第百八十九話「軍師諸葛林太郎、幕張に散る」

 みなとみらいと対をなす、東京湾に面した巨大海浜都市・幕張。

 “タガホテル&リゾート”は、そんな静かな夜景の中で最も存在感を放っていた。


 決戦の舞台はまさに、その最上階スウィートルームである。

 バスケットコートなみに広いリビングスペースと、東京湾の夜景を一望できる特大パノラマビューがふたりの男女を出迎えた。


「これ一泊いくらするんだ……」

『金のことは気にするでない。そこなら誰かに話を聞かれる心配もあるまいて。ぬかるでないぞ林太郎!』

「タガラック将軍……。ええ、任せてください。やったりますよ俺は!」


 なにからなにまで手厚いサポートを受け、林太郎の準備は万端であった。

 口では罵り合っていようとも、タガラックはやはり頼るべきときには頼りになる幼女だと林太郎はひとり感動を噛みしめる。


 林太郎の心に宿るのは“男になる”覚悟である。

 その御膳立てとして、これ以上のものはないだろう。



 ちらりと目を向けると、湊は顔を両手で覆って震えていた。

 林太郎が肩に手を回そうとすると、すすす……と静かに距離を取られてしまう。


 まさかこの期に及んで、それほどまでに恥ずかしいのかと林太郎は下唇を噛む。

 黙り込んだ湊は、頑として林太郎と目を合わせようとはしない。



(くっ……こんなときは、どうする!? どうするんだ俺!?)



