第10話 終末を呼ぶ華

『ふぅっ、いつ見ても圧倒的だな』


 “人型”が“目”を向けた先に“それ”は在る。木星――太陽系最大の惑星、神々の王の名を冠するそのガスジャイアントは視界の半分近くを覆っていた。ガニメデの地平線上に現れているそれは、ただ見るだけで厳かな気分になる――と、その人型の中にある男は思った。


『クロッカー、いつまでも見惚れているんじゃない。今は緊急事態なんだぞ』


 別の人型からの言葉、それを聞いたクロッカーと呼ばれた男は溜息をついた。


『ヘイヘイ、しかし間に合うのかねぇ』


 言葉に応じて人型は肩を竦める動作を見せた。

 

 ガニメデ――〈エンキ連鎖クレーター〉……その外縁に沿って20体の軍用人型が歩いている。それ以外に装甲輸送車が随伴していた、支援装備を運んでいるのだろう。人型は鋭角的なシルエットをしていて、例えるのなら直立2足歩行型の戦車といった風情だ。

 木星の照り返しを受けたのか、彼らが歩く地表は薄っすらと黄色味がかっていて、所どころ煌めている。煌めきは地表が氷結しているためだ。地表はほぼ平坦になっていて人型集団の歩みはスムーズに進んでいた。彼らの進む先に斜め上方に長大なレールのようなものを伸ばした人工的施設が見えている。クレーター外縁に建造されていたガニュメデスの宇宙港だ。そこでは忙しなく動き回るものの姿が見えている。宙港関連の輸送車、整備車両であり、駐機されている各種シャトルの間を駆けずり回っていた。シャトルは3機ずつレールの端に移されている。


『まだ1機も発進してねぇな。いいのかよ、こんな悠長で?』


 クロッカーの声にはどこか怒気が表れていた。


『仕方がない、斥候スカウトが100万キロほどまで接近している現状、迂闊に離昇リフトオフするのは危険だ。間もなく戦闘になるからな。もっと早く避難しとけばよかったが、ステルスを上手く使って接近されちまっている。対応が完全に後手に回ったからな』


 人型たちの頭上に幾つもの光点が移動するのが見えた。蒼白い光輝は核融合プラズマプラズマ推進による荷電粒子流の焔を意味する。クロッカーは人型頭部の光学センサーの焦点を1つの光輝に向けた。拡大表示ズームアップ、明度調整を経て彼の脳内視覚野にその姿・・・が映し出された。

 そこには後部に二重リングを備えた葉巻型の航空宇宙機が映されていた。クロッカーはその名を口にする。


『ガンマ線レーザー砲艦〈ケラウノス〉、神々の王ゼウスが使う雷霆の名を冠した完全自律型AI制御無人宇宙戦闘艦。名前は大そうだが、果たしてどこまで通用するのか』


 クロッカーのそれは独り言だったが、通話チャンネルが開放されているので他の者にも聞こえていた。その中の1人が応えた、最初にクロッカーを窘めた者だ。


『クリシュナキャノンですら殲滅できなかった敵だ、難しいだろう。だが今回は10から20の砲艦が一度に参加する。運用次第では一定時間の制宙権維持は可能のはずだ。その間に市民を避難させ――』


 その者の言葉は途中で途切れた。高レベル放射線警報が走ったからだ。確認の後、彼は言葉を続けた。


『砲撃が始まった。その反応だな』


 クロッカーも言葉を繋ぐ。


『くっ、艦隊は3万キロの上空だよな? ガニメデは照射線から外れているのに、ここまでの線量が走るのかよ。全くガンマ線レーザーってのは半端ねぇな』


 そのまま彼らは暫し無言で上空の光輝を見続けていた。すると数秒の後、彼らから見て南方の空の方向に巨大な光輝が出現した。――と、言うよりも光の幕とでも言うべきか? 或いは瀑布? 光る領域が広範囲に渡っていたからだ。


