第98話 宰相の心配

「むむぅ……」


「もう間も無くでしょう。当初より、一月の間だと聞いておりますから」


「まったく、あやつの勝手な行動で、儂がどれほど苦労したことか……」


 後宮の入り口。

 そこで、不動の衛兵として存在するグレーディアと、日に三度は必ず訪れるアントンが立っていた。

 ファルマスを相手に、何故か突然に新兵訓練ブートキャンプなどとすると言い出した娘――ヘレナ。最初から、一月の間だけでだとは聞いていた。

 そして今日は、ファルマスが姿を消してちょうど一月。


 もしも今日出てこなかったら、自ら後宮に押し入る覚悟を持って、アントンはここを訪れていた。


「しかし、儂もまさかこの歳で、後宮の番をすることになるとは思わなんだな」


「……グレーディア殿には、我が娘が迷惑をかけた」


「なに。アントン殿以外にも、何人もの官吏が来たからな。『陛下に早急のご確認を!』と言っていたが」


「幾人も、ここで阻まれたと申しておりましたな」


 はぁ、と溜息を隠すことなくアントンは腕を組む。

 事実、ファルマスは皇帝だ。この宮廷において、最も権力を持つ者である。そして皇帝であるファルマスの認可が降りなければ、決済できない書類というのも多いのだ。

 特に外交関係など、ほとんどの他国に対して「陛下は体調を崩しておりまして」と述べることが精一杯だった。内政面では、まだアントンで決済できることのできる案件が多かったことが幸いだったが。

 それもこれも、一月もの間ファルマスを拘束していたヘレナのせい――。


「……」


 ふつふつと、怒りすら込み上げてくる気がする。

 せめてこれほど突然ではなく、以前にファルマスが一月の視察に出ていたときのように、準備万端であれば苦労はしなかっただろう。まだファルマスの施している内政面の改革は、万全ではない。いつかはファルマスが不在であっても問題なく宮廷が回るように改革をしていく予定だが、その成果はまだ半分にも至っていないのだ。

 もっとも、その改革がなければもっと宮廷は混乱していただろう。いつぞやの相国、アブラハム・ノルドルンドのように、この機会に宮廷での権力を欲しいままにするような愚臣が現れた可能性もある。

 だが、結局のところそれは結果論だ。結果的にファルマスの執務室に書類が溜まる程度に混乱が抑えられただけであり、それはファルマスの不在を埋めようと全員が頑張ったからに過ぎないのである。


 その全ての原因となったのが、自分の娘ヘレナ――。


「どうされた、アントン殿」


「娘を一発殴ってやりたくてたまらぬ」


「やめておけ。殴った腕が折れるぞ」


「知っておる」


 そもそも、アントンは文官である。武の教養など全くない。

 何故こんな自分が育てたはずの子供たちが、どいつもこいつも脳が筋肉で凝り固まっている者ばかりなのか。真剣に、亡き妻レイラの血がどれほど濃いのか神に問いただしたくなってくる。

 そして、武の教養がないアントンがヘレナを殴ったところで、ヘレナにしてみれば兎に影を踏まれたほどにも感じないだろう。

 それが分かっているからこそ、尚更苛立つのだ。


「いや、実に濃厚な一月だった。俺もまさか、これほど濃密な訓練を受けることになるとは思わなかったな」


「それは僕も同じですよ。国に帰ったとき、どう思われるでしょうね……こんなにも痩せるとは思いませんでした」


「諸君にとっても、有意義な一月となったことは喜ばしい。貴公らが国に戻る前には、また宴を開かせてもらうとしよう」


「――っ!」


 後宮の奥から、アントンに聞こえる男たちの声。

 それは恐らく、三人が並んで話している声だろう。ファルマスと同時に消息を絶ったとされるダインスレフの第一王子アーサー、ガルランドの第二王子ラッシュで間違いあるまい。

 ちなみにラッシュについては、護衛として随伴していたガルランドの英雄『紅獅子』ゴトフリート・レオンハルトが、王子の誘拐事件ということで真剣に本国より兵を派遣しようとしていたくらいの大騒ぎになった。もっとも、そんなゴトフリートの行動に対して、ラッシュの妻であるリリスから『とりあえず心配しないで』と文が渡ったことにより、その場で押し止められたらしいが。


「さて、ここまでだな……おお、アントン。久しいな」


「陛下――」


 一月前と変わらない、鮮やかな銀色の髪。

 しかしそれは、全く手入れをされていないぼさぼさのそれで、着ている服もとても皇帝には見えない安っぽい麻製のものだ。そして何より、全体的に一回りは大きくなったのではないかと思えるほどに、はち切れそうな筋肉で覆われている。

 その表情は、憑き物が落ちたかのように晴れやかな笑顔――。


「丁度良い場所にいたな、アントン」


「……陛下のお帰りを、お待ち申し上げておりました」


「おお、そうであったか。余の不在の間、苦労をかけた。だが、これからもう少し働いてもらう。まずは、軍の再編を行いたい」


「は……」


 口調は、ファルマスのもの。

 態度も、ファルマスのもの。

 しかしどこか、ファルマスではないような――そんな、謎の違和感を覚えてしまう。


「八大将軍に、もう一つ加える。これは、皇帝である余が兼任する将軍だ。禁軍とはまた違う、余の近衛で構成された騎士団を作る」


「は……? そ、それは、陛下が将軍になると、そういうことですか……?」


「うむ。名は今後考えてゆくが、いざというとき、余は余の騎士団を用いて戦場に出る。さすれば、いつぞやのリファールの侵攻のときのように、弱卒の禁軍を出さずとも良くなろう」


「……」


 確かに、ガングレイヴ帝国において軍権は分立しているが、直属軍はあっても良いだろう。

 いざというとき、皇帝の権限で動かすことのできる軍というのは貴重だ。それこそ、八大将軍が出張っている場合であっても、迎撃することができる姿勢を作れる。

 だが、何故それを、早急に作る形となるのか。


 まるで。

 ファルマスが、すぐにでも軍を率いたいと、そう思っているような――。


「ああ、それからもう一つ、考えているのだがな」


「は、は。お考え、お聞かせ願えますでしょうか」


「うむ。余はこの一月、実に充実した時間を過ごせた。今までの余が、どれほどの弱卒であったか思い知った。今の余であれば、ノルドルンドが反旗を翻したときのように、戸惑い逃げ惑うこともなかろう。これほどまでに、己が強くなることに喜びを覚えるとは思わなかった」


「……」


 嫌な予感しかしない。

 そして、できればこの予感は外れてほしい。

 だけれど、ファルマスの形の良い唇は。

 当然のように、アントンのそんな願いなど知ったことかと告げるように。


「ゆえに、宮廷の官吏へ交代で訓練を施す。それぞれ一月の短い期間ではあるが、一通りのことは学べるであろう。最終的には、官吏としての最初の研修としてこの訓練を施す形にもっていきたい。できるな、アントン」


「……」


 それは。

 この宮廷で働く者全てに対して、軍の訓練を受けさせるということ。

 文官であれ、次官であれ、大臣であれ、宰相であれ、誰もが軍の新兵訓練ブートキャンプを受けるということ。


 おほん、とアントンは一つ咳払いをして。

 こんな風に皇帝を変えてしまった己の娘を呪いながら。


「陛下、お気を確かに」


 そう、諌めることしかできなかった。

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