、今日も多分先に寝ちゃう」

「分かった。先、風呂入っていいからな」

「……ありがと」

 彼女は食器を洗いながら返事をして、俺はテレビの音をBGMに、短くなっていく煙草を見つめていた。


 付き合って一年半。何となく予期していた倦怠期がまたやってきた。

 今日も静かな一日が過ぎ、夕飯も風呂も済ませて、あとは寝るだけ。その間に交わした言葉は一言、二言のみで、時間の流れを教えてくれるのはテレビの番組が変わる音だった。

 一年半も付き合えば刺激は無くなる。交際はそんなものと分かっているくせに、倦怠期からの脱し方は未だに分からないし、それをそのままで許してしまう自分も昔から変わっていなかった。


 だから俺は普段通り携帯で友人と連絡を取りながら、ローソファに座って紫煙を燻らす。

 先に歯を磨いてきた彼女はソファではなくカーペットに座り、点けっ放しにされていたテレビの方を見る。どこか遠い目をしており、ここ最近は表情に豊かさがなかった。


 ――次の休み、久しぶりにどっか出掛けるか。


 時計を見れば短針は十一と十二の間。いつもなら、彼女はもう眠りに就く時間のはずなのに。


「ねえ」

 ふと、俺の方を見て言ったかと思えば唇を微かに開こうとして、それを何度か繰り返す。その声色と仕草は次に出てくる言葉を物語っていて、俺は「どうした?」と訊くことが出来ずにいた。

「聴いてる?」

「うん」

 言いながらも、また煙草に火をつける。別に吸いたい気分ではなく、これは彼女の言葉を遮るフィルター代わりでしかない。

 最近ずっと、話を切り出すタイミングを見計らっていることには気付いていた。そしてその時に煙草を吸えば話を切り出してこないということにも、気付いていた。


 昨日まではこうすることで消えた焦燥感が、今日は何故か消えてくれない。今日だけは、この煙草の火が消えた時に全てが終わる気がした。

 きっと、本当は自分で分かっているからだろう。


 彼女の薬指から指輪が消えたことも。

 俺の目に合わせていない視線の先に、白い灰皿があることも。

 何を言いたいのかも。

 全部、分かっている。

 

 彼女――茉莉まりは立ち上がると、続きを言わずにベッドに入り、俺の方に背を向ける。

 俺は指に迫ってくる熱を感じ、少しずつ冷えて落ちていく灰を見つめていた。

「紗羅と、同じ……か」


        *


 明日も朝早いから、先に寝るね。

 いつもならそう言ったのに。

 茉莉も最後の晩だけ言わなかったのは、サヨナラの代わりだったのだろう。

 ――この一本で終わりにする。

 そう言えば、良かったのだろうか。考えても、何かが違うような気がする上に、今更もう遅いとも思う。


 カーペットに置かれた灰皿に煙草の火を消し込むと、またすぐに箱から煙草を一本取り出して咥える。

 紗羅がくれた、もう錆びてしまったジッポで火をつけるが、チェーンスモークにまた失った恋が相俟って、やけに不味い。

 肺に入れた苦味は消えないまま、吸い殻と虚無感だけを募らせて。



「おはよ……また朝から煙草吸って」

「これでも、前よりは減ったんだけどな」

 彼女たちの真意を知らないまま、俺はそんな螺旋な日々を、また繰り返す。

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