『着弾した? やったのか?』


 光の幕は暫く南の空を覆ったままだった。彼らはただ見るだけだったが――――


『いや、一掃できてない。光幕の外縁をよく見てみろ』


 言われてクロッカーは上下左右の幾つかのポイントを拡大表示ズームアップした。すると無数の煌めきを発見した。


『あれは……水晶体なんだな、ウィンダム?』


 煌めきの1つを更に拡大表示ズームアップすると、細長い物体が映っていた。ギリシア群で目撃された水晶体と同じ姿をしている。


『そうだ、やはり殲滅は叶わなかったか』


 ウィンダムと呼ばれた者――最初からクロッカーに話しかけていた者でもある――の声は乾いていた。


『だが艦隊の攻撃は続くようだな。時間差を置いて角度を変えてレーザー線を撃ち込むようだ』


 放射線数値が再び急上昇し、数秒置いて南方の空に幾つもの光幕が現れた。今度は複数のポイントに発生していて照射集中点が分けられていることが分かる。


『やはり水晶体への分離を予測していたのだな。最初の砲撃は牽制といったところで、ここからが本番だな』


 そして正念場になるとウィンダムと呼ばれた者は考えた。広範囲に散り、恐らく多彩な軌道を描いて水晶体は飛翔するはずだ。ギリシア群でも観測されていたことであり、これを捕捉し続けるのは至難の技だろう。だがそれを遂げねばならない。


『――でなければ砲艦は無論、ガニメデも一巻の終わりだしな』


 レーザー線による弾幕を突破され、接触されたとなると即座に浸食が始まる。ウィンダムの脳裏にはたちどころに銀色の色彩にに包まれていったギリシア群の観測機やヘクトルの映像が浮かんでいた。しかし彼は首を振った。


『行くぞ、俺たちの任務は市民の誘導、護衛だ。ガニュメデス宇宙港に向かう。第4特戦群、進め!』


 そして人型の集団は進行を再開した。

 第4特戦群とは、この時代に於いて数少なくなった有人制御による宇宙戦闘部隊だった。正式名称〈木星行政府防衛機構・ガリレオ衛星群方面軍・ガニメデ特殊機械化師団・戦闘甲殻大隊・特殊作戦群第4小隊〉――全高4メートルに及ぶ2足歩行型機動戦車――戦闘甲殻コンバットシェルと呼ばれる大型強化服パワードスーツを操る機動戦闘の特殊部隊である。

 彼らは緊急事態の発令に関連してガニュメデス市民退避の警護を行うべくクレーター周辺にある基地から派遣され、移動中だったのである。





 木星行政府・ガニメデ危機管理オペレーションルーム――――

 今、そこには1人の人物しかいない。行政府長官のリウだけだ。他のスタッフは退室して脱出船に向かっている。リウはシャトナーと協力してガニメデの防衛に当たっていた。


〈第1、第2象限、敵水晶体群の殲滅を確認。続いて第3――12体の突破を確認!〉

「左翼下、第4セル、7番から9番艦、順次砲撃開始!」


 立体表示ホログラムスクリーンに表示される戦況は目まぐるしく変化していた。殲滅、突破――と一進一退を繰り返し、なかなか決着がつかない。


 まずは中央、ステルス体との正面に位置していた3艦による砲撃を開始した。その時、ステルス体は水晶体の分離を開始した。それは1つ2つに留まらず、一度に数十の単位に及んでいた。これは予測されたことであり、リウは待機させていた残りの砲艦による照射を順次開始させた。シャトナーが予測演算した水晶体の軌道を追尾トレースするように時間差を置いてレーザー線を撃ち込んでいった。それは次々と水晶体を撃破、溶融させた。単艦レベルのガンマ線レーザーだが水晶体には効果があることがここで判明。だが直撃した場合に限る。至近を掠めただけでは効果が出なかった。人類の兵器ならば近くを高レベルのガンマ線が走れば深刻な打撃を受けるのだが水晶体はそうはいかないらしい。直撃以外に撃破は不可能だったのだ。