 これでは戦端を開く・・・・・こともままならない。

 林太郎の邪悪な脳内で、小さな軍師たちが侃々諤々かんかんがくがくの議論を交わし始める。


「今こそ攻めどきだ! 多少強引であろうとも問答無用で城門をこじ開けるんだ!」

「いいや、ここで手を誤るわけにはいかない。もっと慎重に相手の出方を窺うべきだ!」

「ダメだ! 後手に回れば機を逃す! ここは反撃の機会を与えず交渉に臨むんだ!」

「そうだそうだ! 宣戦布告があった以上、向こうの態勢は既に万全と見るべきだ!」


 議会は紛糾し、今すぐ押し倒すべきだという意見が多数派を形成する。

 もはや議論は尽くされたかに思われた。



 しかしその脳内議場にカツンと木靴の音がこだました。

 脳内林太郎たちが目を向けた先、後光を背に負い、羽根扇を手にした林太郎が姿を現す。



「あ、あなたは……諸葛林太郎先生!」

「みなさん、迅速に攻め入ることも肝要ですが、まずは相手方をよくご覧になってください」

「なんですって? ……あっ! あーーーっ!!」

「お気づきになりましたか」


 湊が顔を覆っているのは、林太郎と顔を合わせるのが恥ずかしいからではない。


 今夜の湊の顔には、普段とは違う点がある。

 そう、薄っすらとではあるが化粧をしているのだ。


 それが先ほどまでの涙で崩れているのである。

 つまり今の林太郎に求められているのは強引な進軍ではなく、湊に準備を整えさせるための時間だ。


 脳内議場は割れんばかりの喝采に包まれた。

 これで決まりと言わんばかりに花吹雪が舞う。


「はっはっは。みなさん、さりげなく気を利かせるのができる軍師オトコというものですよ」

「「「おぉー!」」」

「私の計略に狂いはありません、勝率は……100%です」

「「「まさにその通りだ!」」」



 軍師林太郎たちが完璧な結論を下したところで、林太郎本体は緊張混じりに口を開いた。


「ささ、先にシャワー……浴びて来いよ」

「………………ふぁい」



 湊は顔を隠したまま、そそくさとシャワールームへと消えていった。

 なんとか最初の一手は間違えずに済んだようだ。


 だが休んでいる暇などない。


 林太郎は鼻息を荒くしながらベッドルームの扉を開いた。

 広さとしてはこの部屋だけで、林太郎の私室と同じぐらいだ。


 林太郎がベッドサイドについたダイヤルを回すと、室内にはしっとりとしたジャズピアノのBGMが流れ始める。


 加湿器と暖房のスイッチを入れ、照明を少し落とすと窓の外に映る夜景がグッと映えた。

 まるでこの広いベッドルームそのものが空に浮いているようだ。



 心に往年の軍師を宿す林太郎にもはや死角はなく、ムード演出は完璧である。





 林太郎がリビングに戻って一息ついたところで、再びタガラックからの通信が入った。



『おぬし……いやまあ、密談の仕方は人それぞれじゃから、わしはなんも言わんが……』


 タガラックにしてはどうにも歯切れが悪いと、林太郎は小首をかしげる。


『……それよりおぬし、心の準備はできとるんじゃろうな』

「ええもちろん。心も体も“アレ”も万全ですよ。ちゃんと十分な量を買ってきましたから、業務用144個入りのやつをね」

『なんのこと言っとるんじゃおぬしは。とにかく……ザザ……じゃから……って…………ザザッ……』


 混線しているのだろうか、それまでクリアだった音声が急に乱れだした。

 そしてついにはテレビの砂嵐のようなという音しか聞こえなくなる。


「タガラック将軍? あれ? どうしたんです?」

『……………………………………』


 林太郎が呼びかけても返事はない。

 返ってくるのはザーーーッというノイズだけだ。


 事が事だけに、さすがのタガラックも遠慮して通信を切ったのだろうか。

 いつもならば嬉々として覗き見をしていそうなものなのだが。



 林太郎が仕方なくインカムを取り外したちょうどそのとき、バスルームの扉が開いた。



「……お、お待たせ……」

「…………………………」


 そこから現れた湊の姿に、林太郎は思わず言葉をのんだ。


 少し湿り気を帯びた、黒く長い髪。

 清潔感のある真っ白な薄手のバスローブに包まれた、すらりとしたモデルのような肢体。

 ほんのり上気した頬と、伏し目がちな目元を彩る長い睫毛。


 一言で表すならば――



「……綺麗だ」

「えっ?」

「いやその、夜景がね! 夜景がきれいだなって! ほら、あそこに見えるのタガデンタワーかな!?」


 林太郎は話題を逸らすことで何とか高鳴る心臓を鎮めようとした。


 なにせ目の前には据え膳と化した美女が、しおらしく若干上目遣いでこちらをちらちら見てくるのだ。

 軽くまとっただけの薄布一枚の下に潜むのは、暴力的なまでに抜群のスタイルである。


 男ならば誰しもその魅力には抗えず理性を失うことだろう。

 だが今夜の林太郎にはプラトニックな名軍師、諸葛なんたらがついている。


 今にも走り出したい気持ちを鋼の意思で抑えつけると、林太郎は湊ひとりをベッドルームに促し足早にバスルームへと飛び込んだ。


「……危ない危ない、俺は紳士なんだ。あくまでも計画的に、そして理性的に」


 林太郎の目に飛び込んできたのは、脱衣かごの中で丁寧に畳まれたまだ温かいであろう黒のドレス。

 そしてこっそりと隠されるように丸く畳まれた、純白のショーツであった。



「うおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」


 雄たけびとともに服を脱ぎ捨て、頭から熱いシャワーを浴びる。

 壁に伝う水滴が、甘い石鹸の香りが、ついさきほどまでここが使用中・・・であったことを示していた。


 彼の脳内では小さな軍師たちがせっせと蒸気機関に石炭をくべている。


「はおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!!」


 ゴシゴシゴシゴシ! ゴシゴシゴシゴシ! ゴシゴシゴシゴシ!


 林太郎は今から神の生贄にでもなるのかというぐらい、それはそれは丁寧に身体を清めた。

 ここまで本格的に身体を洗ったのは生れて初めてのことである。


「ッシャオラッ!!!」


 湊と同じ真っ白なシルクのバスローブに身を包むと、林太郎は気合いの掛け声とともにベッドルームの扉を開いた。


 照明は落とされ、大きな窓から差し込む冷たい月の光だけが室内を照らしていた。


 大きなベッドの上で、湊は林太郎の顔を見るなりビクッと肩を震わせる。


「待たせたな……!」

「なあ林太郎。ほ、本当に、やるのか……?」

「今更嫌だって言っても遅いぞ。俺だってもうその気なんだからな」


 林太郎の手が、かちかちに固まった湊の肩に触れる。

 そのまま背中に手を回して静かに撫でてやると、観念したようにゆっくりと、全身から緊張が抜けていくのがわかった。


「うぅ……や、優しく殺して……」

「ああ、任せてくれ。とびきり甘く、天国にいざなってやる」


 胸の上で祈るように指を組みギュッと目を瞑った湊の顔に、林太郎は己の顔を近づける。




 濡れた唇と唇が触れようかとした、まさにそのとき。






 ピポピポピー! ピポピポピー! ピポピポピー!



 これ以上ないほど甘いベッドルームに、間の抜けた電子音が鳴り響いた。

 ベッドサイドテーブルで、眼鏡と一緒に並べられたスマートフォンが明滅する。


 音の出どころは紛れもなく林太郎のスマホであった。



(しまったァーーッ! 電源を入れたままだったァーーーッ!!!)


