いけのむこうがわ
葛原瑞穂
【短編】いけのむこうがわ
あるところに男の子がおりました。今日は父親に連れられて祖父母の家に来ています。
男の子の母親は亡くなっていて、明日がちょうど三回忌、それに合わせて祖父母の家に来ているのです。
父が言うには、男の子がこちらに来るのは三回目との事でしたが、前に来たのは三歳の頃だったらしく、ほとんど記憶にありません。
男の子は普段、都会に住んでおりました。それに比べてこちらはずいぶん田舎で、見慣れない風景に心を躍らせながら探検のつもりであちこち見て歩きました。
しかし、行けども行けども同じような景色ばかり。途中小川が流れていて小さな魚が泳いでいるのも見えましたが、とくに興味をひかれませんでした。
この村は
最初に比べひどく遅くなった歩みは、村の真ん中あたりに来る頃にはすっかり止まってしまいました。
ひたいにふきだす汗を手で乱暴にぬぐい、日差しから逃れようと木陰に入ったところで、ふと林の奥につづく小道を見つけました。
どういうわけかその道が妙に気になって、そっとのぞき込んでみました。吸い込まれそうになる一本道がしばらく続き、その先は緩やかに右へカーブしています。その先に何があるのかと目で追ってみますが、木々が生い茂っていてどうなっているのか分かりませんでした。
男の子は半ば無意識に林の中に足を踏み入れました。
少し歩くと、小さな川が流れており、丸太で作った古い橋がかかっていました。手すりもないその橋をおっかなびっくり渡り、ようやく向こう側にたどり着きました。
その途端、ざあっと風がふき、背後で落ち葉が舞い上がったように感じました。
「え、何?」
反射的に後ろを振り返りましたが、とくに変わった様子はありません。不思議なことに、帰ろうという気持ちにはなりませんでした。
男の子は、再び林の奥に目を向けると、ゆっくりと歩き始めました。
50メートルほど進んだところでカーブに差し掛かりました。男の子はそばにあった太い木の幹に隠れるようにしてそっと奥の様子を伺ってみましたが、今までの道と変わりありません。ただ、少し先に開けた場所があるようです。
彼は木の陰から出て、また歩き出しました。開けた場所までやってくるとそこには小さな池があり、その周りだけ木がなく広場のようになっていました。
池をのぞき込んでみても、青緑色に濁っており水底が見えません。
「危ないなあ、フェンスもないなんて」
ふいに水に落ちた時の事が頭をよぎり、思わず後退りました。こんなところで溺れでもしたら、どれだけ叫んでも誰にも聞こえそうにありません。
顔をあげ、改めて辺りを見まわそうとしたところで、真後ろに女の子が立っているのに気づきました。
「ひっ!」
誰かがいるとは思っていなかった男の子は、驚くと同時に、独り言を聞かれたかと思うと恥ずかしさに耳が熱くなりました。
どうにか落ち着きを取り戻すと、ようやく女の子を正面から見ることができました。どうやら男の子よりわずかに年下のようです。古ぼけた熊のぬいぐるみを大事そうに抱え、不思議そうな顔つきで男の子を見上げています。
「ねえ、お兄ちゃん、どっから来たの?」
女の子はにっこり笑って話しかけてきました。
祖父の家は確か遠野、といったはず。そう答えると、女の子は聞いているのかいないのか、
「そっか。ね、一緒に遊ぼう」
そう言うと、急に駆け出しました
「鬼ごっこ! お兄ちゃんが鬼だよ!」
「えっ、ずるいぞ」
男の子は急いで女の子を追いかけました。しかし、女の子は飛ぶように駆け回り、まるで追いつくことが出来ません。
しばらくして、女の子が離れた所で腰に手を当て
「お兄ちゃん、走るの遅い」
と、頬を膨らませました。
「はあ、はあ、はしるのは、はあ、や、やめにしよ、うよ」
かろうじてそれだけ言うと、男の子は膝に手をつき、その場に止まってしまいました。流れた汗が顎をつたって落ち、草の葉を濡らしました。
「つまんないなあ」
女の子は口を尖らせながら傍までやってきました。これだけ走り回ったのに、汗どころか息ひとつ乱れていません。田舎の子どもはなんて元気なんだ、と心の中で苦笑していると、
「えっとねえ、じゃあ、かくれんぼ!」
次なる課題が出されたのでした。
開けた場所といっても、樹木が生い茂るうえに土地勘がないので、女の子がいったん隠れるとまったく見つけることができません。
毎回のようにヒントをもらいながら、ようやく見つけるという繰り返しでした。こんな遊びのどこが楽しいのかと思いましたが、女の子は楽しそうに笑っています。
そうしてどれくらい遊んだでしょうか。空を見上げると、もう日が傾きつつありました。祖父母の家では夕飯がずいぶん早いことを思い出しました。
「あ、もうこんな時間。はやく帰らないと」
「え? 帰るの?」