 分離射出された水晶体は更に分離、そして増殖を繰り返し、秒単位で百以上の数に増えた。そして更に増殖を続けた。それらに対応し、ガニメデへの接近を防ぐのは極めて困難に思われた。それでもリウとシャトナーは対応を続けた。

 彼らは思考を連結させ、次々と優先すべき標的ターゲットを選択、照射指令コマンドを出し続けた。照射線の方角とタイミングを上手く選び、ガニメデへの接近は何とか防いでいた。だが殲滅しない以上、いずれは押し切られる。艦隊のポジトロニウム生成が追いつかなくりつつあったのが分かっていたのだ。つまりガンマ線レーザーが使えなくなる。

 彼らは事態が少しも好転していないことを理解していた。


〈長官、北極方向の弾幕が薄いのですが、水晶体がそちらへと逃れてガニメデ北極に周り込みかねません〉

『らしくもない、気づかないのか? 残り8艦が控えているぞ』


 反対球側より8つの光点が現れているのがスクリーン上に映し出された。それらは北極方向に集結していた。


〈北極方向を薄くしていたのはこのため、しかし――〉


 つまりリウはこの方面へと水晶体群を誘導すべく弾幕を形成していたのだ。だがシャトナーは懸念する。敵もそれを理解しているのではないか――と。事実、北極方向に飛び出した水晶体群は即座に散開を開始した、回避に入っているのが分かる。中にはガニメデ軌道から離脱する方角を目指し、脱出速度にすら達しているものもある。


「13番艦から15番艦、順次照射開始! 離脱軌道にあるものから攻撃し、連続して“内側”のものどもを照射! 16番艦から20番艦もタイムラグを置いて照射開始、タイミングはこちらから送る」


 北極方向に向かっていた水晶体群が次々と消滅、レーザー線は続いて別の軌道にある群を薙ぎ払っていく。それは百を超える標的を一気に消滅させる結果を生んだ。大戦果と言えそうだが、リウの顔は少しも晴れない。


「まだ敵は残存している」


 そして反応が増えていた。つまり増殖を再開しているのだ。


「一気に殲滅できねば埒が明かないか……」

〈長官、艦隊砲艦で余力のあるものは少ないです。これ以上は弾幕を維持できません〉


 リウは頷き、照射指令コマンドを再開した。それは残り少ないエネルギーを消費するだけのものに見えた。だが――――


「全艦、軌道遷移! 低軌道、若しくは高高度軌道へ移れ!」


 リウの指令コマンドを受け、20の艦艇は軌道遷移を開始した。スクリーン上から見ると遅々として進まないものに見えたが、実際は秒速で10数キロ単位で移動する超高速の軌道飛行だ。艦艇群は移動しつつも水晶体群に対する攻撃を続けていた。ただ、あまりヒットしておらず、撃破スコアは著しく悪化していた。それでも――――


〈長官、これは――〉


 シャトナーは理解した。水晶体群はある一定の範囲に集中していた、やはり北極方向になる。それ以外のポイントには存在しなくなっている。リウの意図をシャトナーは理解した。


