第92話 ファルマス成長する

「はぁぁっ!!」


「ふっ!」


 ファルマスの放った鋭い拳を、リリスは髪を軽く掠める程度で躱す。

 この部屋に監禁されて、今日で三週間――二十日を越える日数となっている。日光の差し込まない空間であるために昼夜の感覚は微妙だが、恐らくそのくらいは経過しているだろう。


 突然、謎の女に監禁されたかと思えば、水を与えられず壮絶な渇きに襲われ、ようやく勝利したかと思えば「格闘術学んでみない?」とか訳の分からないことを言われ、現在に至る――それが、ファルマスの現状である。

 リリスの姿勢としては、今までと全く変わりない。ただ、「私に勝つことができれば、出してあげるわ」の一点張りである。

 もっとも、最初と大きく違う点は、水と食事だけはちゃんと出してくれることだろう。


「もっと背筋を伸ばしなさい。目線はまっすぐ。相手から逸らさずに」


「ああ」


「構えは大分良くなってきたわ。右半身の構えを決して解かないように。相手が翻弄してきたとしても、重心を動かすだけで構えは変えずに迎え討つことができるわ」


「うむ」


 あとは、助言が的確になってきたことだろうか。

 格闘術を教えると言った、その言葉に嘘はなく、ファルマスはリリスの持つ格闘術の全てを教わり、吸収していた。


「それじゃ、今から屈伸を五十回。その後、もう一度正拳突きをしてから、私と手合わせ。その後休憩に入るわ」


「承知した」


 リリスの言葉に従い、手を頭の後ろにやって屈伸を始める。

 無茶苦茶な環境であるし、この女の指示に従う必要など、本来はどこにもない。だがファルマスは拒むことなく、リリスから言われた通りに鍛錬を行うのがこのところ毎日のことだった。

 本来、皇帝であるファルマスには仕事が多い。朝議にも参加せねばならないし、ファルマスが最終決定を行わなければならない書類も多いし、他国との折衝もまだまだ必要だ。こんな風に外部との接触を遮断されては、それだけ国政が滞るというのが事実である。

 だというのに、何故か。

 ファルマスは、急いでここから出ようという気持ちが、なかった。


「四十九……五十……ふぅ、終わったぞ」


「それじゃ、左正拳突き百、はじめ」


「承知した」


 格闘術を教わり始めて、最初に行ったのは基礎的な訓練だった。

 腕立て伏せ、腹筋、屈伸から始まり、あひる歩き、空気椅子といった足腰に負担をかけることを強いられた。正拳突きや手合わせが訓練の中に入ってきたのは、ここ二、三日のことである。

 だが、その結果はどうか。

 最初は足が震えてまともに動くこともできなかったというのに、今では屈伸五十回など軽くこなせてしまう。


「二十九、三十……」


「芯がぶれているわ。もっと背筋をまっすぐ。一からやりなおし」


「くっ……一、二……」


「目線を逸らさない。自分の関節が、どうやれば最速の動きを出せるのか意識して動かしなさい」


 リリスは厳しい。

 だが、それだけファルマスは、自分が強くなっていくのが分かるのだ。

 この訓練が始まるまでの自分が、どれだけ脆弱だったか思い知らされるくらいに。


 己を虐め、汗を流し、それだけ成長してゆく己の体――そこに、少なくない快感を抱く程度に、ファルマスは毒されていた。


「百っ!」


「よろしい。それじゃ、手合わせを始めるわ」


「ああ……」


 ぜぇ、ぜぇ、と荒い息を、深呼吸して落ち着かせる。

 ファルマスが教わっているのは、あくまで徒手格闘の基礎も基礎だ。右半身の状態で構えて、右手で鋭く短い突きを繰り出しながら、腰を使って左の正拳突きを入れる――いわゆる、ワン・ツーである。

 右半身で正中線を隠すことにより急所への一撃を避け、手数の多い右手の突きで翻弄しながら左の一撃を入れるという、基本中の基本である。だが、それは鍛えられた足腰と弛まぬ修練により、一撃必殺の戦法へと変わる。

 事実、一度リリスに「お手本」として見せられたその左拳で、ファルマスは一撃で弾き飛ばされてしまったのだから。


「はぁぁっ!!」


 立つリリスへ向けて、まず翻弄の右拳を繰り出す。

 体重も乗っていない牽制の攻撃でしかないが、それでも人間というのは、己に向かってやってくる攻撃には対処してしまう癖がある。事実、大した威力でもないそれはリリスの受け手によって流され、躱され、一打も届くことはない。

 だが、これはあくまで牽制。

 こちらに注意を引かせておくだけの攻撃に過ぎないそれは、どれほど躱されたところで重心が揺らぐことなどない。


「ふっ!!」


 そして、本命の左拳。

 腰を回し、体重を乗せ、繰り出す己の最速。それは風を裂くように鋭く。しかし聳える巨峰のように重く。


「ぐっ……!」


 受けるリリスの、防御の上からでも効く一撃を。

 ただそれだけを求めて、ファルマスは必死に鍛錬してきたのだ。

 ミシミシと腕に伝わる、まともに当たれば骨も砕くのではないかと思えるほどの一撃に、リリスは軽く笑みを浮かべた。


「見事よ。今までの鍛錬の成果が出たわね」


「ならば……!」


「ええ、そうね……それじゃ、選ばせてあげるわ」


「む……?」


 リリスが、指を一つ立てる。

 選ばせてあげる――それは、一体。


「一つ、このままの流れで、連続攻撃の修練に入る……そうね。左の正拳突きから蹴りに入るって流れもあるし、裏拳に入ってもいいわ。まだ蹴りは教えていないから、最初は蹴りの型からかしらね」


「ほう、蹴りか……」


「足は、腕よりも遥かに筋肉量が高いわ。わたしみたいな軽い体重でも、あなたを吹き飛ばす一撃が出せるほど」


「ふむ……」


 ファルマスは腕を組み、頷く。

 近接戦闘において、手段がいくつもあるというのは好ましい。しかも、それが正拳突きを超える威力となれば尚更だ。


 そして、リリスは指をもう一つ立てる。


「二つ」


「む……?」


「ここから出してあげる。その後は、皇帝の職務でも何でも戻るといいわ。まぁ、どうせ一月の予定だったから、一週間早まるだけだけど」


「……」


 ファルマスは皇帝だ。

 このガングレイヴ帝国という巨大な国における、最高権力者である。ファルマスが確認しなければならない書類は多いし、滞っている執務も多いだろう。

 ならば、ファルマスが選択するのは当然――。


「そうだな……」


「ええ、どうする?」


「あと一週間か。時間がないな。早く俺に蹴りを教えろ」


 だが、その働き方は改善してきた。

 少々ファルマスが不在であっても、国政に問題が起こらないよう手配してきた。

 ならば、ファルマスに従う優秀な部下たちに、今は任せるのが最善だろう。


 そんなファルマスの言葉に、リリスは少しばかり驚いたように目を見開く。


「どうした。俺に『一流の格闘術を仕込んであげる』と言った、あの言葉は嘘だったのか」


「……いいえ」


「ならば、さっさと始めろ。まったく、残り一週間とはな。実に短い」


「ええ。それじゃ、蹴りの基本姿勢だけど――」


 かくして。

 ガングレイヴ帝国最高権力者、皇帝ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴは。


 立派な脳筋へと、成長しつつあった。

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