第117話 女官アレクシア、宮廷へ

「ふぅ……」


 荘厳にそそり立つ宮殿の偉容に、アレクシア・ベルガルザードは小さく溜息を吐いた。

 ここはガングレイヴ帝国の頂点に座する者のみが入ることのできる場所、帝都宮廷――今までずっと後宮の女官として務めてきたアレクシアには、全く縁のない場所だった。

 勿論、入ったことがないわけではない。

 仕えていた主人――ヘレナが割と自由人であったために、後宮から出てはいけないとかそんな類の決まり事などガン無視して宮廷まで赴くこともあったのだ。それに、時には随伴してやってきたこともある。

 だが。

 今日、アレクシアは、たった一人でここにいる。


「……今日から、ここがわたしの職場ですか」


 衛兵の守る入り口は、余人が入ってはならぬと厳重に警備されている。

 そして、かつてガングレイヴ帝国がその版図を広げた際に落とした南の小国――その国人であることを示す、母から譲り受けたアレクシアの褐色の肌。それは皇族の血筋や上級貴族により成る官僚を中心とした宮廷には、全く相応しくないものだろう。

 何せ、宮廷の侍女といえば一つのステータスでもあるために、就任するためにも貴族としてのそれなりの地位が必要なのだ。

 いくら兄が大陸最強の『青熊将』であれ、ベルガルザード家が武門の名家であれ、子爵位――しかも妾腹の子など、門構えから拒んでいるようにすら感じる。


「しかし、いきなりですよねぇ……」


 はぁ、と小さく嘆息。

 あくまでこの人事は、皇帝から直々に下知を受けたものだ。勿論、「皇后になってからもわたしを侍女にしてくださると助かります」とは言ったものの、決して本気で言ったものではない。皇后に仕える侍女ともなれば、最低でも伯爵位程度は必要であろうし。

 ゆえに、それを本気にとったヘレナも、そのヘレナの要望を叶えてくれたファルマスも、ありがたいとは感じるのだが。

 それでも、新参かつ爵位の低いアレクシアを厭う目を想像すると、今から胃が痛くなってくるものだ。

 女社会というのは、色々とストレスの溜まることも多いのである。


「まぁ、なんとかなりますか」


 とはいえ。

 なんだかんだで半年以上もマイペースなヘレナに仕えてきたアレクシアは。

 若干、その楽観的思考も感染していた。


「ああ、失礼します。よろしいでしょうか」


「……ここは宮廷である。何用か」


 入り口の警護を行っている衛兵に、まず話しかける。

 その表情に、好意的なものは感じられない。それも当然か。本来、アレクシアのような褐色の肌をした者が、この宮廷に入ることなどできないのだから。

 人種差別というのも、少なからず根底に残っているものである。


「本日より、こちらでお世話になります。アレクシア・ベルガルザードと申します」


「……っ! ベルガルザード将軍の!?」


「あ、はい」


「話は聞いております。どうぞ」


 すっ、とすぐに衛兵が手で、宮廷の中を示す。

 ここで「下賤な南の血を引くような女など通すことはできん」などと一蹴される未来も予想していたのだが、その心配は杞憂に終わってくれたらしい。さすがに宮廷に仕える近衛兵は、そのあたりの教育も施されているのだろう。

 むしろ、一兵卒ですら恐れるベルガルザード将軍――アレクシアの兄バルトロメイは、どれほど軍での有名人であるのだろう。


「ええと、どちらに……」


「私どもは、いらっしゃったら通すようにと伝えられているだけです」


「そうですか。分かりました」


 問題なく通過することはできるようだが、どこへ向かえばいいか分からない。

 何せ、今日から皇族の直属侍女として召し抱える、としか言われていないのだから。


「ふむ……」


 ひとまず、宮廷の中を歩いてみる。入り口で立ち止まっていても、怪しいだけだ。

 侍女らしい者がいれば、責任者の下に案内してもらえばいい。あとは、少ないながらも知り合いでもいてくれれば、話を聞いてもらえるだろう。

 もっとも、宮廷にいるような知り合いなど――。


「あらー。やっと来たのねー」


「……」


「ごめんなさいね-。迎えに来るのが遅れちゃったわ。ファルマスにはちゃんと、わたくしの方から迎えに行くって言ってたんだけどね。ささ、そんなに緊張しなくてもいいわよ。こちらへいらっしゃい」