〈長官、しかし十分とは――〉


 集まったとは言え、まだ広すぎる・・・・――と、シャトナーは感じた。それでもリウは決断する。


「もうこれ以上は待てん! やるぞ、低軌道艦群、一斉放射開始!」


 指令コマンドは量子通信によって即時伝達された。応答の通信と同時に放射が開始されたデータが返ってきた。殆ど同時に北極上空に集結していた水晶体群が閃光に包まれた。


「高高度軌道艦群、北半球高緯度上空に残存する水晶体群を薙ぎ払え」


 指令コマンドと同時に照射方位の細かな設定を指定した。


「この位置ならばガニメデ地表に影響することはない。かなり際どいが、大して大気もないし影響は少ないはずだ」


 このタイミングをリウは狙っていたのだ。低軌道と高高度軌道からの両面からタイミングをずらして照射線を交差させ、殲滅を狙った。


〈レーザー線、交差します!〉


 ――と、同時に眩い閃光が出現した。スクリーンはそのあまりの光度を遮断すべく一度ブラックアウトしてしまった。


 ――超新星爆発を間近に見たら、こんなものだろうか……


 リウはそう思ったが、首を振った。そんなことがあったら、この程度では済まないことを理解していたからだ。彼はシャトナーに問うた。


「状況は? 敵はどうなった?」


 スクリーンが復活、交差ポイントの可視映像が表示された。そこには蒼白い雲海のようなものが映し出されていた。


〈溶融した水晶体群により形成された金属雲です。成分は同様、やはり水晶体群と――〉


 シャトナーの言葉は途切れ、同時に警報が鳴り響いた。


〈南極方向に熱源反応!〉


 新たなスクリーンが出現、その中に黒い物体が映し出されていた。シャトナーにより強調描画されたそれはもう見慣れてしまった――でも2度と見ることなどないと思っていたものだった。


「ステルス体……」


 リウはそのまま絶句、何も言えなくなってしまった。だが人工知能のシャトナーにはそうした硬直はない。


〈長官、ステルス体は1つではなかったということかもしれません。或いは分離射出時に水晶体以外にも小型のステルス体を出していたのかもしれません〉


 観測データは、そのステルス体が小型であることを示していた。分離体である可能性が高い。サイズは以前観測されたステルス体の半分以下だ。それでも水晶体よりは大きい。

 リウは歯噛みした。


「くそっ! 向こうも二手三手先を読んで行動していたとでもいうのか!」


 予備の戦力を温存しておいてもしやの事態に備えていたとしか思えない。人類側の抵抗が想定以上で、遂にその手札を切ったのだ。そして――――


「こっちにはもう手がない……」


 リウの目と意識の中にはガニメデと他のガリレオ衛星群周辺環境のデータが映し出されている。イオから移動中の艦隊はある。エウロパとカリスト軌道の艦隊も……だが間に合わないと理解していた。

 ガニメデの艦隊はまだ砲撃を継続しているが、ほどなくポジトロニウムが尽きレーザー発振は不可能になる。それに南極方向のステルス体は戦線の内側に出現している。直ぐに動き出すだろう。もはやガニメデを守るすべはないのだ。


〈新たなステルス体、水晶体の分離射出を開始しました!〉


 まるで宇宙に咲く雪の華といった風情だ。煌めきを放ち拡大していくさまは遠方から見ると美麗に映る。だがそれは人類にとって死刑宣告を意味する華だった。舞い散るそれらは大きく拡がり、ガニメデに降り注いでいく。もう止められない、抑えられない……


〈長官、脱出を〉


 リウは俯いたまま動こうとしなかった。


〈あなたにはまだ為すべきことがあります、残された市民の脱出支援を! どうかこんなところで止まらないで下さい〉


 市民の脱出……シャトナーは言葉にしたが、それは殆ど望めないものだ。それでも皆無ではないはず。僅かなものでも救えるものは救うべきだとシャトナーは言う。

 顔を上げたリウは笑みを浮かべていた。だがそれは泣いているような笑みだった。


「そうだな、シャトナー。お前の言う通りだ」

〈すみません……〉

「シャトナー、お前のメインフレームは……」

〈はい、長官の脱出を確認後、速やかに爆破・消去します〉


 シャトナーシステムを機能させる思考コアとなるハードウェアはガニメデにある。このまま状況が進むと水晶体による浸食が始まりコアも侵される。人類文明世界最高の叡智を集約した量子AIが水晶体のものとなるとどんな影響が出るか分からない。MELEに知性があるか否かは未だ不明だが、AIの情報が何らかの影響を与える可能性がある。不正アクセスや核融合プラズマ推進の制御など人類の技術に対応する能力の存在は確認されている。量子AIがその手に渡る危険性は想定すべきであり、阻止せねばならないと判断された。よってコアの爆破・データの完全消去を行うのだ。


