(3) ―共同浴場の湯船の中で―

 フェンデリオルの風呂事情は多岐にわたる。もともと河川による水量が豊富で水には事欠かなかったし、地域によっては火山脈もあるので温泉が自噴している場所すらある。入浴は割と古くから行われてきた。

 経済的に豊かな家庭なら自前のお風呂が自宅にあるのは当たり前だった。反対にそう裕福でない家庭や、一人暮らし、借家住まいなどの人たちの場合は共同浴場を使うことになる。

 ルストの場合、自宅に温水シャワーの設備はあったがさすがに湯船までは無かった。ゆっくりお湯につかりたい場合は街の中にいたるところにある共同浴場に向かうことになる。

 ちなみにフェンデリオルではお風呂(特に共同浴場)のことを【バネーヨ】と呼んでいる。


 天使の小羽根亭からルストの家に戻る道すがらに、ルストの行きつけの共同浴場は合った。間口はそんなに大きくなくちょっとした一軒家のような感じだ。

 でもよくよく見ると建物には奥行きがあった。幅が割と狭く奥に長いのだ。

 由美の知っているお風呂屋のイメージとかなり違う。


「さ、こっちよ」


 案内されるままに中へと入っていく入り口からすでに男性用と女性用とが分かれているのが特徴だった。

 入ってすぐがカウンターになっている。若い女性の受付が二人を待っていた。


「二人でお願いします」

「はい」


 渡されたのは体を拭くタオルと一つの鍵。


「7番でお願いしますね」

「はい」


 そこでお金を支払うのかと思えば、金は払わずにそのまますたすたと中へと入ってしまう。さらには入ったその先には細長い廊下がずっと続いていてドアのついた小部屋がいくつも並んでいる。

 由美が問う。


「あの、お金は?」

「え? ああいいのよ。職業傭兵の人はここ無料だから」

「そうなんですか?」

「ええ。傭兵ギルドが負担してくれるのよ」


 それはいわゆる福利厚生というやつだ。


「えと、7番だったわね」


 扉に真鍮製のプレートで数字が描かれている。7と記された扉を探して鍵穴に鍵を差し込んでロックを外す。扉を開けて中に入れば普通に脱衣場だった。

 浴室との間に扉は無く、天井には湯気を逃す格子戸がある。時間的にはすでに夜。浴室の中はオイルランプで照らされている。


「はい」


 ルストがそう言いながら由美にタオル一式を渡した。


「共同浴場だからもしかして他の人と一緒だと思った?」

「はい。私の世界にもお風呂屋はあるんですけど大きい湯船に皆で一緒に入るのでちょっと意外でした」


 その問いにルストは着衣を脱ぎながら答えてあげた。


「こういう形式になっているのは一番の理由は揉め事を防ぐためなの」

「え? どうしてですか?」


 由美もルストに習って脱ぎ始める。藤製の網かごがありそこに衣類をしまっていく。


「職業傭兵って意外と人に言えない事情を抱えてる人が多いの。体中に傷のある人も多いし、後ろめたい前職業を持っている人の場合、入れ墨を彫ってる人もいるしね。義手や義足を使っている人の場合なくなった手足を見られるのを嫌がる人もいる。そこでこういう形が考えられたのよ」

「へえ」


 由美は思わず感心していた。でももうひとつ理由があった。


「あともう一つは伝染病の予防ね。たくさんの人で一緒に入るとそこから流行病が広がることもあるから、そういうのを防ぐ理由もあるの」


 そう言いながら服を脱ぎ終えると湯浴み用のタオルを手に湯船と向かう。それを追うように由美も湯船へと向かった。

 湯船は大きい丸形で浅い船底のように丸みを帯びている。その一角にお湯の出入り口がありそこから後ろの風呂釜につながっているらしかった。

 湯船の片隅に木枠で作られた手桶がある。それを手にして自分の体にお湯をかける。手桶を由美に渡して先に湯船に入り、由美があとから入ってくるのを待つ。

 二人揃って湯船の中でまずは一息。


「ふぅ」


 深呼吸をした後にルストは由美の様子を伺った。お湯の中に体を沈めて人心地ついているようにも見えるが、その表情の片隅に一抹の不安が残っているのをルストは見逃さなかった。


