第91話 閑話:後宮は今日も平和です

「おやー?」


 後宮の中庭。

 そこで、最初に違和感を覚えたのはエカテリーナだった。


 いつも通りの、訓練中である。

 基本的には毎日、中庭で訓練を行っている後宮の姫君たちだ。もう一人前の戦士として認められた一期生、フランソワ、マリエル、シャルロッテ、クラリッサ、アンジェリカの五人は自身の個別訓練と相棒バディへの指導、二期生は一期生の指導を受けながら、交代で三期生への訓練指導だ。今日の三期生指導担当はエカテリーナである。

 目の前で三期生――ウルリカ、タニア、ケイティの三人が腕立て伏せをするのを監督しながら、唐突にエカテリーナが挙げた声に各自が反応する。


「どうしましたの、エカテリーナ」


「いえー……大したことではないんですけどー……」


 うーん、と首をひねるエカテリーナ。

 そして三期生、それぞれ個別訓練をしている一期生と二期生たちを見ながら、唇を尖らせる。


「ヘレナ様はー、今日も来ないのですねー」


「はっ! 確かに最近あまり来てないです!」


「そういえば、今日も見ていませんね」


「特に、最近忙しいとかそういう話は聞いていませんの」


「……お姉様が最後に訪れたのは、七日前ですわ。それ以来、お姿を拝見していません」


 エカテリーナの疑問に答えるのはフランソワ、クラリッサ、シャルロッテ、マリエルだ。

 訓練の指導を受けるとはいえ、ほとんど教わることもない一期生たちは、特にヘレナの不在に対しての疑問を持っていないらしい。もっとも、マリエルだけは寂しそうに言っているが。

 ふーむ、とエカテリーナが腕を組む。


「これはー、何か事件のにおいがしますよー」


「そんなわけないでしょう。ヘレナ様だって忙しいのよ」


「まぁ、そう考えるのが無難でしょうね……」


 エカテリーナの適当な言葉に突っ込むのはカトレア、呆れたように同意するのはレティシアだ。

 しかし、そんな二人の言葉に対して、エカテリーナはちっちっ、と指を振る。


「ここでもう一つー、疑問点があるのですよー」


「何ですの」


「ここ最近はー、陛下も来ていないのですよー」


「……あー」


 全員が、あー、そういえば来てないわー、と同調する。

 本来、最も歓迎しなければならない相手であるというのに、完全に忘れていた感じで。

 ヘレナが来なくなる日までは、毎日午前中は訓練に参加していたというのに。それでも存在を忘れられる程度には、後宮における威光がないらしい。


 そこで「ああ、なるほど」とカトレアが手を打つ。


「ふーん……まぁ、それなら仕方ないわよね」


「何か知ってるんですか! カトレアさん!」


「いや、別にわたくし何も知らないけど……ヘレナ様、皇后陛下だもの。多分、世継ぎを作るために色々営みでもやってるんじゃない?」


 そんなカトレアの言葉に。

 一瞬、全員が止まる。


「……」


 世継ぎ。

 皇后陛下。

 色々営み。

 その全てが、彼女らの知っている『ヘレナ様』に結びつかずに。


「あ、あー……た、確かに……」


「世継ぎ! ヘレナ様の和子ということですね!」


「なるほど。確かに、お世継ぎを作るのはヘレナ様の仕事ですの」


「むぅ……お姉様が汚されていると思うと、あたくし胸が張り裂けそうですわ……」


「そう言いながら胸を強調する仕草をやめないと、今すぐぶん殴りますの」


「あー……そういう理由が……」


「意外につまらない理由でしたー。残念ですー」


 全員が、それぞれ口にする。

 全員、「その発想はなかった」とでも言うかのように。


「……いや、普通そういう理由でしょう。ヘレナ様、皇后陛下だし」


「いやー、それは考えつかなかったですねー」


「じゃあ、あんたら何してると思ってたのよ」


 カトレアのそんな疑問に。

 そこにいた全員が、一斉に口を揃えて言った。


「陛下に訓練では?」


「陛下に訓練ですの」


「陛下に訓練です!」


「陛下に訓練ですわ」


「陛下に訓練でしょ」


「陛下に訓練ですー」


「……」


 うぅん、と頭を抱えるカトレア。

 ここは後宮である。後宮にいる皇后のもとを皇帝が訪れるのは、本来そういう目的のときだけだろう。

 そういう本来の後宮としてのあり方すら、彼女らは訓練漬けの毎日のせいで考えなかったらしい。

 もっとも、それも当然のことだろう。

 ここは後宮というより、最早いい汗が飛び交う訓練施設なのだから。


「……ま、まぁ、お姉様がご不在の間も、訓練は欠かさないようにしましょう」


「確かに、今は訓練の時間ですの。無駄口を叩いてる暇はありませんの」


「お昼から、久しぶりにお茶会でもしましょうか。あたくし、ご用意させていただきますわ」


「はいっ! わたし参加しますー!」


「いいですね。最近、あまりやってなかったですし」


「まぁ、マリーがどうしても寂しいと言うなら、出てやらないこともありませんの」


「はいはい。どうしても寂しいから出てちょうだいロッテ」


「仕方ありませんの」


 そんな風に。

 筋肉を鍛える喜びに満ち溢れた令嬢たちは、その首魁が不在であれど訓練を絶やさない。


 後宮の午前は、いい汗が飛び交いながらこんな風に過ぎてゆく。












 ちなみに。


「うりゃりゃりゃりゃぁーっ!」


「はうぅんっ! もっとぉ!」


「おりゃりゃりゃりゃぁーっ!」


「はぁんっ! たまりませんわぁっ!」


「よっしゃぁ! 次ぃ!」


「さぁ! わたくしにもっと苦痛を与えて!」


 そんな中庭の端っこで。

 投げることに特化した嗜虐趣味者サディストと受けることに特化した被虐趣味者マゾヒストは、今日も平常運転で変態だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る