 そんなアレクシアに話しかけてきたのは、何度か後宮で見た姿。

 そして本来であれば、アレクシアなどそのお姿を見ることすらできないだろう天上人である。

 だというのに、限りなくフレンドリーに。

 限りなくフリーダムに、アレクシアに話しかけてきたその人は。


「こ、皇太后、陛下……?」


「ええ。まず色々と案内するわね」


 当代皇帝、ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴの実の母にして、宮廷において最も影響力があると言われている女性。

 皇太后――ルクレツィア・ハインリヒ=アルベルティーナ・ガングレイヴ。












「ささ、こちらが離宮よ。ここが、主にわたくしが暮らしている場所ね。ヘレナちゃんも、皇后になった後にはここで暮らしてもらう形になるわねー」


「こ、皇太后陛下に、このようにご案内をしていただき……」


「いいのよ-。わたくし、普段は暇だもの。今日は特に予定とかもなかったから、新しい侍女の案内くらいはさせて頂戴」


 うふふ、と微笑むルクレツィアに対して、アレクシアの鼓動は高鳴りっぱなしである。

 自分が皇族に仕える――それは理解していたのだが、だからといって初日から皇太后とのエンカウントなど想像すらしていない。むしろ、皇族に仕えるとはいえ相手は皇后になったヘレナであるだろうから、大して今後の心配などしていなかったのである。

 だがこのように、皇太后自ら案内してくれる――その事実に、改めてアレクシアは自分が皇族に仕えるのだと理解した。


「その、こちらには、皇太后陛下と……」


「ファルマスの執務室は宮廷の方にあるんだけど、こっちは主にわたくしとアンジェリカが使っているわね。一応ファルマスの部屋もあるんだけど、あの子、ほとんどこっちに帰ってこないのよ。それだけ、後宮で過ごす時間が楽しいのねぇ」


「……なるほど」


 ガングレイヴ帝都宮殿。

 その全容は、宮廷、離宮、後宮から成り立っている。表の政治を行ったり、官僚の執務室が存在するのが宮廷であり、皇族のプライベートな空間が離宮という分け方だ。

 皇太后ルクレツィアはほとんど離宮に引きこもって、宮廷にほとんど出てこないと評判の人物である。それも全て、「女が政治に口を出すべきでない」というルクレツィアの考えによるものだが。


「離宮にいる侍女は、全部で十五人ね。別にわたくし、そんなに人数はいらないって何度も言ってるんだけど」


「どのような役割分担をしておられるのですか?」


「常に五人ずつ、わたくしとアンジェリカの側仕えよ。残りの五人はお掃除だったり、お茶の支度とかしてくれるわ」


「承知いたしました」


 ルクレツィアと共に歩みを進めて、暫く経ってから止まる。

 その足が止まった場所にあったのは、一つの扉だった。


「これからわたくしたちに仕えてくれることだし、アンジェリカにもご挨拶をさせないとね」


「アンジェリカ様は、何度か面識がありますが……」


「それでも、これから仕えてくれる侍女ですもの。挨拶くらいはね」


「はぁ……」


「アンジェリカ、入るわよ――」


 ルクレツィアが、その扉を開くと共に。

 恐らく扉によって防がれていたのであろう、中の声が漏れる。


「さぁ、言ってみなさい! どこがいいの!」


「はぅぅんっ!! そこ、そこですぅっ!」


「あら。ちゃんと言ってくれなきゃ分からないわよ。どこがいいの?」


「も、もっとぉ……!」


「まったく、どうしようもない欲しがりね! ほら、もういっちょ!」


「はぁんっ! は、激しい、ですわぁ……!」


 扉の隙間から見えたのは、何故か体にダーツの的のような模様を描いたクリスティーヌ。

 そして、そんなクリスティーヌに向けて、山盛りの石から一つずつ投げつけるアンジェリカ。


「……」


「……」


 ルクレツィアは無言で扉を閉めて、とても慈愛に富んだ笑顔で、アレクシアを見た。

 ここは見なかったことにして頂戴。そんな意味を込めて。

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