第二百十二話「痛恨の医療ミス」

 林太郎が意識を取り戻すと、見慣れた天井が目に入った。


 ただいつもと大きく違う点がある。

 直径3メートルほどの大きな穴があいているのだ。


 林太郎はふかふかのキングサイズベッドに横たわりながら、曖昧な記憶を呼び覚ます。



「俺は……サメっちとホットケーキを焼いて……それから……どうしたんだっけ……」



 股間に稲妻のごとき一閃を受けたことで、林太郎は一時的な記憶障害に陥っていた。

 人間の肉体は許容量を大きく超えたダメージを負うと、本来脳に回すべきエネルギーまでもすべて回復に費やしてしまうのだ。


 事の顛末をおぼろげながらも思い出した林太郎は、己の股間に違和感を覚えた。


 特段目立った痛みはない、しかしなにやらヒンヤリしている。

 感覚がないのだ、まるでそこになにもないかのように。



「まっ、まさまさ、まさか本当に……きょ、きょきょきょ去せ……!?」



 林太郎は慌てて掛布団を剥ぎ取る。

 するとそこには――。



 ――オムツよろしく、包帯ギプスでがちがちに固められた己の下半身があった。


 いやガチガチなどというのも生ぬるい。


 これでもかというほど厳重に固め尽くされたそれは、まるで巨大なボーリング玉のおばけだ。

 幸いにも“モノ”はまだぶら下がっているようだが、どれほど深い地層の下に埋まっているかわかったものではない。


 もはや下半身が固められているというより、大きな球体から胴体と両足が生えているといったほうが正しいだろう。

 その見た目はまるでアヒルを擬人化したキャラクターのようである。



「なんじゃこりゃァーーーッ!」



 林太郎の魂の叫びに驚いてか、洗面所からガッシャーンと大きな音が響いた。

 しばらくすると、洗面所の扉をそっと開けながら、今にも泣きだしそうな湊が顔を覗かせる。


 湊は林太郎と目を合わせるやいなや、燃え上がる炎のように顔を赤らめ、わなついた唇で無理やり笑顔を取りつくろった。



「おはっ、おははっ、おはようりりり林太郎……さん」

「おはよう……どうした湊。なんでそんなに他人行儀なんだ……?」



 見ると湊は手に、手術で使うような金属のトレイを持っていた。

 その上に乗せられているのは、包帯やハサミ、消毒薬に軟膏薬といった医療品の数々である。


 つまり股間を強打して失神した林太郎を処置し、下半身をギプスでガチガチに固めたのは湊先生であるということが推察される。

 とうの湊は林太郎と距離を保ちつつ、目を右に左にぎゅんぎゅん泳がせていた。


「わ、わわわ、悪気はなかったんだ。治療として仕方なくその、ちょっとだけ。ほんのちょっと握ったぐらいで、いや、形状を考えるとそれが効率的だったというか。むしろかるく触ったていどの。いや触ったというよりは、なでたという感じで」


 きっと手を洗おうとしていたところだったのだろう。

 湊の絹のようになめらかで細い指先には、まだすこし軟膏が残っていた。


 塗り薬を患部に塗布とふするのは、まごうことなき医療行為である。

 患部が正中線上の点Cであろうが、白衣の長身黒髪美女が素手で薬を塗ろうが、それは極めて健全かつ適切な医療的処置であり、けして他意はない。


「そうか。治療なら仕方ないな。いいさ、ありがとう湊。ありがとう」

「いいんだ。わかってくれれば……」


 己が意識を失っていたことを悔いる涙がひとすじ、林太郎の頬を伝った。

 誤解しないでいただきたいのだが、これはあくまでも医療分野での知見を広める機会を逸したことへの悔恨の涙である。





 林太郎がなんとか無意識下での経験を記憶の淵から呼び起こそうとしていたそのとき、部屋の扉がノックもなしに開かれた。

 この部屋をノックもせずに我が物顔で出入りするのは、サメっちと桐華のふたりだけだ。


「むぁーん、前が見えないッスぅ」

「欲張って私と同じ量を持とうとするからですよ。……おや? お目覚めですか。おはようございますセンパイ」

「アニキぃ?」


 サメっちパッと顔を輝かせるのと同時に、山のように抱えられていた荷物の一部がこぼれ落ちた。

 それは林太郎のもとにコロコロと転がりながら、絨毯の上に白い線を描く。


「なにこれ?」

「包帯ッス」

「いやそれは見ればわかるけど、こんなにたくさんどうしたの? ミイラのサッカーチームでも作るのかい?」

「サメっちのおワビの気持ちッス」


 サメっちと桐華は両手いっぱいに抱えた包帯をベッドの上に置いた。

 こんもりと積み上げられた包帯の山ができあがる。


 林太郎はなにか言おうとするも、状況の理解に追いつかず言葉が出ない。

 先に口を開いたのは、いつになく塩らしい桐華であった。


「センパイ、申し訳ありませんでした。私が本気てムチを振るったがばっかりに……! センパイたってのご希望とはいえ、私もはじめてのことで加減がわからず」

「希望してないんだよね」

「不肖、黛桐華。汚名をそそぐべく、まずは一刻も早い回復を祈念して看護をと思い至った次第です」

「サメっちも手伝ったッス! 汚名挽回ッス!」


 林太郎自身、湊に処置にしてはなにか雑だとは思っていたが。

 どうやら林太郎の下半身をガッチガチに巻き固めたのはこのふたりらしい。


 しかしここから更に包帯を巻こうというのか彼女たちは。

 林太郎は一瞬、人間雪だるまになった自分の姿を想像して頭を振った。


「サメっち、今回の件は俺にも落ち度がある。黛、お前の誠意はわかった。ふたりともこの件に関しては、これ以上気に病む必要はない」

「アニキぃぃぃ!」

「センパイ……!」


 酷い目にあったとはいえ、えっちな本をかくまって原因を作ったのは紛れもない林太郎自身である。

 そして林太郎が桐華にえっち本隠しの罪を着せようとしていたこともまた事実である。


 己のことをコッソリと棚にあげ、林太郎は一件落着とばかりに安堵の溜め息をついた。

 そして許されたことで感極まったふたりの部下の肩に、そっと手を置く。


 まるで刑事ドラマのラストで、改心した犯人に人情をみせるベテラン刑事だ。

 下半身を球体に包まれていては格好のつきようもないのだが。


「林太郎、事情はふたりから聞いている。その……大変だったな」

「ああ、湊。ありがとう。湊がいてくれて助かったよ。それよりひとつ聞きたいことがあるんだけど」

「ななな、なんだ? 私は詳しくはないんだが統計データからすると平均よりは上だと思うぞ」

「いやそれはどうでもいいんだよ。どうでもよくはないんだけど」



 林太郎は下半身を固める巨大なギプスをコンコンと叩いた。



「……これ、トイレはどうすりゃいいの?」

「「「あっ」」」



 声を発したのは三人同時であった。

 彼女たちはお互いに顔を見合わせる。



「……えっ?」



 林太郎は自分の下半身に改めて目を向ける。

 鉄球のような硬度で太腿からへそのあたりまでを覆うギプスは、まるで呪いの貞操帯だ。


「固めるのはカテーテルを入れてからだって言ったじゃないか……!」

「すみませんセンパイ。はやく処置をしなければということで頭がいっぱいで」

「アニキ、かてーてるってなんッスか?」

「いや、ねえ。どうすんの? ねえこれどうすんの? ねえ」




 林太郎の下半身が再び解放されるまで、半日を要した。







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