「すまんな、シャトナー」

〈何を言います。私の思考プログラムはネットワークを走り続けられます。〈ケリー〉や〈ニモイ〉のネットワークにバックアップが保存されており、この私・・・の消去が確認されたら即座に起動します。時間認識などに多少のズレが生ずるかと思いますが、それでもそれは“私”です。あなたが無事に脱出できれば再会は叶いますよ〉

「そうだな……」


 リウは立ち上がり、オペレーションルームの出口へと向かった。出て行く直前、振り向いてスクリーンに目をやる。そこにはガニメデ地表を広く覆う雪の華のようなものが映っていた。


「MELE……お前らの目指すものは何だ? 人類の殲滅なのか……」


 それだけ言い残し、彼はオペレーションルームを退室した。





 突如として巻き起こった閃光に特戦群の者たちは驚いた。北側の空一面に蒼白の光が天幕のように拡がったのだ。それは次第に薄れていったが、後には熾火のような輝きが幾つも残されていた。そしてガニメデの磁力線と反応したのか、オーロラが盛んに明滅し始めた。そのせいなのか、彼らが駆る人型戦車の輪郭が異様に輝いた


『今の放射線量、ただの砲艦レベルじゃなかったぞ』


 クロッカーの呟き。


『そうだな、桁が幾つも違ってた。10艦以上の一斉放射の集中か?』

『そうなのか? ガニメデ地表に影響がないか?』

『射線をズラすのに成功したのかもしれない。なるべくガニメデに影響が出ないように照射したのではないか?』

『――となると、やったのか? 駆逐できたのか?』

『うぅむ……』


 クロッカーの言いようはどこか子供がはしゃぐかのようだった。対してウィンダムの反応は鈍い。その時だった。


『大尉、オペレーションルームより通信! 敵の突破を許したとのことです!』


 何だと――群の兵士らの間にどよめきが走った。


『現在、〈ハトホル地域〉、〈ナブー地域〉、〈オシリス地域〉他多くのガニメデ地表への水晶体の弾着を確認。体からの浸食も開始されているとのことです。一掃は叶わなかったと……』


 その映像が彼らの脳内視覚野に表示された、衛星画像だ。表示は〈ハトホル地域〉。地上に突き刺さった水晶体から蜘蛛の巣のように銀色の筋が伸びていて、それが更に細かく拡がっている。


『おい……あれってアメーバ体じゃないか?』


 筋のあちこちから何か細かなものが蠢き出しているのが見えた。群隊員の1人が拡大表示コマンドを送り、映像を隊員全員に共有させた。そして彼らは同時にその異形を目撃した。


『そうだ、エンケラドゥスで確認されたやつだ』


 クネクネとのたうつように動く不定形なもの、人間の不快感を嫌でも煽る姿に隊員らは顔を歪めた。だが彼らはそのまま見つめることを許されなかった。


〈南西上空より高速飛翔体接近!〉


 支援サポートAIによる報告、同時にデータ諸元が表示、そして映像が映し出された。一瞬、彗星かと見紛いかけたが、違うことは誰もが分かった。尾を曳いてはいなかったし、輪郭は明瞭。槍のような形状、銀色のそれはもう見慣れてしまったものだった。


『水晶体!』


 その水晶体は彼らの目の前、〈エンキ連鎖クレーター〉の外輪山に直撃した。同時に激震レベルの振動が一帯を襲った。だが人型戦車――戦闘甲殻コンバットシェルは1機たりとも転倒することはなく、僅かにバランスを崩すこともなかった。よって彼らは目前の光景をありありと目にすることができた。