「うん。ぼくんちは東京だけど、明日まではこっちにいるから。また明日遊ぼうよ」
そう言うと、女の子は微かに驚いたような表情を浮かべましたが、「うん、またね」とほほ笑みました。
帰る途中で池のほうを見ると、女の子は広場に立ったまま手を振っていました。
翌日、男の子は年忌法要が終わるとすぐに林に向かいました。女の子は昨日と同じように広場で一人、遊んでいました
男の子に気が付くと、女の子は嬉しそうに駆け寄ってきました。
「また来てくれたんだ」
「うん、昨日約束したからね」
あたりを見回しても、やはり男の子と女の子の二人だけで、ほかの子どもの姿は見えません。こんな秘密基地めいた広場なら絶好の遊び場になりそうなのに。
「ここにはほとんど人が来ないの。たまに来てもお爺ちゃんとかお婆ちゃんばっかり。だから、お兄ちゃんが来てくれて嬉しいな」
「そうなんだ。」
「お爺ちゃんとかお婆ちゃんもね、遊んでくれるんだけど、ちょっと遊んだらすぐに向こうに行っちゃうの」
女の子が指さすほうに目をやると、それは池の向こう側でした。
「子どもは危ないから行っちゃ駄目なんだって」
確かに近づくのは危なそうでした。
「でも、知らない大人と一緒に遊ぶのって怖くないの?」
「え? なんで?」
男の子は、家でも学校でも、知らない大人には近づいてはいけないと教えられてきました。最近では「よく公園で会う、知っている大人」でも危ないと言われます。
そう言うと、女の子は心底おかしそうに笑いました。
「都会の子どもは大変だね」
それから、二人は丸太を横倒しにしただけのベンチに並んで腰かけました。
「そういえば、お兄ちゃんはどうして遠野に来たの?」
「お母さんの命日、なんだ。」
「めいにち?」
「僕のお母さん、前に死んじゃったんだ。それでお墓参りに来たんだよ」
「ふうん。お墓はこっちにあるんだ」
「うん、お父さんもお母さんももともと遠野の人なんだよ」
男の子は、そうして色々なことを話しました。
父親は仕事が忙しく、夜遅くに帰ってくること。深夜でも急な呼び出しで仕事に出かけることがあること。
それでも休みの日はきちんと遊び相手になってくれること。
「お母さんがいなくて淋しくないの?」
ふいに女の子が問いかけてきました。男の子はゆっくりと頭を巡らせるように考えてから、
「最初は淋しかったけど、もう慣れちゃった」
男の子は、女の子の家族の事を訊こうとして、そういえばまだ名前を知らない事に今更ながら気が付きました。
女の子は自分のことを「涼子」と言いました。
「わー、お母さんとおんなじ名前だ!僕は涼介。お母さんの涼子の涼と、お父さんの大介の介を合わせた名前なんだ」
突然、あたりを風が通り抜けました。木々はざわめき、枯れ葉が宙を舞います。池の水面も乱れて波がたちました。
風は池を超えてさらに奥へと流れているようです。
女の子はしばし呆然としていました。
「どうしたの?」
涼介が声を掛けると、はっと我に返ったようでした。
「あ、ううん、べつに。そう、涼介君っていうのね。いい名前ね」
それから彼女は、涼介の学校での様子、友達の事、好きな科目、苦手なこと。色々なことを聞きたがりました。
涼介が答えると、涼子はどんなささいな話でも感心したり、驚いたり、じっくりと聞いてくれました。それが嬉しくて、涼介は様々な事を話しました。
ふと気が付くと、もうずいぶん時間が経っていました。そういえば、今日は夕方のバスで帰ると言われていたのを思い出しました。
2時間に1本しかないので、乗り遅れると大変です。
「もう帰らなきゃ。今日、東京に帰るんだ。でもまたお祖母ちゃんちに来たら一緒に遊ぼうよ」
そう言うと、涼子は少し淋しそうな笑顔を浮かべながら、
「そうね、またお母さんの命日になったら来てくれる?」
と言いました。
「うん、分かった。それなら忘れないよ」
涼介は弾けるような笑顔で答えると、走って帰ってゆきます。
涼子は涼介が去った後もずっと、涼介の背中を見つめ続けていました。
池の周りには街灯がありません。日が暮れたうえに月は厚い雲に隠れてしまい、辺りは漆黒の闇に覆われました。
そうして、涼子はようやく覚悟を決めたように振り返ります。
その刹那、雲の隙間から月が顔を出しました。
涼子に月光が降り注ぎます。
その姿は、すっかり大人の女性になっていました。
大きく息を吸い込むと、何かを体の外に追い出すように長い息を吐きだしました。
ふたたび顔を上げた彼女は、とても穏やかな微笑みをたたえています。
そして、ゆっくりと『池の向こう側』へと歩き始めたのです。
いけのむこうがわ 葛原瑞穂 @mizuhokuzuhara
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