 林太郎の脳内に赤い“緊急事態”のランプが点灯し、祝勝会ムードだった脳内軍師たちが慌てて集合する。

 だが邪悪な頭脳を巡らせている時間的猶予はない。


 音に気づいて瞼を開いた湊と、息がかかるほどの至近距離で目が合った。


「りっ! りりり、林太郎! いったいなにを!?」

「なにをってそりゃあ……アレだ! 物事には順序というものがだな」

「それより林太郎、電話が! 鳴ってるんじゃないのか!?」

「あぁッ! もももッ! モシモシィ!?」


 今この時ばかりは、たとえどれほど重要なコールであったとしても取らずに無視すればいい。

 頭ではそうわかっていながらも、気が動転した林太郎はつい通話に出てしまった。



『デスグリーン少尉、私だ』



 スピーカーから響いたのは、ややハスキーな女性の声であった。

 あまりにも思いがけない相手に、林太郎は酩酊状態に近かった頭のスイッチを切り替える。


「ウサニーちゃん!? なんだってまたこんなときに!?」

『大佐をつけろこのマヌケッ!! いやまあそれはいい。どうにも折が悪かったようだが、貴官の耳に早めに入れておきたいことがあってな。他でもないサメっち二等兵のことだ』

「サメっちの?」


 通話なんて切ってしまって早く続きを楽しみたい林太郎であったが、サメっちのこととあっては耳を貸さないわけにはいかない。

 その相手が、林太郎が来る前はサメっちの保護者がわりだったというウサニー大佐ちゃんとあっては尚のこと。


『あー、こほん。貴官には伝えようか迷ったのだが。サメっち二等兵のやつ、今朝急に“愛を金で買う”なんてことを言い出してだな……』


 今朝といえば、サメっちに湊の要望を聞きに行ってもらったタイミングだ。


 林太郎はちらりと湊のほうを向く。

 シーツを握りしめ、怯えた顔の湊と目が合った。


 状況的にロマンチックといえばロマンチックなのだが、林太郎は何か決定的な歯車がズレているような空気を感じる。

 これ以上聞かないほうがいいよという警告ランプが、頭の中で点滅していた。



「ねえウサニー大佐ちゃん。サメっちは他に何か言ってなかったかな?」

『うむ、かくかくしかじかということがあったのだ』



 スピーカーから流れてくるウサニー大佐ちゃんの声に、林太郎と湊は正座しながら耳を傾けた。

 ウサニー大佐ちゃんの口から語られたのは、おぞましき怪人伝言ゲームの顛末である。


 その様子をウサニー大佐ちゃんは懇切丁寧に、一から十まで余すところなく教えてくれた。


「つまり……これが愛だよって抱きしめたわけだね、うんうん。で、愛は気持ちだよと。なるほどなるほど、なるほどね。そういうわけだ、なるほどぉ。湊は何て言ったのかな?」

「き……気持ちだけって……」

「なるほどーーーォ」


 林太郎は生返事というのも生ぬるいほど、心のこもっていない相槌を打ち続けた。

 そしてその間、小さな軍師たちがひしめく脳内議場は絶え間なく爆撃にさらされ、話を聞き終える頃には草も生えない更地と化していた。


『あまりにも不穏なことを言うものだから私も気になってな。デスグリーン少尉、貴官は上司としてではなくちゃんと家族としても、サメっち二等兵に愛情を注いでいるんだろうな』

「ああ、うん、そうだね。それは大丈夫だから安心してほしいかなー、うん。それじゃあ切るよー」

『ちょっと待――』



 プツン。


 ツー。ツー。ツー。



 ウサニー大佐ちゃんの言葉を遮り、林太郎は通話を切った。

 そのままスマホの電源も切ると、そろりそろりと音もなく湊に背を向けてベッドにもぐりこんだ。


 すべてを察した林太郎は、同じくなにかを察した湊の顔をとても直視できる精神状態ではなかった。

 ここから再び場を盛り上げるのは、宇宙人との最終戦争をひかえた合衆国大統領でも不可能だろう。


「なるほどねぇ……なるほどー……」



 あまりにもいたたまれない姿に、湊が優しく声をかける。



「な、なあ、林太郎……?」

「ごめんね湊、少しだけ立ち直る時間をもらえるかな……」



 林太郎は頭からシーツを被り、静かに泣いた。



 泣き止むまでに2時間を要した。







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