 浸食が始まった。落下ポイントを中心として蜘蛛の巣のようなものが拡がるのが見えたのだ。急速な拡大は、まるで微速度撮影映像を見るようだったが、これは通常の時間尺度のものだった。そして筋のあちこちから湧いて出るアメーバ体。それらは筋から離れてめいめいに移動し始めた。その全てが外輪山のクレパスなど隙間に入り込んでいく。


『いかん! 奴らガニュメデスに向かっているぞ!』


 〈エンキ連鎖クレーター〉の地下にはガニメデ最大の地下閉鎖環境都市・〈ガニュメデス〉があった。避難は大して進んでおらず、まだ市内に50万ほどの市民が残っている。それに宇宙港に待機するシャトル、宙港施設には数百人残っていた。


『くそっ、救援に向かう――』

〈第2群、接近!〉


 支援サポートAIの報告によりウィンダムの言葉は途切れた。同時に伝えられた情報に釘付けになったからだ。新たな水晶体の一群が落下してきているのが分かったのだが、その落下予測地点を理解した彼は言葉を失った。


『いかん! あれ、〈エンキ基地〉に落ちるぞ!』


 クロッカーの叫びの直後、眩い光輝が発生した。地平線の向こうだが、激震レベルの振動が再び彼らを襲った。振動は程なく収まったが、彼らは少しも安心できない。群体が落下した地点にこそが〈エンキ基地〉。それは彼ら第4特戦群が駐屯していたクレーター周辺の基地だ。


『おいっ、基地の救援はどうする? あれ、浸食が始まっているぞ!』


 地平線の向こうから激しく乱雑な電磁波の反応が観測される。これはMELEの浸食活動が開始された証拠だ。基地で今何が起きているのか、確認するまでもなく分かる。


『大尉、ダメです! 基地と連絡が取れません!』


 MELEの活動によって発生した電磁障害のせいだ。電波帯の広範囲に渡って通信不能になっている。


『くそっ、量子通信なら関係ないが、戦闘甲殻コンバットシェルにそんな装備はないし……こうなると直接向かって確認するしかないか?』


 隊の何機かが基地に向けて移動しようとし始めた。だがウィンダムは制止した。


『ダメだ、俺たちの任務は市民の救援・保護だ!』


 だが納得できない者もいる。1人が抗議した、ウィンダムの脳内視覚野に発言者の顔の画像とネームが表示された。


『待ってくれ、ウィンダム。それでは仲間を見捨てるというのか? せめて小隊の何機か――俺だけでもいい――を向かわせてもいいんじゃないか?』


 ウィンダムは発言者に応える。


『ドルジ、気持ちは分かる。仲間だからな。それを理解した上で言う』


 ウィンダムは一度言葉を切って息継ぎし、その後続けた。


『あそこは軍事基地だ。戦闘能力はある。無抵抗にやられるはずはないだろう。それに軍用シャトルも駐機しているし、既に脱出行動に入っているはずだ。独力で切り抜けられると信じろ!』


 そして彼は機体の手を振り、エンキ連鎖クレーターの外輪山を指さす。それはかなりの範囲を銀色のものに覆われていた。


『だが市民には力はない。とても抵抗できるものではない。俺たちが助けるしかないのだ!』


 全員沈黙した。理解はできるが納得は容易ではないのだろうと、ウィンダムは思った。それでも彼は命令する。


『クロッカーとドルジ、それにスタスキー、それぞれ5機編成で南東、北西側から市内に迎え。スタブロスは5機を率いて宙港に迎え。俺は北東側から市内に入って市民の救援に当たる。編成は――』


 彼らは5つの分隊に分かれて行動することにした。


 戦闘甲殻コンバットシェルの足裏よりの高機動ホイールを展開、即座に回転を開始させ、そのトルクにより速やかにトップスピードへと加速していく。ウィンダムは部下たちに指示する。


『行くぞ!』


 ――くそっ、こうなっては市民の犠牲は避けられない。果たして何人助けられるのか……


 群指揮官ウィンダム・ホーク大尉の顔は険しさを増していた。

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