「由美」

「はい?」


 ルストはそっと語りかけた。


「怖い?」


 シンプルな言葉。だがそれは由美の本心を打ち抜いていた。


「――――」


 言葉は返ってこない。だが由美は静かに頷いた。そして自分の身を隠すかのように湯船の中に首まで浸かってしまう。

 その気持ちの現れ方をルストは理解していた。


「そうだよね。怖くないはずないよね」


 由美の隣に寄り添うようにルストも湯船の中に体を沈める。お湯の温かさを感じながら語り始めた。


「私ね、今までに2回、絶体絶命の状態に陥ったことがあるの」


 その言葉に由美の顔がかすかに動く。ルストの言葉は続いた。


「国境線を越えて敵の領域を調査する偵察任務だったんだけど、一度目は仲間とはぐれと孤立した、2回目は部隊ごと複数の敵部隊に挟まれて完全に逃げ場を無くした」


 由美の口が開いて言葉が漏れる。


「そんな、大丈夫だったんですか?」

「まぁ、大丈夫だったからこうして生きてるんだけど。その時は生きた心地がしなかったな」


 由美は真剣な表情でルストの話を聞き続けた。


「1回目は一人で敵に囲まれて追いかけまわされて取り押さえられて、女には定番の仕打ち」


 由美は恐る恐る尋ねる。


「襲われたんですか?」

「うん、服を破かれて今一歩ってところまでね。その時はぐれていた仲間たちが駆けつけてくれて返り討ちにしてくれた。無事に生還できたけどあの時の恐怖心を乗り越えるのに1ヶ月はかかったかな」


 傭兵をしているというルストの言葉は由美の内心には、よりリアルなイメージで染み込んできていた。だが悲惨な過去を淡々と語るルストに不思議な強さを感じずにはいられなかった。


「2回目は仲間ごと追い詰められた。敵に二手から挟まれて完全に逃げ場を無くしたの。限界まで追い詰められて。これはもう死ぬしかないと覚悟を決めるところまで行った。でもそんな時に不思議と頭が冴えたの」

「―――」


 由美は無言で真剣にルストの話に耳を傾けていた。


「人っていうのはね、ギリギリまで追い詰められると不思議なくらいに力を発揮するの。人の生命力っていうのは普段は3分の1くらいしか使われていないらしいの。でもギリギリまで追い詰められて、命の危機に瀕していても、自分の中の生きたいという欲求と強い心が結びついた時、残された3分の2の力が目を覚ますの」


 ルストは語る。


「2度目の危機の時は限界を超えた時、不思議なくらいに頭が冴えていた。逃げ回りより反撃するべきだと私の中の理性が答えを導き出していた。

 自分一人で襲撃者たちへと迫ると私たちを包囲している敵の中に明らかに練度の低い若い兵士がいることに気づいた。私はそこを一人で襲撃すると数人を打ち倒した」

「それで?」

「もちろんそれが突破口になって包囲網からの脱出に成功。無事に帰還したってわけ」


 ルストは改めて由美の顔をじっと見つめた。そして彼女を勇気づけるかのようにこう告げたのだ。


「由美、あきらめちゃダメよ。恐怖に飲まれるのは失敗のもと。たとえ残念な結果に陥ってもそこから次の成功へとつながる〝何か〟を見つけ出すの。確かに明日の11時20分の試しで成功しないかもしれない。でもそれは失敗じゃない、そのやり方では駄目だったということを見つけ出したと言うことでもあるの」


 そして、ルストは由美の肩を片手でそっと抱いた。


「あなたが今、とてつもない不安の中にいるのはよくわかる。あなたがいつも行っていたやり方が通用しなくてどうしていいかわからないという気持ちが拭えないのもわかる。でもだからこそよ〝諦めてはだめ〟諦めない限り人は死なないわ」


 死なない――、それは傭兵として戦場に立っているルストだからこそ口にできた言葉だったのだ。

 そしてルストは由美へと告げた。


「明日は頑張りましょう」

「はい」


 湯船の中の裸の付き合い。二人は心をひとつにしたのだった。

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